ガイアに向き合う/ブルーノ・ラトゥール
ひさしぶりにAIの力を借りずに書いてみたい。
(でも、結局、作図にはAI使った)
AIの力を借りるとここで書きたいことがうまく書けなさそうな気がするからだ。書けないことはないけど、おそらくAIがもつバイアスが書くのを面倒にさせるのではという予測が僕のなかでは立っている。
ここで書きたいのは、AIにバイアスを持たせてしまう要因としての多くの人間が知らず知らずのうちに持っているバイアスの先にある話だ。そのバイアスとは一神教的な世界観である。大文字の科学という一者である神であり、大文字の自然という一者である神であり、それら一見異なるように見えるが、実は同じものの呼び名違いである一者である神を、人間や人工、文化とは交わらない超越したものとして見たがる人間が実は、その神とか自然と呼ばれる一者の皮を被って同時にそれを演じているという宗教の話である。
人びとは長らく、そうした客観的、超越的なものを置くことで、人間は実は自分たちが作ったもの(つまり人工物、fiction)を正義やら真実やら事実やらと名付けて絶対化してきた。正しいものとそれ以外の数多くの正しいとは認められないものを生む線引きの仕組みとして、その一神教は機能してきたが、その実、factは17世紀までfictionという意味だったことに象徴されるように、正しいものも正しくないものも出自は同じで、そもそも差などない。
この17世紀というタイムスタンプが重要だ。
神の力が弱まって宗教戦争に苦しめられたその時代、そこ(正しさとそうでなさの曖昧な状態)に差が生まれる仕組みとして生み出されたのが実験科学のフレームワークであったことを明らかにしたのは、スティーヴン・シェイピンとサイモン・シャッファーという2人の科学史家だったけれど、僕にその本の存在を教えてくれたのはほかでもない、今回の記事の主役であるラトゥールである。
今回、そのラトゥールの『ガイアに向き合う』を紹介する記事を書こうと思いあたって、その記事をAIなしで書こうと思ったのは、先に書いたとおり1つの絶対的な正しさの基準があるというようなバイアスを嫌ってのことだけど、そのバイアスの先について書くことの機会を与えてくれたのもAIの存在である。誰もが感じているし、日々気にする機会があるようにAIが生成してくれることは「正しくない」こともしょっちゅうある。そして、少なくない人たちが「だから、AIは使えない」とか「使い方がむずかしい」とAIを嫌ったりする。ようは正しいものがあるという宗教が、正しくないものをあたかも「正しい」とすこしも臆せず悪気もなく提示してくるAIの異教徒じみた振る舞いに戸惑っているのだ。

というわけで、さっそくAIなしで書くラトゥールの『ガイアに向き合う』の紹介を始めよう。
まずは何よりも僕たちが地球や環境という言葉でそれらのエコロジカルな問題を議論しようとする際の大きなバイアスから。ラトゥールがラブロックを召喚して進める議論だ。
ラブロックのガイア
ラトゥールは、ラブロックのガイア論が、地球を「すでに構成された全体」として捉えていないことを称賛する。地球は、エコシステムという言葉から想像されるような1つの統合されたシステムなどではない。ましてや「宇宙船地球号」のような管理可能なものとしてイメージできるものではない。ここに従来のバイアスがあると、ラトゥールも僕も思っている。
地球がシステムだとしても、それは「進化するシステム evolving system」であり、「すべての生き物とそれをめぐる地表環境、海洋、大気、地殻岩石とからなるシステム」のことをいうのであって、生き物と環境が密接につながっていて分離不可能な状況にあるなかで常に変化しながら「立ち現れてくる領域 emergent domain」として「地球の数十億年の生命史を通じて、生物とその環境は相互進化を遂げて」いる、ある種の領域(ラトゥールの言葉を借りればグローブ globeとしての地球のまわりの薄皮のような唯一生存可能なクリティカルゾーン)、それがラブロックの考えたガイアである。
だから、ラブロックが見つめた問題は、彼自身が研究した物体の中には文字通り、部分も全体もないことだとラトゥールは指摘する。ガイアは単一の視点で管理、エンジニアリング可能な対象ではない。
