サパティスタの夢 たくさんの世界から成る世界を求めて/マルコス、イボン・ル・ボ
1994年1月1日、北米3カ国(メキシコ・米国・カナダ)によるNAFTA(北米自由貿易協定)を「貧しい農民にとって死刑宣告」として、サパティスタ民族解放軍(EZLN)は武装蜂起した。
現在のTPPの元祖ともいえる地域自由貿易協定であるNAFTAはその導入をめぐって、アメリカでも相当な論争がありながらも最終的には当時の大統領クリントンが押し切るような形で導入が決まったものだ。
新自由主義的な考えのもと、貿易の自由化によりアメリカに雇用を生み出すといわれたNAFTAの結果、逆にアメリカでの雇用は失われることになり、隣国メキシコではトウモロコシの生産が壊滅的となり農村地帯は困窮、仕事を求めてアメリカに流入する移民が増加した。
つまり、トランプ前大統領がメキシコとの国境に壁をつくろうとした、その原因は、いまから27年前の新自由主義政策によるものだともいえるわけだ。
そんな新自由主義の末路をそのはじまりにおいて予見し、みずから行動したのが、メキシコ・チアパス州に暮らすマヤ先住民たちであり、彼らを中心に構成するされたサパティスタ民族解放軍であった。
そんなサパティスタたちの活動とその背後にある考えを、フランスの社会学者のイボン・ル・ボが、サパティスタ運動の中心人物であるマルコス副司令官へのインタビューをまとめた第1部と、ル・ボ自身の執筆による第2部で構成するかたちで紹介してくれるのが、この『サパティスタの夢 たくさんの世界から成る世界を求めて』という本だ。

非暴力という力をもつ武装集団
1994年1月1日に武装蜂起したことでその存在を知られることになったEZLNではあるが、「サパティスタの力は非暴力にこそある」と、ル・ボはいう。
実際、1994年1月1日に武装蜂起し、同12日に政府の側が一方的に停戦を宣言し、EZLN側もそれを受け入れて以降、彼らは武装解除こそせず武器を保持したままではあるものの、一切の武力行使をしなかった。民族解放軍と名乗りつつも、彼らは戦うことをとにかく避けたのだ。
「暴力と非暴力の間の新しい関係を創造したこと、それが彼らの独自性である」と、ル・ボは書いている。そして「暴力に引きずり込まれることなく、いかにこの緊張関係を維持することができるか、それが今後の課題である」と。
ル・ボが心配したサパティスタの課題は、彼ら自身によって乗り越えられた。彼らはその後も暴力に引きずり込まれることはなかった。
権力の側ではなく、人民の側に立つ
政府側の攻撃中止の決定は、あなた方にとって驚きでしたか?
モイセス――いや、それがサリナスの決定ではなく、人びとの圧力がそうさせたのだと気づいたんだ。市民社会が介入して、「連邦軍兵士ちょっと待った! サパティスタもちょっと待った!」と。もしサリナスがそれを無視すれば、私らも続けざるをえなかっただろう。だが、民衆の力が勝ったんだ。私らもそれを無視するわけにはいかなかった。
1月12日の政府側からの停戦に際して、EZLNの司令官のひとりは、こんな風にそれを受けとっていた。
そして、政府によって和平委員に任命されたマヌエル・カマチョ・ソリスが対話を提案してきたのに対して、マルコスはこんな風に考えたそうだ。
マルコス――対話への参加については激しい議論が交わされた。それは罠だから行くべきではないと考える者もいた。(中略)別の者たちは、この機会を利用して人びとと話し、何が起こっているか知らなくては、と、言った。われわれは、人びとと話す必要がある、対話なのだから政府とも話すがとにかく人びとと話し、そうすれば何が起こっているのかがわかるだろうと考えた。結局、危険を冒すことにした。対話を政府が利用するかサパティスタの方が利用するか、それは不確実な賭けで、大聖堂ではそれが闘いの争点だった。そして私が思うに、われわれが勝ったのだ。
民族解放軍を名乗るEZLNは、武器を持ちつつ、交戦しないという意味で、軍と呼べるか曖昧であると同時に、チアパス州のマヤ少数民族の解放のみを目指しているというより、メヒコの人民全員がアイデンティティを認められて生きていくことを望んだという意味においても、その名称との噛み合わなさをもっている(良い意味で)。
そんな人民の側に立つというEZLNのスタンスができるきっかけとなったのが、この停戦に際しての市民との対話であったとマルコスは語っている。
