見出し画像

情念の経済学 タルド経済心理学入門/ブリュノ・ラトゥール、ヴァンサン・A・レピネ

もし20世紀の歴史が、カール・マルクスの『資本論』ではなく、ガブリエル・タルドの1902年の著作『経済心理学』をバイブルとしていたなら、私たちの社会は一体どれほど異なる様相を呈していただろうか?
ブリューノ・ラトゥールとヴァンサン・A・レピネがその序文で鋭く問いかけるこの問いは、決して歴史のIF物語に留まらない。私は1年以上も前に読み終えたこの本を、再び書棚から引っ張り出した。それは、現在のプラットフォーム経済がもたらす「推し」や「承認欲求」の可視化、そして生成AIが引き起こす創造性の再定義といった、まさに現代の問いの核心をタルドが1世紀以上も前に見抜いていたことに気づいたからだ。

ラトゥールとレピネが提示するタルドの「経済心理学」は、従来の経済学が反復と蓄積、客観的な労働価値に重きを置くのとは対照的に、差異、発明、そして貨幣的価値を超えた情念的価値、とりわけ客観性よりも主観的・間主観的な価値こそを、経済活動の根源に据えようとする。彼らの言葉を借りれば、以下のようになる。

彼は資本主義が実在していることを言じていないし、19世紀に冷たい計算と商品支配の恐るべき増大をみようとせず、反対に、市場の拡大を、情念の拡大として定義する。さらに彼は、社会主義者を、アソシエーションと組織化へとむかう新たな熱狂を発明したとして祝福するのである。それで、われわれは、こんな古い反動家に興味を向けようというのか?こんな経済学の考古学的断片に、もう一度光を当てようというのか?

『情念の経済学』

この導入部分だけでも、私たちがいかに慣れ親しんだ経済概念の眼鏡をかけ直す必要があるかを示唆している。
本稿では、この『情念の経済学』が、いかにAI時代の価値と創造性を理解するための羅針盤となりうるのか、以下の4つの観点から論じていきたい。


1.『情念の経済学』の衝撃、そしてアクターネットワーク理論との交錯

ガブリエル・タルドの『経済心理学』は、経済学の常識を覆す、異質かつ挑発的な著作だ。ラトゥールらは、タルドが「暇人たちのおしゃべり」を「生産要素」として取り扱い、悲しき労働に与えられた中心的な役割を否定している点を指摘する。

彼は、暇人たちのおしゃべりを「生産要素」として取り扱う。悲しき労働に与えられた中心的な役割を否定する。

『情念の経済学』

タルドは資本の概念を「胚」(ソフトウェア)と「子葉」(ハードウェア)に区分し、前者の優位性を主張する。彼は、パンの価格変動と同等の真剣さをもって、当選した政治家の権威の変動を「グロリオメーター」と呼ぶ道具で追跡することを勧める。生産の典型例としては、一般的なピン工場(アダム・スミスが讃えたような)ではなく、書物自体の普及だけでなくその内容に含まれる観念の普及に関心を持つ「出版産業」を挙げる。軍事産業や植民地化、贅沢、流行、消費、芸術市場、哲学的な観念の普及、道徳、法律など、これまで経済とは結びつかなかったあらゆる事象を「富の生産」として等しく扱ったりもする。タルドのその視野の柔軟さには驚かされる。

タルドは経済活動の基礎を「科学を、イノベーションを、イノベーターを、暇そのものを」に置くと明確に述べ、さらには、資本主義の拡大を「情念の拡大」と再定義する。そして、社会主義者たちが「アソシエーションと組織化へとむかう新たな熱狂を発明した」ことを祝福するのだ。これら異端とさえ思える彼の思想は、単なる経済学史の奇異な断片ではない。ラトゥールとレピネは、タルドがその著作を「最初の大規模なグローバリゼーションの時代のただなかで書いている」点を強調し、当時最新の技術革新、階級闘争の道徳的・政治的把握、生-社会学(bio-sociologie)への深い取り組みがあったことを挙げる。

当時は夢見ることしかできなかったが、現在ではデジタル化技術の発展のおかげで実現可能となった量的分析の方法を打ち立てている。これらの特徴のために、一世紀後の新たなグローバリゼーションの時代、道徳的にも社会的にも、金融的にも政治的にも、エコロジー的にも危機にある時代のただなかであっても、この著作の紹介がまったく新しいものにみえるのだ。