ラトゥールは、エンジニアについて、こう書いている。
もし読者が、全体の中で部分が「一つの機能を果たす」様子を想い描くとすれば、それは同時にエンジニアを想い浮かべることでもある。エンジニアは部分同士がうまく協働できるように画策する。実際、部分と全体を分けて考えられるのはテクノロジー・システムにおいてのみだ。それがテクノロジー的行為の定義ですらある。そこでは青写真をベースに、要素が目標との関係でどのような役割を務めるかが予測される。
青写真をベースとして、部分が目標にしたがう形で相互に関係性を定義されて機能するよう全体がデザインされる。それはなにも無機物で構成されたシステムだけを対象とした思考法ではなく、「テクノロジー的比喩は明らかに身体、細胞、分子へと延長」されてきたし、会社のような集団を「組織」と呼ぶ際に背後にあるのは同様に単一のエンジニアが想定されるような部分が全体を成すシステムのデザインであり、管理である。これまでのエコロジーの見方が、地球に対しても同様のエンジニアリング的な見方をしてしまっていたことをラトゥールは指摘する。
地球を丸ごと全体として捉える議論をしたいときにはどうすればよいのだろうか。地球サイズでこれを語るには、生命体の比喩――社会理論、国家概念、機械主義の奇妙な混合 ――は管理エンジニア General Engineer を同時に想定しなければ意味不明だろう。管理エンジニアとは、実に不細工な隠れ蓑をまとった神のことである。この神は、すべてのアクターの最大利益のために、そのそれぞれにエージェンシーを授ける役割を担うだろう。
しかし、ラブロックの想定したガイアはそのようなものではない。そこには単一のエンジニアは存在しない。地球全体を管理するものなどいないし、それを期待すべきではない。「全体という、とうてい擁護できない概念には頼らずに、エージェンシー同士のつながり効果を確保していくこと、これがラブロックの問いである」とラトゥールはいう。
では、宇宙船地球号的な地球像の幻想から解き放たれた際、現在の環境危機はどのような見え方をするのだろうか。それが次の議論である。
戦争の時代の思考:1.ホッブス
「ビーバー、鳥、アリ、シロアリだけで」なく、「木、キノコ、藻類、細菌もそうだし、ウイルス」にいたるまで、クリティカルゾーンに存在するいかなる存在も全体に対する部分としてではなく、ガイアにおいてそれぞれが自律性をもって主張する政治的な主体であることを認識できたとき、現在の気候危機は別の様相を見せる。
ラトゥールはそれを「地球の反撃」と称して、まさに限られた資源やテリトリーの多様なエージェンシー間の再分配に関する対立から生じる戦争状態として認識するよう僕たちに促す。「もはや自然は遠くから鑑賞できる見世物ではなくなったことだ。私たちがその一部となったのである」のであって、僕らは環境危機をコントロールするような立場ではなく、絶対者、管理者のようなものでなく、クリティカルゾーン全体を巻き込んだ世界戦争に参戦する1集団でしかないことを指摘する。
エージェンシーの再分配(それはつい最近まで「環境問題」と呼ばれるのが常だった)とは、今や関連団体を平和裡に集めるような方法などではない。この再分配は過去の政治的情熱のどれよりも効果的に分割を引き起こすー終始そうなる。もしガイアが言葉を持つとすれば、キリストのようにこう述べるだろう。「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うなかれ。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのだ」(「マタイによる福音書」第一〇章、第三四節)。あるいはもっと過澈に、「トマスによる福音書」の一節のようにこう述べるだろう「私は火をこの世に投じた。そして、見よ、私はそれを、それが燃えるまで守る」。
ガイアは、火をこの世に投じる。
さまざまなエージェンシーがそれぞれに組織する団体間の戦争という火を。
ラトゥールが独創的なのは、この状況を理解するのに2つの大戦争における政治的問題の解決について考えた2人の思想家を召喚する点だ。1人は17世紀(そう、先に大事なタイムスタンプだと指摘した!)の宗教戦争の時代のホッブスであり、もう1人は第2次世界大戦期のカール・シュミットである。
