アルス・ロンガ/ペーター・シュプリンガー
政治が危機的な状況だ。
生命の危機、経済の危機はもちろんのこと、政治も大きく危機に陥っているように感じる。
18世紀のフランス革命以降続いてきた民主主義的な政治の行先が危うくなってきているのではないかと思う。
僕的には、今月の初旬にジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』をタイミングよく読んだことが、この危機を明確に感じることができた理由だ。
その本でアガンベンは、20世紀初頭における「国民社会主義帝国」の形成は「医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的特徴がその完成した形を引き受けはじめる瞬間をしるしづけている」と書いていた。
言うまでもなく、医学と政治が統合された状態がいまほどあらわになった状況もないだろう。
アガンベンの「剥き出しの生」
「19世紀と20世紀の近代国家を基礎づけるのは、自覚ある自由な政治的主体としての人間ではなく、何よりもまず人間の剥き出しの生なのである」と書くアガンベンは、「剥き出しの生」と呼ぶ肉体的な生命や生まれが政治的な監視対象となったのは、18世紀後半のフランス革命における人権宣言において王の主権から国民の主権に移行し、それにより臣民は市民へと変わった時期であると指摘する。市民に主権が移行した民主主義のはじまりは、同時に、生の監視による生政治のはじまりの時代であったわけである。
その「臣民から市民への移行において主権の原則からそのまま備給される、単なる生まれ」が政治的な監視・制御の対象となったことをアガンベンは問題視しているのだ。
「医師と主権者が入れ替わっているように思われる」とアガンベンは言うが、まさにこのいまの状況は近代以降の政治のそうした面があらわになった状況である。
それだけではなく、さらに、デジタルデータを駆使した市民の身体の監視により、その行動の分析や制御を可能にすることでうまくこの生命や経済の危機を封じ込めることに成功している国の政治が称賛される傾向もいまは見られるが、それはアガンベンが次のような例で示す「剥き出しの生」を徹底して制御しようとする、生政治の極端な例に近づいたものだとさえいえる。
1933年7月14日、ヒトラーの権力掌握からほんの数週間後、「遺伝学の血統の予防」のための法が布告された。これは、「遺伝病に罹っている者は、医学的検査の結果、子孫が心身の重大な遺伝病に罹る高い蓋然性のある場合は、不妊手術。施されうる」と定めていた。
「規範は、例外に対して自らの適用を外し、例外から身を退くことによって自らを適用する」とアガンベンはいう。
規範と例外は対立するというより共犯の関係であり、その例外は通常規範の背後に隠れていて市民主権の民主主義を支えるが、有事の時には暴力性を伴うかたちで例外が顔を出す。
「収容所とは、例外状態が規則になりはじめるときに開かれる空間のことである」とアガンベンは書いているが、まさに例外状態を規則にしてしまうのも有事の恐怖に怯えた市民がみずからの生の制御権を完全に委ねてしまい、全体主義的な体制を可能にしてしまうからだ。
いま、民主主義的な政治が危機に瀕しているのは、デジタルデータを駆使するポスト全体主義的な政治への憧憬が、この生命や経済の危機において人々の心に浮上してきているからに他ならない。
生を監視する技術としてのイメージング
このあたりは「ホモ・サケル/ジョルジョ・アガンベン」にも書いたので、そちらも参考にして欲しいのだが、そのあと、前に読んでいたバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』をすこし読み返したり、カルロ・ギンズブルグ『政治的イコノグラフィーについて』を読んだりしたのは、医学と政治をつないだ、18世紀以降の「剥き出しの生」としての生まれや身体を可視化する技術としてのさまざまなイメージング技術が人間の社会に及ぼした影響を理解したかったからでもある。
人体や生命を危機にさらす見えない敵をどうにか見えるように苦闘しはじめたのが18世紀の啓蒙の時代のイメージングの試みであるのを教えてくれるのがスタフォードの著作で、美術の領域においては規格化を担う新古典主義と例外に目を向けたロマン主義の両軸が登場しているのが面白い。
そうした芸術家たちによる美術作品が政治性をもったイメージとして機能したことを、まさに新古典主義を代表する画家の1人であるジャック=ルイ・ダヴィッドの「最後の息を引き取ろうとしているマラー」や、新古典主義とロマン主義が奇跡的に融合したようなピカソの「ゲルニカ」を題材に考察する歴史家ギンズブルグの視点は、まさに視覚的技術が強く政治に関与していることを伝えていた。
データによる管理に先行するイメージング=視覚化による管理が人間の生そのものを政治的なコントロールの対象とすることを可能にする。知覚できないものは思考の素材になり得ない。思考できないものはとうぜん制御不可能だ。ゆえに監視・管理するためには、視覚化やデータ化によって、生を代替するオブジェクトを生成する必要がある。
中央集権型のパノプティコンから分散型のプロトコルへ
そうした観点においてイメージングの技術は、データドリブンな現在の監視・制御に先行する政治的管理の方法だったのである。
イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが刑務所における監視の仕組みとして考案した、円形に配置されたすべての個室を中央の監視塔から望めるような構造を採用したパノプティコンなどは視覚技術による監視の際たる例だろう。
18世紀の観相学が顔における規律を志向し優生学にに結びついていったように、パノプティコン的な管理は、ひとつの規律の確立をもって、訓練型で人々にその遵守を強いるものだ。新古典主義が様式や規則を重視したのもまさに同様の考え方によるものであるし、インターネット以前の学校教育が教科書に書かれた固定化した知を詰め込むことを、規則正しい学校内教育のなかで行おうとしたのことも同様である。
ゆえに、パノプティコン的な管理の思想のもとでは、仕事場は住居から離れた場所に置かれて、労働者は監督者の目に見える工場内やオフィス内において、決められた働き方で働くことになる。規律に従って行動することが優先され、自分で自由に考え、工夫することは求められない。
いまテレワークができない仕事というのは、まさにこの近代的な規律・訓練型の仕組みにいまだに従っているわけだが、逆にテレワークが可能な仕事はもはやパノプティコン型の管理システムを用いていないということでもある。
そうした中央集権的なイメージング技術による管理から、データドリブンな時代の分散型監視制御へのシフトを論じたのが、アレクサンダー・R・ギャロウェイの『プロトコル』だ。
ギャロウェイは「規律=訓練型社会にとってのパノプティコンに対応するのが、管理=制御型社会にとってのプロトコルである」と書いている。先の働き方の話で言えば、プロトコルの論理に従って仕事の仕方を組み立てている会社は、そもそも分散型監視・制御が可能になっているがゆえに、テレワークに容易に移行可能なのだ。
同様のことが生政治においても、イメージングによる管理と、データドリブンの管理とでは異なるのだといえる。その違いも含めて、現在、僕らが政治的にどのような危機に晒されているかを理解しておくことが大事だ。
芸術作品は芸術家自身より長く生き延びる
今回紹介する「美術家たちの記憶の戦略」という副題のついた、美術史家ペーター・シュプリンガーによる『アルス・ロンガ』を読んだのも、そんな流れにおいてだった。
そう。前置きは長かったが、ようやく今回、紹介したい本にたどりついた。