『情念の経済学』

と述べ、タルドの洞察が、感情や憎悪や歓喜やあいまいな意味や雰囲気までも量的に計測しマーケティングに利用可能な現代の私たちにとって極めて重要な意味を持つと位置づけている。

タルドの思想は、ブリューノ・ラトゥールが提唱するアクターネットワーク理論(ANT)の根底にある問題意識と深く共鳴する。ANTは「社会的なもの」を固定的な実体ではなく、絶え間ない結合と変容のプロセスとして捉え直す。ラトゥールは『社会的なものを組み直す』の中で、社会学を「社会的なものの科学」と定義するのではなく、「つながりをたどること」と定義し直すことで、社会科学の本来の直観に忠実であり続けられると述べている(『社会的なものを組み直す』)。タルドの『経済心理学』もまた、見えざる「情念」のネットワークが経済のあらゆる側面に浸透し、絶えず変化していく様を記述しようとする点で、ANTの「社会的つながり」の追跡と深く親和性があるのだ。タルドの異端な視点こそが、現代社会を読み解く鍵となる。

2.情念こそが「リアルなデータ」である――経済の数量化と間主観性

タルドの経済学の最も挑発的な主張の一つは、「経済においては客観的なものなどなにもなく、すべては主観的、あるいはむしろ間主観的なものであり、そして、まさにそうであるからこそ、経済を数量化し、科学的なものにすることができるのだ」という点だ。これは逆説的だが、極めて現代的な洞察と言える。

主観的価値の科学:「バロリメーター」の提唱

従来の経済学が客観性、とりわけ貨幣という単一の尺度に固執してきたことに対し、タルドは貨幣を「記号にすぎない」と見なし、あくまで「便宜的で単純化された」ものとして捉える。彼が真に測ろうとしたのは、人間が持つ「信念」や「欲望」、さらには「栄光」「真理」「美」といった、通常は経済の対象とは見なされない「情念」なのだ。タルドは、価値とは「色のように、われわれが事物に付着させる一つの質である。しかし実際には、色と同様、われわれのなかにあるまったく主観的な真実でしかない」と述べる。この主観的な質が、対象を「欲しい、好きだと考えている人びとの数の大小に応じて、大きくなったり小さくなったりする」ため、数的な度合いで表現するのに適していると指摘する。

さらに彼は、人間のあらゆる判断の中に、見えないけれども実在する数量的な特性が含まれていると喝破する。

熱心に努力したぶんの見返りとして、それに見合うだけの富の増加、それに見合うだけの栄光、真理、権力、芸術的洗練の向上を求めない人や集団などいないし、これらすべての財=善の減少のリスクに対して闘わない人や集団もいない。われわれはみな、それらのさまざまな等級の段階が、まるで実在しているかのように話しているし書いている。

タルド『経済心理学』

タルドは、これらの「情念」を測定するための道具として「バロリメーター」(価値計)という用語を導入する。ラトゥールらは、バロリメーターとは、人々の愛着や必要性に対する繊細な検討を収集、凝縮、蒸留して単純化するものであり、「すべてのバロリメーター、すべてのグロリオメーター〔栄光計〕のなか」に見いだされる、と説明する。タルドにとって、経済学とは、貨幣のみを対象とする限定的な学問ではなく、「あらゆる評価へと拡張」されるべきものなのだ。

AI時代における情念のデータ化:タルドの予言の実現

タルドの間主観的なものの数量化というコンセプトは、まさにAI時代の「リアルなデータ」の探求と深く共鳴する。ラトゥールらは、タルドが「データを獲得する」ための新たなやり方が増え続けている時代に生きていたら、どれほど興味深かったかを想像するのは簡単だと述べる。

彼が現代に、つまり、「データを獲得する」ための新たなやり方が増え続けていくことがわかっている時代に生きていたら、どれほど興味深かったかを想像するのは簡単である。視聴率や世論調査、マーケティング調査、「ブリテンズ・ゴット・タレント」のようなオーディション番組、コンペ、ランキング、オークション、スパイ行為、マウスのクリックなどのような形態!これらは、「社会的地位が、ますます数値と測定の対象となっている」ことを非常に正確に示す、データを集める新たな手段である。