そして、もともとそれまでの伝統的なゲリラや反乱軍の常識とは正反対に、政権の奪取を目的としないどころか、政権運営に関わること、選挙に立候補することを明確に拒むサパティスタたちは、権力の側に立つのではなく、あくまで市民の側に立って自分たちを含む、それぞれの人がそのアイデンティティを認められて生きることができる権利を主張し続けたのだ。

曖昧だが、学び続けて変化する組織
そもそも、チアパス州の山に潜んでいたマルコスたちゲリラが、先住民たちの村と出会い、そこに溶け込んでいき、最終的には彼らとともに、サパティスタ民族解放軍となるのにいたっている。その過程においても、マルコスたちと先住民の対話があり、そこでも変化したのはマルコスたちゲリラだったというのは、1994年1月の市民との出会いと同じだったのだと思う。
いや、先に先住民の村と出会い、対話を重ねて、自分たちのありようをつくりあげた経験があったからこそ、市民との出会いでも同じように対話を通じて、自分たちを更新することができたのだろう。
マルコスは、先住民たちとの出会いを通じて、自分たちが変わったことを「EZLNの最初にして最大の敗北感」と語っている。
この組織のよいところは、このような状況下で、対応できないということ、学ぶべきことがあるということを認めたところだ。それがEZLN最初にして最大の敗北であり、その後に大きな影響を与えた。EZLNは新しいものと対峙し、その問題に対応できないこと、待ち、学ばなければならないことを認め、先生であることをやめた。この現実を前にできることは山のような問いかけだけであり、解決することはできないと認めたのだ。(中略)こうして、革命的前衛の軍隊が先住民村落の軍隊へと転換し、さまざまな形態をもつ先住民の抵抗闘争の一つとなる、EZLNの変化の過程がはじまった。
この自分たちが他者との対話を通じて変化し、そのことで自分たちの活動に他者をも巻き込んでいくところに、サパティスタの活動の凄さを感じる。
サパティスタ自体が他者との対話のなかで変化し、彼らのアイデンティティを常に更新するとともに、彼らとかかわる人たちをも変えていく。
それは先住民たちだけでなく、より広いメヒコの市民たちのアイデンティティや生き方であり、さらには後述するようにメヒコの外の他の国の人たちの民主主義的な活動さえ変えていく。
最初から出来上がった政権のような力を頼ってその奪取を目指すのではなく、他者との対話を通じて自分たちも変わり、他者も変えていくことで、新たな生きる道をつくるのだ。
自分たちでつくるということとサステナビリティ
そう。つくるのだ。
いまだないものを他者とともにつくりだすのだ。いっしょにつくる他者そのものも含めて。
ないものを自分たちでつくろうとしないのなら、それは単なる奪い合い、搾取でしかない。そこにサステナビリティなどあるはずもない。
サパティスタがやったのはそういうことだ。
これは大いに学ぶべきところだろう。
これが本来的な民主主義だと思う。
そもそもサパティスタに興味をもったのは、デヴィッド・グレーバーが『民主主義の非西洋起源について』で、こんな風に書いていたのがきっかけだったりするが、まさに政権をとることで自分たちの暮らしを変えようとするのではなく、徹底的に自己組織化をベースとして民主主義的な姿勢にこだわることで変化を起こそうとするのが、サパティスタの独自性だと思った。
グローバル化は惑星規模の意思決定構造の必要性を生じさせることになったけれども、惑星規模で人民主権の見せかけを維持し続けようという企てなど――ましてや人民参加の実現など――、馬鹿げているとしか言いようがない。(中略)こうした背景のもとで、サパティスタの出した答え――革命とは国家の強制的装置を奪い取ることだと考えるのをやめて、自律的コミュニティの自己組織化を通して民主主義を基礎づけなおそうという提案――は、完璧に有効である。
外部への影響
そのサパティスタの独自性は、メキシコの外にも波及して、各国からサパティスタの活動に共鳴した人々が集まる、大陸間会議の開催にいたるまで、影響を及ぼした。