時代順に見ていこう。
まずは宗教戦争時代のホッブスから。
ホップズは「リヴァイアサン」で、「自然状態」における「万人の万人に対する闘争」を止めるためには、人民の総意に基づく強力な国家が「不死の神々」(原理主義)に取って代わることで国内の平和を再確立しようとした。
国内の平和を再確立するには、国家という名の「死せる神」が、あらゆる原理主義者によって呼び出されてきた「不死の神々」に取って代わらねばならない。固有の顔を持った国家が「不死の神々」のそれぞれに取って代わるのだ。そうすれば既成の秩序は転覆する。(中略)ホッブスは、厳粛な社会契約を通して市民社会を自然状態 the state of nature から引き出すことができれば秩序の問題は解決すると思い込んだ。社会契約を用いれば、リヴァイアサンという人工機械の完璧なでっち上げが可能になると考えたのである。(中略)17世紀には「物質は非活動的inanimate だ」と宣言する必要があった。ホッブズによれば、そうなる。そう宣言したからこそ、秩序を何とか再確立することができたのである。
ラトゥールは、この「自然状態」から「国家」への移行によって平和が訪れるというホッブスの考えは、近代人が自然を遠くから客観視し、支配しようとした時代の要請に重なることを指摘する。先にも名前をあげたスティーヴン・シェイピンとサイモン・シャッファーの研究が明らかにしたように、ホッブスは当時の英国王立協会の科学者たちが当時確立しようとしていた実験主義科学が、実験のその経験の複数人での共有によって「作りもの(fiction)」でしかない実験の結果を客観的「事実(fact)」にすり替えることで、自然と理性を分離する仕方を批判したが、その実際、彼の考えである自然状態に国家を対立的に据える仕方は基本的な姿勢としてはそれと大きく違わず、近代的なものだといえる。

しかしラトゥールは、こうして自然と人工のありもしない区別をでっち上げ続けてきた現在の状況はむしろそれによって虐げられてきた地球の側からの反撃による人間社会の危機を「新たな戦争状態」ときて承認することへと移行する時期であると示唆する。ホッブスが宗教戦争終結のために導入した「論争の余地なき確実性」という概念は、科学や経済学にまで及び、結果として国民国家が地球規模の環境問題に対処する能力を失わせたという意味で、現代の状況では機能しないし、それが問題を引き起こす根本的な要因でもあるのだと指摘する。
デザインを肯定するか否定するかという問題にこだわることは、世界の「科学的見方」と「宗教的見方」との関係を知るには不可欠であるように思われる。それはなぜなのか。今ようやくわかったのは、この二つの見方が、世界について何も見ないようにさせる方法として機能してきたということである。一方は世界からすべての行為を奪い去り、世界を脱アニメート化する。もう一方は世界にとって何の使い道もない精神をそこに付与して、世界を過剰アニメート化する。それこそが、私たちから世界へのアクセス権を奪い、私たちを地球に戻れないようにし、科学にテレストリアル的見方を設けさせることも、自然に世俗的な定義を設けさせることも妨げてきたものである。
戦争の時代の思考:2.シュミット
ラトゥールは、シュミットの「敵/味方の区別」という政治の根源的な概念を、環境危機に適用している。
もしあなたがエコロジーの戦いに参加するにあたり、その戦いが公平な裁定者の保護の下で戦われているかのように振る舞うのなら、その戦いは、単なる警察業務へと還元されるはずはないなどといえるだろうか。そうなればどんな形態であれ、味方/敵の区別を取り込むことなく、すべては終わる。私たちがそこで扱うのは合理的存在だけとなる。
現在の戦争に、そうした「公平な裁定者」はいないはずである。しかし、人間はそう振る舞いがちだ。ラトゥールがたびたび指摘しているように、あたかも遠く離れた宇宙から地球全体を眺めみて、超越的な視点で裁定できる権限を自分たちがもっているかのように。