『情念の経済学』

現代において、SNS上の感情表現、レビュー、評判、非公式な会話といった、これまで「非定量的」とされてきた主観的な要素をAIが「データ化」し、分析に活用する道を拓きつつある。これは、タルドが提唱した「バロリメーター」の現代版と言えるだろう。AIがこれらの「情念」を数値化することで、人々の欲望や信念、集合的な感情の動きを捉え、経済活動の予測やデザインに応用することが可能になる。ラトゥールらは「情念に駆られた利益こそ、より多くの数量化、つまりはより多くの社会的つながり、『世界のカオスを解きほぐすこと』をもたらす」と期待される、と述べている。この視点に立てば、経済学者は、もはや貨幣という単一の尺度に固執するのではなく、多様な情念の測定と連関の発見にこそ注力すべきなのだ。もしそうなったときには、むしろ貨幣は経済の本来の発展に邪魔になりさえするのではないだろうか。いまの経済格差という問題はまさに間違った単一の尺度としての貨幣に由来するものだと言えるだろう。

3.AIは「胚」となり「差異」を生むのか――発明と模倣のリズム

タルドは、経済活動の根源的な法則を「発明」と「模倣」という動的なリズムに見出す。ラトゥールらは、タルドが「イノベーションと発明の追跡を、自らの理論の中心に置いた」点を強調し、日常的な生産による富の蓄積や努力といった静的な概念だけでは経済のダイナミズムを捉えきれないと批判する。発明が「差異」を生み出し、模倣がその普及を促すことで、経済活動は螺旋的に進展する。

経済の根源的ダイナミズム:発明と模倣の連鎖

タルドは、イノベーションは外部からの衝撃ではなく、「異なる様々な欲望の数の増大」と「それぞれの欲望の模範例の数の増大」によって内部的に生み出されるものだと強調する。タルドは『経済心理学』の中で、経済的進歩は以下の二つのものを前提とすると述べる。

一つは、異なる様々な欲望の数の増大である。というのも、欲望のあいだに差異がなければいかなる交換も不可能だし、〔イノベーションによる〕一つひとつの新たな異なる欲望の出現によって、交換の命があおり立てられるからである。もう一つは、それぞれの欲望の模範例の数の増大である。というのも、〔模倣によって〕類似性が広がっていけばいくほど、生産も拡大し確固たるものになるからである。

タルド『経済心理学』

蓄積という考え方が、反復の時期だけを捉えるのに対し、タルドは経路が変化する時期、すなわち差異が生まれる時期に注目する。ラトゥールらは、タルドの言葉を引用しつつ、蓄積という考え方では「この差異化のプロセスを正しく評価できない」と述べている。

資本の二つの顔:胚と子葉のダイナミクス

タルドはさらに、資本を「胚」(ソフトウェア)と「子葉」(ハードウェア)に区分する。

胚-資本が常に発明を生じさせる一方で、子葉-資本は、それに対立を引き寄せる。胚-資本が生き延びられるのは、静的な公式へと固執することによってではなく、その多彩さと、つねに新しい分かれ道を探検し、たえまない適応によって対立を避ける能力によってのみである。固定資本、物質資本にはこんな幸運はまったくなく、落雷に対する避雷針のように、対立を引き寄せるのである。

タルド『経済心理学』

前者が常に新しい分かれ道を探検し、適応によって対立を避けるのに対し、後者は固定的な公式に固執し、対立を引き寄せると指摘する。そして驚くべきことに、彼は「書物」をその代表的な「胚」として例示する。書物は単なる物理的な財ではなく、そのページに含まれる「観念の普及」に関心をもつものであり、引用や参照を通じて新たな同盟や対立を生み出し、まさに「胚」として機能しうるのだ。ラトゥールらはタルドが、この「胚」と「子葉」というメタファーに惑わされるなと釘を刺しつつも、彼の存在論において「形をもたないものなど何もない」ことを強調する。彼のライプニッツ主義的な視点によれば、「それぞれの魚のなかに、魚に満ちた池があるのであり、そのようにして、無限二続ク」のだ。