マルコス――その上、95年2月以降、一連の出会いの中から国際的サパティスタ運動が生まれてくる。94年の頃には、大した関心はなかったか今のように具体的なものではなかった。サパティスタ運動が外において知られ、消化・吸収されるには時間がかかったのだ。95年2月の裏切りの後、人びとはわれわれのことを思い出し、少しずつ盛り上がっていった動きは大陸間会議によって姿をあらわした。
1996年7月、各国から参加者を集めた大陸間会議がチアパス州のオペンティック村で開催されることになる。各国で独立したかたちでサパティスタ運動を展開する人たちが集まった会議だ。
それは、より独立した、自律的なサパティスタ運動だ。トルコ人、クルド人、ギリシャ人をむすぶ何かがあるのだろう。それぞれが独自の問題意識と独自の提案を持っており、サパティスタの主張のなかのきわめて一般的ないくつかを共有しているのだ。サパティスタ運動と言えるものではないのかもしれない。しかし、それはサパティスタ運動のまわりに、サパティスタ運動の契機にあらわれたものなのだ。

マルコスは、こうした国際的な影響をサパティスタが及ぼすことができたのは、異なる人たちそれぞれの存在をその違いをそのままに認めあい、対話することで変化し続けることができる姿勢があったからだと言っている。
それはときにはサパティスタの姿勢を曖昧なものに見えるようにもしてしまうが、その曖昧さも大事なことだの言っている。
サパティスタ運動は、闘わなければならないこと、闘う価値はあるのだということを人びとに思い起こさせたのかもしれない。普遍的な理論を構築したり、新しいインターナショナルを指導したりなどといったことをサパティスタが目指すべきではないということは、はっきり認識するべきだろう。サパティスタ運動の普遍性や曖昧さこそが重要なのだ。これを維持することは重要で、はっきりさせようなどとは考えてはならない。「国際的サパティスタ運動」とのつながりは村落にとって、抵抗の可能性を意味しているからだ。それはEZLNや市民団体、国内社会によるものよりも強力な盾となっている。
たくさんの世界を認める
はっきりさせることがいいことではない。一体感や普遍性を求めるより、意見の多様性や異なった者同士の存在をそのままに認めることをマルコスは大事にしている。
「投票権の拡大、女性の参加、少数意見の尊重を奨励し、考え方や感情の一体化の民主主義ではなく、先ほど引用した文書で主張していたような、意見の多様性と対立の存在を正当化するような民主主義を模索しようとしている」のが、サパティスタだと、ル・ボも書いている。
この曖昧さは、伝統的な勢力からは批判的に受け止められたようだ。
サパティスタは「武装した改良主義者」「ホルヘ・カスタニェーダ)であると言うよりも「民主的な革命家」「アラン・トゥレーヌ)であり、現実主義的な夢想家または実用主義的な急進主義者であるとも言えるかもしれない。彼らは根本的改革を求めており、その実現の方法は歩みながら創造していこうとするのである。あらゆる分類付けやレッテルを拒否するこの居心地の悪い姿勢に、教条主義者は戸惑いを覚えている。
サパティスタ運動に自らの枠組みを投影するヨーロッパ左翼は、意識的にか無意識的にか、サパティスタの独自性に分別を失う。権力に関するサパティスタの姿勢は、レーニン主義のいかなる流れとも相容れない。絶対自由主義の流れを汲む人びとの市場は自らとの共通点を見出し、今世紀諸党派フローレス・マゴンの信奉者たちがサパタとともに果たしたのと同じ役割を果たすことを夢見ている。一方、急進的なアナキストたちはサパティスタが、いつまで続くのか知らぬ移行期の間じゅう、権力と政党と制度的な政治の諸要因に与えている位置づけや、「憲法」や「祖国」に絶えず言及していることに、苛立ち、幻滅している。
だが、こうしたサパティスタに対する受け取り方の多様さも含めて、現実だ。サパティスタを批判する者同士は他の人たちとの批判と自分たちの批判が異なることを認められないかもしれないが、おそらく、サパティスタの「多様性を大事にする」姿勢からすれば、こうした意見の食い違いも含めて、現実として捉えることから、さあ、どうしようかとなるのだろう。
そして、民主主義的であること、ダイバーシティやインクルージョンを重視しようとすることを考える際、このサパティスタのありようから学ぶことは多いはずだ。
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