レベッカを追われた男が、たった3年で頂点を獲った!RED WARRIORS入門
80年代後半に起きた空前のバンドブームに沸く日本で煌びやかなシンセサイザーと歌謡曲的なメロディが溢れる中、突如として「100%純度のロックンロール」を叩きつけたバンドが出てきました。
その名はRED WARRIORSです。ダイアモンド☆ユカイの華やかなカリスマ性とギタリスト・シャケが奏でる骨太なサウンド——彼らは何故、当時の若者達を狂わせ、今尚、語り継がれる伝説となったのか?

時代の逆風と、引き算の美学
当時はLAメタルや速弾き全盛期でした。ラックエフェクターを何台も並べてハイテクなギターを使うことが「正解」とされていた時代でした。
その中で、シャケのスタイルはあまりにも異端でした。
小暮"SHAKE"武彦 : 実は女優の杉咲花の父親です。
Guitar
Bill Lawrence
シャケ・モデル "ブラックラベル"ピックアップ
リア・ワンピックアップのみ搭載でした。余分なコントロールを一切持たない潔いセッティングがあのサウンドなんだとわかるものでした。



Picking Style
サムピック
ロックギタリストとして極めて異端でした。指弾きも絡める独自スタイルです。
Strap Position
膝下まで下げた低い位置
あのシルエットに憧れて、無理やり下げて練習したファンは数知れません。
リア・ワンピックアップのみで勝負した。——それはギタリストとしての「引き算の哲学」の体現でした。余計なものを全部削ぎ落とした結果として生まれたエッジの効いたあのトーンと「粘りとキレ」を両立させたシャケのギターはテクニックではなく音への一点集中から生まれていた。
ワンピックアップ1発で、空気は変えられます。それを証明したのがシャケだった。
主な活動歴


500円ライブという反骨の精神
「学生にお金がないから」と、ワンコイン500円でライブをやっていた時期がありました。それは単なる集客策ではなかった。金がなくても本物のロックンロールを届けたい——その意地と愛情の現れでした。
ビジネス至上主義の音楽業界の中で、彼らは常に「時代との摩擦」を抱えていた。本物であるが故に常に異端児扱いされました。
それでもステージに立ち続けた。そのぶれない姿勢こそが、ファンとの「共犯関係」を作り上げていた。
「本物」だけが生き残る、30年越しの証明
結果として、RED WARRIORSは一過性のブームで終わらなかった。
彼らが提示した「ブルースを根底に持つロックンロール」は、流行り廃りに左右されない強度を持っていました。
1989年の解散から数十年を経た今も楽曲が色褪せないのは何故か?
小手先のテクニックではなく、魂を震わせる「音の説得力」にこだわり続けたからです。シャケのギター1本とユカイの声ひとつで空気を変える力——それこそが、彼らが到達した結論だった。

当時、親から頭おかしくなったか?って聞かれました。
1989年の解散について、後に彼らは「調子に乗り過ぎた」と率直に語っています。武道館を埋めて、西武球場を沸かせ、頂点を極めた先に待っていたのはバンドとしての方向性を見失った姿でした。
栄光と挫折はいつも背中合わせです。
解散後、シャケはかねてからの夢であった渡米を果たし、本場アメリカでのデビューに挑みました。しかし現実は厳しく、鳴かず飛ばずのまま帰国することになりました。華やかな80年代の記憶を胸に異国で孤独に弦を鳴らしていたシャケの姿はロックへの執念そのものだったに違いありません。
一方、ユカイはソロシンガーとして歩み続け、一定の成功を収めました。
だがそれでもRED WARRIORSのステージで放っていたあの熱量には届かなかった。——本人もファンもどこかでそう感じていたはずです。
バンドとは不思議なものです。個々がどれだけ輝いてもあの4人が同じステージに立ったときの爆発力には敵いません。
だからこそ、再結成のたびに武道館が満員になった。だからこそ、チケットは1時間でソールドアウトになった。それは懐かしさではなく、「本物」への渇望だった。
「調子に乗り過ぎた」と笑って語れるようになるまでにどれだけの時間がかかっただろう?渡米の挫折もソロの葛藤も全てを経て彼らは再びステージに立った。その一音一音には栄光だけでなく、傷や後悔やそれでも鳴らし続けた意地が滲んでいます。
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