しかし、シュミットの見方はそうではなかった。シュミットは、大地(Earth)を語る際(そう、語る対象は地球 globeではない)、「チェス盤の上でコマを動かすように、戦争に従事する国民国家を配置する」ようなある種デカルト的に抽象化された空間として語るのではなく、多数のテリトリー化(「それはチェス盤の形を歪めることで、空間化 spacingを通して特殊な関係を暫定的に呼び込む」)された具体的な空間として捉えたのだという。これは、地球全体を単一のグローバルな視点から管理しようとする試みへのラトゥールの疑念と共通しているし、多様な生物や環境自身から織り成されるラブロック的なガイアにも通じる見方だといえる。
たしかにシュミットは、今日まで発展を続けてきたエコロジーというテーマに照準を合わせていたわけではない。ただ彼は、地球に完璧な平定状態を求める人々の理想に、正確に標的を定めた。彼が標的にしたのはまさに自然主義者の理想、ディープエコロジスト、上辺だけのエコロジスト、そしてその中間のエコロジストらのユートピアだったのではないか。あるいは惑星地球の管理者、設計者、再設計者を夢見る人々の地平、さらには「持続可能な開発」が生み出す危機を何とか乗り超えたいと望むエコ近代化論者の理想、地球を守る善良な世話人、真面目な執事、抜け目ない造園家、用心深い操舵手を自称する人々の理想だったのではないか。要するにシュミットの標的は、政治問題などに関わらずに事を済ませたいと心底思っている人々が、「単純な物理的問題」を扱うときに思い描くような夢だったのではないか。
シュミットは、政治を放棄してホッブスが嫌った「自然の国家」に保護を委ねるか、あるいは明確な「敵/味方の区別」を設けて「世界の構成物をめぐる争い」としての政治に携わるか、という2つの選択肢を提示したのだとラトゥールはいう。ラトゥールは、このシュミットのこの2つの選択肢のうち、後者、すなわち「敵/味方の区別」を明確にすること、つまり「政治の再活性化」が現在の環境危機を乗り越えるために不可欠であると示唆している。彼は、環境問題は「単純な物理的問題」ではなく、明確な利害関係を持つ「戦争状態」であるという。だから、平和を実現するためには「普遍性がすでに達成されたもの」という誤った認識を捨てる必要があるのだ、と。
平和を実現するにはまず、普遍性を「すでに達成されたもの」と見なすのは誤りだとはっきり認めることだ。それはホッブズの時代とまったく同じで、同時にまったく反対である。同じだとするのは、ホッブスの時代においても、平和の希求が必須とされていたからだ。反対だとするのは、ホッブズの時代とは異なり、今日においては自然状態 the state of nature から国家 the Stateへ向かうことなどできないからだ。今日の私たちはただ、「自然の国家 the State of Nature」から「戦争状態 a state of warの承認」へと移行するだけである。ホッブズは、社会契約の概念を生み出すために自然状態 the state of nature を必要としたが、私たちは、新たな主権の形を探し求める前に、まずは新たな戦争状態 a new state of war に突入していることを認めねばならない。だからこそ、これまでのレクチャーで述べてきたように、グローブの呪いと戦う必要がある。世界中に分散している多様な人々をこの戦いに参加させ、それぞれの特殊なコスモグラムやそれぞれを召集する多様な神々に呼応するよう、それぞれの行為能力 Powers to act、エージェンシーを分配しなければならないのだ。差し当たって、問いは次のように立てられるだろう。「私たちは自然Nature(おそらく脱政治化されている)の庇護下に生きているのだから敵などどこにもいないーーそういう考え方から脱して、自身の敵を指名し、自身の防衛に必要なテリトリーの輪郭を描いていくにはどうすればよいのか」。
僕たちは「自然の国家」から、明確な敵を指名した上で、自分自身の防衛に必要なテリトリーの輪郭を描く「新たな戦争状態の承認」へと移行しなければならないのだというのがラトゥールの主張だ。
現在の戦争状態を生き抜くためには
ラトゥールは、現在の「戦争状態」を生き抜くために、僕たちはもはや「普遍的な平和」や「合理的な解決」を夢見るべきではないという。 「自然には敵はいない」という脱政治化された考え方を捨てて、しっかりと自分たちの敵を指名し、自己防衛のためのテリトリーを明確に描くことが必要であると指摘する。