「アルス・ロンガ、ヴィタ・ブレヴィス(Ars longa,vita brevis)」。
古代ギリシアの医師ヒポクラテスにさかのぼる格言だそうだ。
もともとは「人生は短いが、医術の習熟には時間がかかる」という意味だったという。
それが、やがて「アルス」の指すものが拡張され、芸術家たちの術=アルスも対象となる。
つまり「芸術家の人生は短いが、作品は長く残る」という解釈も普及することになったということを、この本は伝えている。
「美術家は生身の肉体の死ぬべき運命を超えて、作品の中で生き延びることができる。そして、美術家と作品の同一性はその理想的な前提に思われるからである」と、シュプリンガーは書いている。
作品がそれを生み出した芸術家以上にその人を象徴し、長く人々の記憶に残り続ける例は、すでに「アバターとしての創作物」でも紹介したロダンとその作品「考える人」の例のように多数ある。

美術史家のハンス・ベルティンクが『イメージ人類学』で論じているとおり、もとよりイメージは死者の代替、不在者の代替として古代より用いられてきたという出自がある。
たとえば、古代の再生がさまざまな形で行われたルネサンス期においては、個人の紋章や肖像画が流行することになるが、それらの視覚表現においても「身体の代理」としての機能があることが以下のように論じられた。
紋章と肖像画というテーマにおいても、本書でつねに問題としている2つの観点、つまり身体とメディアに固執することになる。こうした観点から見れば、肖像板絵も紋章盾もともに身体の代理として登場し、身体の現前を空間的・時間的に拡張するという意味で、「身体のメディア」と呼ぶことができる。
この代理の機能を満たすために、芸術家自身(またはその弟子)が自身の死の後の自身の不在の代理として、自身の作品の制作あるいは、自身の作品群の保存(自宅兼アトリエを保存すること、自身の作品を所蔵する美術館をつくること)を試みた例がこの本では紹介されている。
アルス・ロンガとしての画家のアトリエ
この本では、芸術家自身が自身の死を描いた作品を制作したり、弟子が死である芸術家の墓廟モニュメントを制作したりといった例も紹介されるが、ここでは、画家が残した作品を保存するために、住居兼アトリエを保存する例と、作品やコレクションを保存するための個人美術館をつくる例に焦点をあててみてみたい。
19世紀のフランスの象徴派の画家ギュスターヴ・モローもそうした例の1つで、僕も行ったことがあるが、パリにある彼の住居兼アトリエは、現在、ギュスターヴ・モロー美術館として公開されている。

