『人として大切なこと』 あとがき|矛盾だらけの人生に正対し、それでも歩み続ける理由
まだ若いと思っているが、私もすでに37歳になった。人生100年時代と言われるが、どんなに長生きをしたとしても、私の人生はあと2サイクルも残っておらず、いつかは必ず終わりを迎える。
昨年、母が71歳で亡くなった。60歳という若さで若年性アルツハイマーを発症し、その後は短い期間で介護なしでは日常生活を送れなくなった。「親孝行したい時に親はなし」とはよく言ったものだが、人生というのは、本当に短い。そして、人はいつ死ぬか分からない。
朝、「行ってきます」と家を出て、そのまま帰らぬ人となることは、枚挙にいとまがない。人生とは、一体何なのか。そんなことを深く考える年齢になった。
だからこそ、この本を書こうと思ったのだ。誰よりも愛する息子に、何かを残したい。
息子はまだ4歳だが、私は決して良い父親ではないだろう。自分に何ができるかを考えた。その答えが、不器用なりに生きてきた中で学んだ「大切なこと」を書き記すことだった。
この本に書いたことは、多くの書籍に書かれていることと似たことかもしれない。それでも、私は他人の言葉ではなく、自分の言葉で伝えたかった。息子が大人になったとき、あるいは私がこの世を去った後に、「父親は何を考えて生きていたのか」を、その肌触りとともに感じてほしかったのだ。そして、私が学んできたことが、彼の人生の歩みを少しでも支えることができれば、これ以上の喜びはない。
「はじめに」で、私はいくつかの問いを投げかけた。
人はなぜ、これほどまでに理不尽なのか。
人はなぜ、こんなにも容易く他者を傷つけるのか。
人はなぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか。
そして、「人として正しいこと」と「世の中の正解」は、なぜこれほどまでに異なるのか。
本編を書き終えたいま、私なりの答えをここに記す。
結局のところ、自らのエゴを見つめることができない人が多いからこそ、人は利己的になり、理不尽に他者を傷つける。そして、傷つけられた側もまた苦しむ。それほどまでに、エゴという存在は恐ろしいものなのだ。そして、「人として正しいこと」と「世の中の正解」が異なるのもエゴがゆえである。
「人として正しいこと」と「世の中の正解」は、しばしば食い違う。理不尽で思い通りにならないこの世界を生き抜くためには、内側に「人としての正しさ」を持ちながらも、外側では「世の中の正解(ルール)」を熟知していなければならない。それが、私が伝えたかった処世術の正体だ。
正論だけでは目の前のことは動かない。組織のルールや派閥、パワーバランスなど、さまざまなことを飲み込んでいくしかないのだ。沈黙を守ること、表向きは従うこと、物事をよしなに解決すること。清濁併せ呑むそのしなやかさこそが、心を守る盾となるだろう。
人生は複雑だ。一直線には進まず、曲がりくねり、時には大きな落とし穴が口を開けている。理屈では説明のつかない不条理も多い。
この報われないようにも思える日々に、一体どんな意味があるというのか。それでも、人はなぜこの道を歩むのか。
それは、自らの「魂」を磨くためではないだろうか。
どんなに大きな資産を築いても、あの世へ持っていくことはできない。唯一持っていけるのは、この世の苦難という「磨き砂」で磨き上げてきた、己の魂だけだ。人生のあらゆる苦しみは、魂を輝かせるための機会である。一つ一つの経験からの学びを大切にして、自らの魂を磨き続ける人生を歩んでいきたい。
本書では人生の厳しさについて多くを語ってきたが、生きていれば人生には素晴らしい経験や嬉しいことも数多い。希望を持って生きていこう。
最後に「幸せ」について記したい。
幸せとは、極めて主観的なものだ。愛する人と過ごすこと、やりがいのある仕事をすること、仲間と喜びを共有すること、豊かさを築くこと。人によってその形は様々だろう。しかし、その根底にある真の幸せとは、「自分の人生に正対し、自分自身で進む道を決められること」なのではないだろうか。
人生では、自分の力ではどうしようもないことが起こる。しかし、いかなる状況にあっても、自らの「心の置き所」を定め、自らの意思で一歩を踏み出すことはできる。どのような選択だとしても、自らが選んだ道だと納得して歩むこと。それが「幸せ」なのかもしれない。
これが正しいのかどうかは、今の私には分からないし、生涯分からないままかもしれない。それでも、私はその問いを抱えたまま、この道を歩み続けようと思う。
末筆ではあるが、これまで私を支え続けてくれた多くの方々、そして亡き母、父、妻、そして息子に、心からの感謝を捧げ、この筆を置きたい。