ここでの主張はアルトゥーロ・エスコバルが『多元世界のためのデザイン』で示した自治・自律的デザインの主張にもつながるように思う。自律のためには自分たち自身で自分たちを律するものを明確にすることであり、それは同時に自分たちのテリトリーや文化を危険にする敵が何かを明確にすることでもあるからだ。
しかし、その戦いは従来のような国家間の戦いではないという。それはテリトリー間の戦いでもあると。この主張も先の自律の話につながっている。
近代的な国家主権概念は、宗教と政治の二重権威という容易ならざる難題の解決法として考案された――もしそれが事実なら、国家主権概念は出発点からしてすでに躓いているし、したがって国家はそうした主権を手放すことこそが自らの利益になるのだと気づくべきだろう。私たちはそれをよく心得ている。この解決法は、宗教的問題を解決するために、そして多種多様な共同体が居住する以前から空地となっていた他国の土地を収奪するために考案されたものである。以来、国民国家は地球全体に対して責務を負うようになり、その重責によって窒息せんばかりの状況になっている。とりわけ宗教戦争以降、主権の問題は(大文字で始まる)科学 Science という権威の存在によってさらに複雑化したため、状況はいっそうひどくなった。また、科学の権威はもう何世紀もの間、たびたび経済学の権威と同一視されてきた。見かけは世界規模だが、奇妙に脱領土化 deteritorializedしたこの経済学の権威の下で、今や国民国家は国民を保護する能力を失った状況にある。

グローバル化した社会で、経済は脱領土化を進行させ、もはや国民国家が現在の危機に対して、人民を保護する役割を担えなくなっているのは明らかだし、時には、僕たちの敵に対して与するような働きさえしてしまう。
「グローバリゼーションの進行に対抗する国民国家の奮闘は空振りに終わり、国民国家は地球自体から引き起こされる新たな形のグローバリゼーションにもまったく対処できない状態にある」とラトゥールはいう。

そこに登場したのが、ガイアというわけである。ある意味、それはたがいに分断しているように見えた相互の関係が、すこしも切り離されてなどおらず、相互に依存しきった(ゆえに敵にもなるし味方にもなりえる)関係であることが表面してきたことと同義であるだろう。
ガイアは、自然法則に従うよう強制された国民国家に代わる統治者としてではなく、「他と主権を共有する責務を背負った存在」としてそこに現れたのである。
かつて「自然はかつて私たちに、政治を統合し平和をもたらすという希望を与えてきた」という。「少なくとも人間の歴史的変遷に強固な基盤を与えることができた」。しかし、それは人間が都合よく自然という幻想に与えてきた意味そのものだ。つくりものの事実=自然なのだから、それが希望は与えても、実際の平和をもたらさなかったことになんら不思議もない。
一方のガイアはそんなことをしない。「ガイアは平和も約束しないし、安定した基盤も保証しない」。「自然それ自体の、ローカルで歴史的な、そして世俗的な化身である」ガイアに向き合い、僕たち自身が自分たちのテリトリーを守るために再政治化して平和のために戦うにはどうしたらいいのだろうか?

ラトゥールのこんな指摘を僕らは真摯に受け止める必要があるのかもしれない。
万事はフィードバック・ループを通して起きている。それはまるで、悲劇の糸が、太古のオリンピアの神々によってだけでなく、天地開開以来のすべてのエージェントによって織り込まれているかのようだ。それこそがまさに人新世の物語、真のオイディプス神話である。もっとも現在の私たちは、自らの行為に長い間盲目的だったオイディプスの場合と同じでない。私たちは今、過去の過ちを暴露される状況に直面している。今回こそは、盲目に陥る誘惑に何としても抵抗しなければならない。向こうからやって来るものを大きく眼を見開いて直視できるよう、誘惑には真正面から対峙することに同意しなければならない。
そう、僕らはラトゥールが教えてくれたアクターネットワーク理論的な思考をもって、無数のフィードバックループを自分たちの目でみて、記述していくことで、自分たちの戦いについて考え続ける必要があるだろう。
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