フランスの画家ギュスターヴ・モロー(1826-98)は晩年、パリのラ・ロシュフーコー通り14番地の自宅兼アトリエを改装し、生涯にわたって制作した素描や絵画を保存、展示する記念の場所を準備した。
そして遺言で、長期間にわたって「生涯を通じた作業の全貌と努力を知ることができるように」、「できるだけ長くコレクションを保存し、それを1つの全体として保管する」ことを条件に、この建物とそこに収蔵された作品のすべてを国家に寄贈することを約束した。モロー美術館はフランス最初の私立美術館として、画家没後5年の1903年に開館した。
僕がこれまで行ったなかで好きな美術館の1つ、フランス・アルルにあるレアチュー美術館も、18世紀後半から19世紀にかけて活躍した新古典主義の画家ジャック・レアチューの、15世紀に建てられたマルタ騎士団の修道院を元にした住居兼アトリエで彼の作品やコレクションをベースとした美術館である。
コレクションの中には古代の彫刻の一部があったりして、それが新古典主義画家であったレアチューの作品やデッサンと同時に展示されていたり、現代の作家の身体を用いたビデオ作品などと並置されていたりすると、まさに美術が身体の代理であり、それが容易に生政治に利用されるうることを認識できる。

アトリエが保存されている例としては、ジャン・ジュネが『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』で紹介しているジャコメッティのアトリエも「ジャコメッティ・インスティテュート」として公開していたりする。

デンマーク最初の公的美術館
大きく分けると、住居兼アトリエがそのまま公開されているケースと、その作品やコレクションも含めて美術館になっているケースに分けられる。
デンマーク出身でローマで活躍した彫刻家であるベルテル・トルヴァルセンの作品やコレクションを所蔵するコペンハーゲンのトルヴァルセン美術館も後者の例の1つだろう。そして、この美術館の設立は政治とか変わっている例でもある。
若くしてローマに留学後、スペイン広場の近くに住居兼アトリエを構えて、そこで生涯のほとんどを過ごしたトルヴァルセンは、「最初、自分の作品とコレクションを収める個人美術館をローマにもつことを考えた」のだという。「しかし、デンマークの批評家ペーター・ヒョルト(1793-1871)は1813年にすでに『トルヴァルセンへのいくつかの言葉』において、トルヴァルセンの全作品の複製を収蔵する美術館を故郷コペンハーゲンに建てることを提案している」こともあり、「1828年にはトルヴァルセン自身、それをコペンハーゲンにもつ希望を述べている」のだそうだ。
1838年12月5日の最後の遺書で、自分の作品の雛形と複製およびコレクションをコペンハーゲン市に寄贈することを正式に表明した。この寄贈には、トルヴァルセンの作品とコレクションのみを収める独立した美術館を建て、トルヴァルセン美術館と命名するという条件が付き、所蔵品を減らすことも追加することも禁じられている。

こうした経緯もありながら、トルヴァルセン美術館はトルヴァルセンが亡くなった1848年に開館している。先のフランス最初の私立美術館であるギュスターヴ・モロー美術館の設立が1903年なのだから、1848年にすでに開館しているというのは早い。これを可能にしたのが次のような事情なのであろう。
民主的国家となる途上にあったデンマークの政治情勢がトルヴァルセン美術館の建設を後押しした。全欧的名声を獲得していた美術家トルヴァルセンの作品をそのコレクションとともに収める美術館は、国民の寄付を募って建設された。デンマーク最初の公的美術館として、国家のシンボルになると考えられたのである。(中略)自由な国の自由な市民が主導することによって、トルヴァルセン美術館は国家のモニュメントとしてのアイデンティティを獲得した。
そう、そこには美術作品という息の長い生命をもつものを利用しようという政治的な思惑があったのだ。
パンテオンの役割の変遷
政治的な思惑に美術作品や芸術家の名声が用いられるという例では、ローマとパリのパンテオンの変遷をみるとよくわかる。
まずはローマのパンテオンだが、これは紀元前25年、ローマの神々を祀る万神殿として建てられたのが最初である。

