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身体の使用 脱構成的可能態の理論のために/ジョルジョ・アガンベン

むずかしかったけれど、自分の関心ごとにずはりハマることが多くてワクワクしながら読み進めることができた。

ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」シリーズの最終巻にあたる『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』
自分の身体を、自分自身を、ちゃんと自分で使えているか
すごく単純化すると本書のテーマはこれだ。

タイトルである《身体の使用》ということばは、「アリストテレスの『政治学』の最初で、奴隷の本性についての定義がなされている箇所に出てくる」ものからとられている。そこでアリストテレスは、奴隷を《人間でありながら、その自然によって、自分自身に属するのではなく、他人に属する者》と定義しているそうだ。
この奴隷と同様に、自分自身に属するのではなく、他人に、いや、権力に属してしまっている現代人の政治的ありかたを問題視するのがアガンベンの「ホモ・サケル」シリーズの最終巻にあたる『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』である。

それはある意味、自分自身の身体や存在の他者による私有化という、最近このnoteで議論にあげている、水や電気といったコモンズの私有化の問題のきわめて特殊かつもっとも問題視されるべき一例だといえるだろう。

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2つに分断された存在

存在と存在者。本質存在と現実存在。可能態と現勢化。
本書でも語られる西洋における存在論における2つの区分。
古代ギリシア、アリストテレス以来の西洋哲学2000年以上におよぶ問題である。

アリストテレスがここで問題にしているのは、言語活動によって指示されるかぎりでの事物=存在者であり、事物=存在者に言及したものであるかぎりでの言語活動なのだ。彼の存在論は、彼が倦むことなく繰り返し述べているように、存在は言われるのであり、すでにつねに言語活動のうちにあるという事実を前提としている。論理学的なものと存在論的なものとがその著作にとってはかくも渾然一体として共属的であるため、西洋哲学の歴史においてカテゴリーは述語作用の類としても立ち現れることとなるのである。

存在は言語活動のうちにある。
一方で、言語活動の対象ではあるものの、言語活動の外に現勢化された存在者がある。

存在というものが2つに分断されて思考され、語られることが当たり前のようになってしまっている。
それは言うまでもなく、心身二元論にも通じる問題であり、ゆえに「身体の使用」などが問題となってくるのだと感じた。

この話が日本人の僕らにとって他人事にできないのは、この二元論的存在論の結果としての現代の西洋起源の生活や経済、社会のしくみにおいて、過程を経ずにただ結果だけを自分たちの社会や生活にあてはめてしまっているがゆえの不具合があるからだ。

たとえば、組織におけるミッション/ヴィジョン/バリューを軸とする組織デザインや、UI/UXという観点でさまざまな生活やビジネスのためのサービスをデザインしようとする考えも、結局のところ、この二元論的存在論がベースにあって正しく機能するものだ。
それを、この二元論的存在論をきちんと社会的に共有された過程をもたない日本において、こうした組織論やUI/UXデザイン的な発想で、しくみのデザインを行おうとしても、うまくいかないのは当然なのだが、そのことに気づかないまま、安易に表面的に方法だけが導入されてしまうといった問題があるからだ。

「デザイン」というもの自体が日本において、いまひとつ機能しづらいのも同様の理由だと思う。

日本においては、可能態としてのデザインと、現実に落ちた現動態としてのデザインされたものの関係が西洋のようには関係づけきれないところがあると思う。

存在と任務、存在と負債

アガンベンは『オプス・デイ 任務の考古学』において、こう書いていた。

存在は自身のなかに作用を含む。存在とは作用であり、同時に、存在は作用から区別される。あたかも、神の子が父から区別され、同時に、区別されえないように。存在がはたらくのではなく、ただ、作用それ自体が存在なのである。

「任務のもとで、存在と実践は、言い換えるなら、人間が在ることと任務が為すことは、不分明なひとつの圏域に入る」とアガンベンはいう。そして「この圏域のなかで、存在は在らなければならないものであり、かつ、存在は在るものでなければならなくなる」のだ。

任務と存在は不文明であり、作用と存在も不文明である。作用をもたらす任務という負債が存在であり、存在者はその負債を抱えることで存在と重なる。ゆえに子は父と重なりあい、キリスト教の典礼において子であるキリストの代務を担う司祭は、任務という負債を担うことで神の存在を明らかにするのだ。

