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生とスペクタクルの狭間で――アガンベンとドゥボールが照らす「残りもの」の行方

「90年代の終わりごろ、パリの書店の本棚にイコノグラフィーの入った『称賛の辞』の第二巻が、たまたまだったのか、店主の皮肉をこめた意図によるものだったのかーポール・リクールの自伝の脇に陳列してあった」。
ジョルジョ・アガンベンは『身体の使用』でそんなエピソードを語る。そのエピソードは、現代社会における「生」と「スペクタクル」の関係を考える上で、一つの示唆的な風景を提示しているように思う。


写真が映す「生」の断層――ドゥボールとリクール

アガンベンは、この二冊の写真の使い方を対比させる。リクールの写真は、哲学者が学術的な会合に出席する姿ばかりを捉え、「まるで彼にはそれ以外の人生はなかったかのよう」だと記す。一方、ドゥボールの『称賛の辞』は、「著者の生活のあらゆる側面にかかわる伝記的真実を映し出し」、「〈真正なイラスト写真は〉と短いまえおきは注記している、〈真実の言説を照らし出す。……したがって、とどのつまりはそれらがさまざまな時代におけるぼくの外観だったことが読者にはわかるだろう。その種の顔ぶれにぼくはいつも取り巻かれていたのだった。それらの場所にぼくは住んでいたのだ。……〉」とあるとおり、私的な写真が多くを占める。

ここには、公的な顔としての哲学者の生と、そのあらゆる側面――友人、住居、愛した女性たちといった「内密の生」――をも含めて捉えようとするドゥボールの生のあり方が対置されている。アガンベンが「ここでもまた、記録されている資料は明らかに不十分なものであり、とりとめのないものであるにもかかわらず、生が――内密の生が――前面にしゃしゃり出ている」と評するように、ドゥボールの試みは、公的なスペクタクルに回収されない「私秘性」の重要性を浮かび上がらせる。

この「私秘性」こそ、アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』で探求した「残りもの」の概念と響き合うのではないか。法や倫理、あるいはスペクタクルの論理では捉えきれない、しかしそれゆえにこそ根源的な力を持つ「残りもの」。ドゥボールの「内密の生」へのこだわりは、スペクタクル社会における「残りもの」としての生の可能性を指し示しているように思えるのだ。

「ひとは存在している」――生の不決定性と政治

アガンベンはさらに、ドゥボールの妻アリスとの逸話を引く。イタリアの若者たちがドゥボールの言葉を待っているとアリスが伝えると、ドゥボールは「ひとは存在しているのだ(on existe)。それで十分じゃないか」と答えたという。当時、彼らは電話もつけずに隠遁生活を送り、その「存在」は「完全に〈私的生活の内密さ〉に平準化されてしまっていた」。

この「ひとは存在している」とは何を意味するのか。アガンベンは、「存在――西洋の第一哲学のあらゆる意味において基本的なこの概念――はおそら〈生と関係があるのではないかとおもわれる。存在するとは〉」とアリストテレスは書いている。〈生きものにとっては生きることを意味する〉と。
そして何世紀もあとになってニーチェはこう定義しなおしている、〈存在するということ、これについてわれわれは生きるということ以外の表象の仕方をもちあわせていない〉と、存在と生の緊密な絡まり合いを指摘する。そして、「あらゆる生命主義の外にあって――明るみに出すこと。これこそはたしかに今日、思考の(そして政治の)任務なのだ」と続ける。

ドゥボールの「存在」は、単なる生物学的な生存を超え、スペクタルク化された社会における「生」のあり方そのものへの問いを含んでいる。それは、公的な活動から退いたとしても、なお「存在する」ことの根源的な意味を指し示す。アガンベンは、「まさしく生の不決定性こそが、生をどんな場合にも政治的かつ単独的に決定されざるをえないものにしている」と述べ、この捉えがたい「生」の次元にこそ、政治的な潜勢力が宿ると示唆する。

スペクタクルの社会における「生」の収奪

ギー・ドゥボールの主著『スペクタクルの社会』は、まさにこの「生」の収奪の告発から始まる。「近代的生産条件が支配する社会では、生全体がスペクタクルの膨大な蓄積としてあらわれる」。かつて「直接に生きられていたものがすべて表象のうちに追いやられてしまう」世界。スペクタクルは「生の具体的な逆転」であり、「人間の生が彼の産み出したものであればあるほど、彼は自分の生から分離される」のだ。そこにあるのは「偽の生」であり、「余分な生」であり、「生の擬似的な使用」に過ぎない。