しかし、その後、キリスト教の聖堂として使われるようになる。中世においても建物が残ったのはそのためであるが、これも政治的な理由と言えるだろう。
そして、ルネサンス期、それまでキリスト教の神父たちの墓所となることはあっても、世俗の人の墓になることはなかったパンテオンに、画家ラファエロの墓が作られたことから、また少しずつ役割が変わってくる。以下のように、キリスト教的な性格から、芸術家たちの力を持って借りた場所に変わってくるのである。
7世紀以降キリスト教の聖堂として使われていたローマのパンテオンは19世紀初め、カノーヴァとそれに倣う人々による著名な芸術家の胸像の寄進をもって、芸術家の顕彰、記念施設としての性格を急速に強めた。すでに述べたように、1820年までには、墓廟に結びついていないものだけでも、60以上の胸像があった。この状況を1817年に見たフランスの作家スタンダールは、美術館のような印象を受けたと記している。
絶対王権がルネサンス以降の美術作品を収集し、その財力や力を誇示するのに用いたのと同様の力学が働いていることがわかる。
同様のことが18世紀に建てられたパリのパンテオンでも見られる。
こちらはその変遷の仕方が、時代的にもフランス革命にともなう政治性と深く重なっている。
パリのパンテオンは当初、キリスト教の聖堂として建てられた。ルイ15世(在位1715-74)は、病気快癒を謝すために、聖ジュヌヴィエーヴへの聖堂の奉献を誓い、1755年、建築家ジャック=ジェルマン・スフロ(1713-80)に設計を依頼した。そして、それは1790年、完成する。
しかし1791年、フランス革命の指導者の1人ミラボーの死にさいし、国家に顕著な貢献をした英雄やフランスの誇る著名な知識人、文化人を埋葬し、顕彰、記念する殿堂パンテオンに変わる。(中略)その後、パンテオンは19世紀のうちに2度、キリスト教の聖堂に戻り、ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)の埋葬にさいして1885年、再度、パンテオンとなり現在にいたっている。

死者の代理をもって政治をなす
ポイントになるのは、キリスト教者か、芸術家なのかの違いはあれど、そこに祀られるのは、神同様不在の死者であるということだろう。
不在の者の代理となる彫像や絵画をもって、生者を管理するための象徴とする政治的な意図がそこにはある。
シュプリンガーはこんな風にも書いている。
偉人を祈念するための建造物は、聖堂でなくとも宗教的性格をもつようになる。(中略)バイエルン王ルートヴィヒ1世の注文でドイツの偉人を記念するために建てられたレーゲンスブルクのヴァルハラ神殿(1830-43)や、バイエルンの偉人を記念するミュンヘンのルーメスハレについても同様のことがいえる。
こうした現象は、ナポレオンの支配下で育まれたナショナリズムとロマン主義が培った、偉人とくに芸術家の神格化を背景に、宗教的コンテクストになじみ深い偉大さや価値観、儀式と実践の美術家信仰への適用は、ほかの次元でも実現した。美術作品の聖像のような扱いや、美術家の遺体の聖遺物のような扱いはその一例である。
またしても、ロマン主義である。18世紀の新古典主義、そして、すこし遅れて18世紀後半から台頭してくるロマン主義が両軸で、規律的なものとそこからはみ出す例外的なものとをうまく使うことで、生の制御を可能にする。
規律と訓練という表の面と、芸術家や神的なもののある種、異常で例外的なものがもつ畏怖や恐怖を呼び起こす力という裏の面によって。
前者が生きている身体の表面に直接働きかけるとしたら、後者は不在のものの代理による現前を通じて、意識を介して間接的な働きかけを行う。
後者の例外的なものが規則になろうとするのは、死の恐怖が表面化したときである。戦争やパンデミックにより生命や日常の生活が奪われる危機に人々が晒されたときだ。
その生のコントロールを中央集権的に行おうとするとき、そこでは見えないものを視覚化するという戦略がとられてきた。
そのコントロールの方法は規律と訓練である。
それがいま生命や日常活動に関するデータを一手に握ることで見えないものを見えないままにしたままほとんど無意識のうちに制御を行う形にも変化しつつある。
政治のあり方が大きく変わる岐路にあるいま、僕らは自分の生を守るためにも、慎重に政治的選択をそれぞれが行う必要がある。
すくなくともその選択の意志を放棄したら、それは生の放棄に他ならないのだということを忘れてはいけない。
そんなことを考えながら、この本を読んだ。
いいなと思ったら応援しよう!
基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。