この現実において効果をうむ作用(つまり存在者)と区別されると同時に区別されない存在という、まさにこの引用にあるとおりキリスト教の三位一体の考えとぴったりと重なる存在論のあり方が、西洋起源である、ヴィジョンという可能態と実際の働きという現勢化、あるいはUXという可能態とあらゆる現勢化されたデザインをユーザーとのインターフェースとしてみる見方に、はっきりとつながっているのだけれど、アリストテレス以来の哲学も、キリスト教も、社会生活に深く埋め込まれてはいない、この日本において、それらの関係を感じとるのはなかなかむずかしい。
さらには、その存在と存在者の区切られつつ区切りがないという二重化された結びつきが「負債のもとで、すなわち、在るべきということのもとで、あますところなく解体されるのは、在るということの理念である。そこで法と敬神は一致するよりほかない」とアガンベンのいう、任務―負債―法というつながりをつくってもいるということを理解するのはなかなかに困難なことだ。

存在と存在者の分断が生みだす現代の危機

だが、このあたりのことがわからないと、なぜミッション/ヴィジョン/バリューを軸とする組織デザインと表裏一体なところからブルシット・ジョブが生まれ、UXの改善のもとに大量の貧しいギグワーカーや人々のプライバシーの危機が生じてしまう理由も理解できないだろう。

そして、何故こういった事柄が、

奴隷は、ギリシア人にとっては、近代の用語でいうと、労働者の役割を演じるよりは機械および固定資本の役割を演じるものであったことに注意しておきたい。だが、やがて見るように、それは特別の機械であって、生産のためのものではなく、たんに使用のためのものなのである。

なんて事柄ともつながっていくのかもわからないだろう。

そうしたことも視野に入ってくるくらいに、そもそも現在、多くの問題の元凶となってしまっている新自由主義的な資本主義経済の使用価値と交換価値の分断や、ラトゥールが指摘する自然と文化(人工)の分断にしても、問題の起源は二元論的存在論にあるともいえるのだろうということも含めて、感じさせてくれるのが、僕がアガンベンのこの本を読んでとてもワクワクさせられた理由だ。

「〜がある」ことと、「〜である」こと

存在と存在者が区別されつつ、区別しきれないこと。このことをアガンベンがどんな風に扱っているかをもうすこし見てみたい。

「存在は言語活動のうちにある」とされる、アリストテレスの存在論であるが、言語で語られる存在は、その基体として現実の存在者が「先に置かれる」ことが前提とされ、アリストテレスはそれを「第1ウーシア」と呼んでいるのだとアガンベンはいう。

存在の基体化、下に横たわっているものを先に置くことは、言語的な述語作用と不可分であって、言語活動およびそれが分節化し解釈する世界の構造そのものの一部をなしている。(中略)第1ウーシアは基体を先に置くことについて云々されることのないものであり、基体のうちに存在するものでもない。それ自体があらゆる述語作用の下に横たわっているものとして――純粋に存在するものであるかぎりで――先に置かれている基体であるからである。

現実に存在するアリストテレスが「先に置かれて」はじめて、「人間」という存在や「哲学者」という存在が述語作用によって可能になるということだ。

しかし、本質存在とされるのは述語作用である第2ウーシアのほうで、現実存在である第1ウーシアは本質存在から区別されつつ区別されない、曖昧な状態に置かれることになる。

この第1ウーシアと第2ウーシアが区別されつつ同体とされる西洋存在論の特別な事情は、実は存在をあらわす「〜がある」という動詞と、2つの事項をつなぐ「(〜は)〜である」という動詞が同一であるというインド=ヨーロッパ諸語に特徴的な語彙ともつながっている。

インド=ヨーロッパ諸語において「ある」という動詞が一般的に二重の意味をもつことはよく知られている。第一の意味は、或るものの存在および実在を表現する語彙的な機能に対応している("Dio e"= 「神は存在する」)。第二の意味―― 繋辞―― は、純粋に論理的―文法的機能に対応しており、二つの辞項のあいだの同一性を表現している("Dio e buono"= 「神は善良である」)。これにたいして、多くの言語では、あるいは同一の言語でも時代が異なるのにつれて、二つの意味は語彙的に区別されている。

存在することは、そもそもそれ自体、そこから述語作用が生じるような繋辞的な機能を呼びおこす。つまり、ただ存在することができずに、なんらかの負債―任務―本質存在を担うことが運命づけられているかのように

現在の存在論の問題は働かないこと

ここから次のような問題が生じる。

現実存在と本質、現実に存在するという意味での「〜がある」と繋辞としての「〜である」、ゾーエーとビオスは、今日では完全に枝分かれしてしまっているか、同じく完全に一方が他方に均一化されてしまっており、両者を節合するという歴史的任務は履行不可能なようにもみえる。『ホモ・サケルⅠ』の剥き出しの生は、それらの同一性もそれらの区別も不可能とされてしまっていることを証言するためにそれらのあいだに姿を現わした還元不可能なヒュポスタシス〔位格〕である。《Xにとって存在すること、または生きることであったもの》は、今日ではたんに剥き出しの生でしかないのだ。