この疎外された生に対抗するものとして、ドゥボールは「歴史的な生」を提示する。それは、「永遠との歓喜にみちた断絶」としてルネサンス期に現れ、「イタリアの都市国家の陽気な生のなかで……生はみずからを時間の流れを享受するものとして認識する」ような、主体的な生のあり方だ。若き日のドゥボールと同志たちが「毎日、すべてを再発明したいとおもっていた。自分自身の生の主人になり所有者になりたいとおもっていた」という言葉は、この「歴史的な生」への渇望を鮮烈に示している。彼らの出会いは「これまでほんとうには見つかっていなかった、より強烈な生からやってきた合図」だったのだ。

しかし、この「より強烈な生」とは具体的に何なのか、スペクタクルの中で何が偽造されてしまったのかは、ドゥボールのテクストの中でも必ずしも明確ではない。アガンベンは、これをドゥボール個人の問題ではなく、「わたしたちの文化において恒常不変のものとなっている態度」だと指摘する。すなわち、「わたしたちの文化においては、生はけっして生として定義されることはなく、そのつど、ビオスとゾーエー、政治的な資質をさずけられた生とむき出しの生、公的な生と私的な生、植物的な生と関係の生とに分節化され分裂させられており、分割された部分のそれぞれが他の部分との関係のなかでしか規定されえなくなっている」。

この生の分節化と不決定性こそが、ドゥボールが「私的な内密の生」と「歴史的な生」の間で態度を決定できずにいた理由であり、それは「すくなくとも現在の状態のもとではだれひとりとしてきっぱりと解決したと思いこむようなことをするわけにはいかない」現代的な課題を示している。ドゥボールが追い求めた「むなしくも炎の中で消尽してしまう生」は、私的な生にも公的な生にも還元できない、両者を区別する可能性そのものを問いに付すような、根源的な生の次元を指し示しているのだ。

AI時代の「残りもの」――スペクタクルの深化と新たな抵抗

そして現代、私たちはAIという新たな技術によって、スペクタクル社会がさらに深化していく様を目の当たりにしている。AIは、既存のデータ――その多くは既にスペクタクル化された情報――を学習し、新たなスペクタクルを効率的に生成する。画像、テキスト、動画といったAI生成コンテンツは、私たちの日常を覆い尽くし、ギー・ドゥボールが予見した「生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる」状況を、かつてない規模で実現しつつある。

このようなAI時代のスペクタクルにおいて、アガンベンの「残りもの」という概念は、より切実な意味を帯びてくる。AIが学習し、生成するスペクタクルの論理からこぼれ落ちるもの、あるいはそれに抵抗するものは何か

それはまず、ドゥボールが『称賛の辞』で捉えようとしたような、一回的で具体的な「内密の生」だろう。AIはパターンを認識し一般化することは得意だが、個々の人生が持つ固有の文脈や、言語化されにくい情動の機微、身体を伴う経験の重みを捉えることは難しい。アガンベンが「わたしたちの自己自身との非-一致をあらわにする内密性こそが、証言の場所である」と述べるように、このAIにとってアクセスしにくい「内密性」の領域にこそ、「残りもの」としての生の可能性が潜んでいる。

また、AIが効率性や予測可能性を追求するのに対し、「残りもの」としての「生の形式」は、時に非効率で予測不可能な「使用」のあり方を示すかもしれない。アガンベンが『身体の使用』で探求する、規範や目的から自由な「使用」の概念は、AIによる最適化の論理への重要な批判となりうる

さらに、スペクタクルが絶え間ない情報とイメージの洪水であるのに対し、「残りもの」は語りえないこと、沈黙の価値を含む。これは、AIのデータ駆動型アプローチとは対極にある。アガンベンが「非-言語を言語が引き受け、非-言語のうちで言語が生まれる」と述べるとき、それはスペクタクルの言語に回収されない、沈黙や語りえなさの中から生まれる新たな言語の可能性を示唆している。

ギー・ドゥボールが「ひとは存在している」と静かに語ったとき、それはスペクタクルの喧騒から離れた場所での、剥き出しの「生」の肯定だったのかもしれない。AIが生成するスペクタクルがますます私たちの生を覆い尽くそうとする現代において、この「残りもの」としての「生」を意識し、それを育み、そしてそれを新たな「使用」のあり方へと繋げていくこと。それこそが、私たちがスペクタクルの支配から逃れ、人間的な自律性と創造性を保つための、ささやかだが根源的な抵抗の道となるのではないだろうか。それは、アガンベンとドゥボールが、それぞれの仕方で私たちに指し示してくれている、生とスペクタクルの狭間にある、希望の在処なのかもしれない。


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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。