AIを「胚」として活用する創造性:無限の分岐へ

ここで、私は生成AIの役割に新たな光を当てたい。多くの人が生成AIを、人間の仕事を代替する「完成品」の生産ツールと捉えている。しかし、本来的な使い方はそうではないだろう。AIが既存の知識やパターンを模倣し、新たな組み合わせを生み出すことを「模倣」のプロセスと捉えるならば、AIの生成物は単なる「子葉」としての完成品ではなく、人間がそこから「差異」を見出し、新たな「発明」へとつなげるための「ヒント」や「きっかけ」としての「胚」として活用されるべきではないか。ラトゥールらはタルドが「イノベーションを、諸個人の脳内で編まれた〔神経〕網すでにみたように、一つの脳そのものが無数のニューロンとして理解されるーから追跡すること、それを拡散させる水路から分析すること、あるイノベーションが、すでに普及しているものとの争いになったときに生じさせる対立を記録すること、いかにしてイノベーションが、最終的に結びつき、一方の上に積み重なり、お互いにうまく調節しあうのかを観察すること。そうすればあなたは、新たな宗教的信念であろうと、新たな植物であろうと、新たな法律の条文、鉄道、金融ツール、あるいは政治的意見であろうと、その経済全体を把握することになるだろう」と述べるタルドの言葉を引用している。

タルドが言うように、「天才」とは特定の個人に宿る神秘的な起源ではなく、「反復と模倣の群れ」から生じる「熱狂の瞬間」を支配する個人のことなのだ。タルドは『経済心理学』の中で以下のように述べている。

天才は出発点ではないし、おなじく、活動の場でも、情念の場でもない。それはまさに、描くことだけはできるがけっして再びつくりだせない、熱狂の瞬間である。ここでも、タルドは天才的個人の神秘的な起源と、過去のモデルの芸のない模倣とを対立させていない。彼は水準を変える。すなわち、天才とは、恐れずにいえば、反復と模倣の群れ(これらの脳内の〔神経の〕生きた発火)が、その固有の生を支配する個人のことなのである。

タルド『経済心理学』

AIが既存の模倣線を再構成し、これまで見過ごされてきたつながりを提示することで、人間が新たな「差異」を発見するきっかけを提供できる。AIとのインプット/アウトプットのやり取りを反復する中で、気づきが「ズレ=差異」となり、新たなイノベーションや発明の機会が生まれる可能性があると私は考えている。

私が現在進めている、さまざまな書籍を「胚」として用いながら、生成AIを用いてさまざまな分岐を生み出し続けるというアプローチ(実はこの文章そのものがその結果だ!)は、タルドが言う「無限二続ク」創造のプロセスと深く関係している。AIが生成するアイデアやデザインを基に、人間がさらにそれを発展させ、独自の価値を創造する共同作業のフレームワークが考えられるのだ。これは、客観的に外から見ているふりをするのではなく、AIを「一方の上に積み重なり、お互いにうまく調節しあう」ように巻き込むことで、イノベーションを促進する新たなアプローチとなるだろう。

4.AI時代の「おしゃべり」と「怠惰」の価値――労働と情念の再定義

タルドの経済学の最も挑発的な側面の一つは、労働に与えられてきた中心的な役割を否定し、むしろ「暇人たちのおしゃべり」や「会話」を「本質的な生産要素」として高く評価した点にある。ラトゥールらは、タルドが「悲しき労働に与えられた中心的な役割を否定する」と述べている。彼は、マルクス主義者が「悲しき労働に与えられた中心的な役割」を強調したのとは対照的に、自らの研究対象を「余暇、カフェ、会話、流行、アクセサリー、観光などの文明」に求めた。まさに生産がその枠の外に追いやった人たち――女性、子ども、高齢者、障がい者、外国人など――の非生産的な活動(まさにイリイチがシャドウワークと呼んだ)に注目する。

「おしゃべり」が生産要素に?:会話の経済学的効用

タルドは、当時の社会で主流だった機械化と分業による労働の硬直化に対し、怠惰で有閑階級のおしゃべりを称賛する。タルドは『経済心理学』の中で、以下のように述べている。