生物的な生であるゾーエーと、社会的・政治的な生であるビオス。

かつて任務を担うのはビオスの役割であった。
しかし、あらゆる任務が主権者や、一部の企業体や、機械やAIなどに奪われたあげく、ブルシット・ジョブばかりを課せられるようになった多くの者は、政治的には動物やかつての奴隷と変わらない剥き出しの生=ゾーエーと化している。
僕らは何より自分の身体、自分の生を搾取されてしまっているということになる。

ゆえにアガンベンはこう書くのだ。

今日、存在論的―政治的に基本的な問題となるのは、働きではなくて、働かないでいることである。新しい働きの場を息せききって中断することなく探求しつづけるこのではなくて、西洋文化の機械がその中心において後生大事に守護している空虚を露わにしてみせることなのだ。

自己の使用

働かないことを問題とすることで、アリストテレス起源のこうした存在論とは別の可能性が見つけられるのかもしれない。

人間には人間としての働きのようなものが存在するのだろうか、それとも、人間は働きなしに生まれてきたのではないのか、という問いに答えて、アリストテレスは《人間の働きとはロゴスにしたがって魂が働いていることである》と主張していた。

ロゴスに囚われた魂が働くという任務=負債を負ったものとしての存在から、アガンベンが『いと高き貧しさ 修道院規則と生の形式』において考察していた、フランシスコ会士たちの「生の形式」そのものとしての存在への道が「働き」を放棄することで見えてくる。

アリストテレス的分割を超えたところで、フランシスコ会士たちは《身体的なものの形相》が知性的な魂以前に胚のなかにすでに完成されたかたちで見いだされ、その後も知性的な魂と共存しているという考え方を練りあげていくのだった。このことは、剥き出しの生のようなもの、より完成された上位の生にとって否定的基礎としての役割をはたす、もろもろの形式をもたない生といったものは存在しないということを意味している。身体的な生もすでにつねに形を与えられており、すでにつねに形式から切り離しえないものとしてあるのである。

フランシスコ会士たちにとっては、知性的な魂と身体的な生は、アリストテレスの考えのように分割されない。それゆえ、知性とは別の剥き出しの生も存在しえない。そして、彼らは財の所有のために働くのではなく、「あるゆる法権利を放棄」して、生の形式を生きるのだ。

だからこそ、働くことなく「生の形式を生きる」ことを選ぶという観点で、以下のようにアガンベンが書くとき、それがヴィジョンやUXのような「働く」理由とされるようなものから、どれだけ遠くにあるかを想像してみてほしい。

生きものはけっしてそれの働きによっては定義されず、それが働かないでいることによってのみ定義される。すなわち、働きのなかにあって純粋の可能態と関係を保持しつつ、そこではゾーエーとビオス、生命と形式、私的なものと公的なものが無区別に閾に入りこみ、もはや生命でも働きでもなく幸福が問題であるような〈生の形式〉として構成される、そのようなあり方によってのみ定義されるのである。

何かのために使われる=任務を担う=負債を負うことを選ぶのではなく、自分の身体を自分のために使う=生の形式を生きることを選ぶとき、その者の生はこんなふうになるのだとアガンベンは言っている。

そして画家、詩人、思想家は――そして一般にポイエーシスと活動を実践している者ならだれでも――創造的な活動および作品の主権的主体ではない。そうではなくて、むしろ、彼等は名をもたない生きものであって、言語活動や幻想や身体によって産み出される作品をそのつど働かなくさせながら、自己を経験し、自分たちの生を〈生の形式〉として構成しようとするのである。

同じことは、精神とか主張という意味をもつ"ethos"というギリシア語について、アガンベンがこんな風に書いているのをみても、僕らが当たり前のように思っている「働く」ことと存在意義の関係がみずからを奴隷=機械のようにしてしまっているのかということに気づかせてくれ、僕らがどれだけ自分の生を生きるということから遠ざかってしまっているのかを教えてくれるのではないだろうか。

もしブレアルが示唆しているように、"ethos"という語が再帰代名詞の語幹"e"に接尾辞"-thos"が付いたものでしかないとするなら、ひいてはたんに文字どおり「自己性」、すなわち、各人が自己との接触に入るさいの様式を意味しているのだとするなら、そのときには、芸術的実践はなによりもまずもって美学ではなく倫理学の領域に属しており、本質的に自己の使用であることになる。

必要な働きをするという名目で何かに自分の身体を使われるのではなく、自分の身体を、自分自身を、ちゃんと自分で使えているか

それがいま問題なのだということを、この本は教えてくれる。


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