個人の暇な時間のおしゃべりよりも強力な消費の指導者などいないし、間接的とはいえ、これ以上に強力な生産要素などないのである。

タルド『経済心理学』

タルドによれば、会話は単なる娯楽ではない。それは話者から他者へと新たな製品の観念や信頼、欲望を伝播させ、消費と生産を促進する「本質的な要素」なのだ。

会話のおかげで実現した交換によって、相互に満足されることになるこれらの生産の欲求と消費の欲求、販売の欲求と購入の欲求は、そもそもどのようにして生まれたのか? 非常に多くの場合、やはり会話のおかげである。会話が話者から他者へと購入または生産すべき新たな生産物の観念を伝播させた。そしてこの観念にともなって、この生産物の品質または将来の売れ行きに対する信頼も伝播させ、最終的には、それを消費したいという欲望または製造したいという欲望を伝播させたのである。

タルド『経済心理学』

AIと「怠惰なゆるいつながり」の価値

これは、AI時代における創造性やイノベーションの源泉を考える上で、非常に重要な示唆を与える。私が最近取り組んでいるAIを用いた「声の収集」プロジェクトも、このタルドの指摘と直結する。会議の議事録やチャットログといった「公式な」記録だけでなく、社内でのカジュアルな会話や顧客との非公式な交流、あるいは日常におけるゆるいつながりの中で交わされる「おしゃべり」の中から、AIが潜在的なビジネスチャンスや顧客のインサイト、さらには社会における声なきニーズを抽出するシステムを構築する可能性を秘めている。これは、これまで経済的価値生産から排除されてきた女性、子ども、高齢者、障がい者、あるいは搾取の対象としての非人間といった存在の「声」をAIが拾い上げ、その価値を再評価することにもつながるだろう。AIは、固定化された労働の枠組みを打ち破り、これまで見過ごされてきた「怠惰なゆるいつながり」の中での会話の価値を再評価する道具となりうるのだ。

タルドは「天才」を、特定個人の固有の才能ではなく、「恐れずにいえば、反復と模倣の群れ(これらの脳内の〔神経の〕生きた発火)が、その固有の生を支配する個人のことなのである」と再定義する。そして、情念に駆られた利益と結びつくことで、より多くの数量化と社会的つながりを生み出すと期待する。この視点に立てば、一見「非生産的」に見える人間の情動的な交流や、既存の労働概念から外れた活動こそが、AIを介して新たな価値創造の源泉となりうる、という強いメッセージが発せられている。

結論:AI時代にタルドを再読する意味

タルドの『経済心理学』は、現代の私たちが当然と見なす「経済」の定義を根底から問い直す。ラトゥールらが強調するように、彼は資本主義の拡大を「情念の拡大」と定義し、冷たい計算と商品支配の増大というマルクス的視点とは異なる道を示した。彼の思想は、単なる歴史的異端ではなく、現代のプラットフォーム経済やAI時代における価値創造の新たな視点を提供する、きわめて新鮮なものとして響く。

ラトゥールらは、タルドの著作が「現在のデジタル化技術の発展のおかげで実現可能となった量的分析の方法を打ち立てている」と評価し、それが「一世紀後の新たなグローバリゼーションの時代、道徳的にも社会的にも、金融的にも政治的にも、エコロジー的にも危機にある時代」において、「われわれの過去を別のしかたで取り戻すために、そして結果的に、われわれの未来を別のしかたで決めるために、きわめて重要な文章だと示したい」と述べている。

タルドが指摘するように、従来の経済学が価値を固定的なものと捉え、貨幣という便宜的な尺度に過度に依存してきたがゆえに、イノベーションの萌芽を見落としてしまったり、あるいは先行者利益を保護するためにその芽を積んでしまうことが起こっているのではないか。彼の提唱する情念と間主観性に基づいた数量化の概念は、AI時代において、従来の経済的価値観の限界を乗り越え、より多様で人間中心的な価値創造の可能性を拓く羅針盤となりうる。

私たちは、AI時代において、何を「価値」とし、何を「生産」と見なすのか、その根源的な問いをタルドと共に再考する必要がある。貨幣的計算の背後にある情念、労働の裏にある「おしゃべり」、模倣の先に生まれる「差異」。これらこそが、次なる経済の姿を形作る「リアルなデータ」なのではないだろうか。
そうした意味で、タルドの『経済心理学』は、過去の遺物ではなく、まさにAI時代の未来を照らす、刺激的で実践的なロードマップだ。

いいなと思ったら応援しよう!

棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。