ジャレッド・ケイド『なぜ アガサ・クリスティーは失踪したのか?』 読書感想文
ネタバレ。
ネタバレ。
ネタバレ。
これだけ書けばいいだろうか。
なんてったって、アガサ・クリスティーは推理小説作家。
当人の失踪なんてミステリーすぎるし、ネタバレもはばかれる。
失踪したのは1926年。
36歳のとき。
11日間。
すでに推理小説作家としてデビューして5年が経っているけど、まだそこまで有名ではない。
この失踪によって大騒動になって、全国区の知名度を得る。
著者は疑問を挟む。
この年、イギリスの失踪者は1万5000人余り。
しかしなぜ?
アガサ・クリスティーだけが大騒動になったのか?
現代の日本で読んでいる自分には、この大騒動には、シャーロック・ホームズを生んだお国柄を感じた。
いかに人々が推理が好きなことか。
あっちもこっちも、ミニ私立探偵だらけ。
夫に殺害された。
いや、池で自殺した。
発表されたばかりの『アクロイド殺し』の宣伝だ、などと推理していく。
新聞も連日、ありとあらゆる推理を書き立てる。
ちなみに。
シャーロック・ホームズの生みの親のコナン・ドイル(このとき死去の4年前)は、この件では推理することなく、霊媒師に生死を問うているのがずっこけてしまう。
とにかくも。
アガサは11日後に無事に発見される。
が、「よかったですね」では終わらない。
新聞記者たちは執拗に追いかけて、自宅も張り込み、詳細を書き立てる。
事態の収拾をはかる夫は、記者会見に応じる。
アガサは自動車事故に遭ったショックで記憶喪失になっていた、と説明する。
しかし。
説明は裏目に出た。
それはおかしいと、さらに推理を生んだ。
疑惑も失笑も揶揄も、悪意を含んで派生した。
アガサはメディア嫌いになり、公の場にも出ることもなく、とうとう失踪は謎に包まれたまま。
一方では、作品が知られたことで、熱心なファンも多く得た。

訳:中村妙子
装画:渡邊伸綱
原題:AGATHA CHRISTIE AND THE ELEVEN MISSING DAYS
アガサ・クリスティーの失踪は、ある種の “ ネタ ” になってしまった様子が、よく伝わってくる。
ある新聞は、アガサの失踪の延長で『この人を探せ!』という企画を5年間続けた。
ある裁判官は法廷で、『例の失踪した推理作家のように』と非難のフレーズに使う。
20年が経っても『ミセス・クリスティーはどこへ行った?』と、子供が歌って遊んでいた。
30年が経っても『最も成功した小説のプロモーション方法』としてテレビで特集された。
ついでのようにして『殺人から最も金儲けして幸福を得た女性』と評されもいる。
それでもアガサは、86歳で死去するまでの50年間、失踪は記憶喪失で通した。
死後には『アガサ・クリスティー自伝』が発刊された。
でも、失踪については、ほとんど触れていない。
記憶喪失だったと匂わせるように書いてあるだけ、だという。
著者のジャレッド・ケイドについて

この本はアガサ・クリスティーの伝記でもある。
すでに伝記は何冊もあるが、すべてが推測に基づいている。
実地調査をして書かれたのは、この本を含めて2冊のみ。
と、著者のジャレッド・ケイドは自負する。
著者はアガサの作品をすべて読み込んでおり、そのことで近親者の信頼を得て、当時の直筆の手紙を読んだり、エピソードを聞き出すことができた。
アガサは記憶喪失で失踪したのではないと結論したのは、確度が高く感じた。
もちろん、アガサの心の中まではわからない。
推測も多くあり、敬意も親しみを込めて、だいぶ好意的に盛っているのは感じた。
それらを差し引いてもうなずけたのは、その生涯と伴走しながら、多くの作品を取り上げているところ。
この作品のこの台詞に、このときのアガサの気持ちが現れている。
この作品のこの登場人物は、このときの人がモチーフとされている。
そういった具合に、アガサの生涯と筆致を重ね合わせている。
作品の解釈には、4分の1以上のページが割かれているのではないのか。
ファンは、二重に面白く読めるのかも。
自分は『 そして誰もいなくなった 』しか読んでいないので、面白味が半減したようで残念。
なぜ、アガサは本当のことを言わなかったのか?

正直に本当のことを言えばよかったのに。
「実は記憶喪失ではありませんでした。本当はこうでした」と。
はじめは不思議に思ったけど、読んですぐに察する。
ひとつには、体面を失わないため。
夫婦は、大英帝国の階級社会の上位者。
貴族とまではいかないが、ロンドン郊外の大きな邸宅で暮らし、秘書も運転手もメイドもコックもいる。
夫は、第一次大戦で活躍した元大佐。
失踪の当時は会社役員に就いていたが、新聞では『大佐』と書き立てられている。
さすがに、すべてをさらけ出せない。
アガサの性格もある。
すごく内向的。
慎みぶかいクリスチャン。
恥ずかしさもあったのか。
とにかくも。
なぜ、アガサ・クリスティーは失踪したのか?
主要人物

━━ アガサ・クリスティー
1890年 イギリス生まれ。
1920年、推理作家デビュー。
1926年12月3日、失踪する。
1976年没。
66冊の推理小説と14冊の短編集を著す。
━━ アーチ(アーチボルド)
アガサの夫。
失踪の2年後に離婚。
以降は、会社の重役として成功する。
━━ ナン
アガサの親友。
2歳年上。
12歳からの義理の姉妹でもある。
失踪には、すべてを知った上で協力した。
79歳で死去するまで、アガサとの親交は続いた。
━━ ナンシー・ニール
アーチの不倫相手。
アガサは不倫に気づかず家にも招き、友好関係にもあった。
発覚後は、心の底からナンシーを憎んだらしい。
短編『 崖っぷち 』の中では、ナンシーに見立てた登場人物を崖から飛び降りさせている、とのこと。
━━ マッジ(マーガレット)
アガサの10歳年上の姉。
注目を集める活発なタイプで、ニューヨークの社交界でデビュー。
ロンドンの貴族と結婚する。
戯曲も手がけるといった文才もある。
この姉から「あなたに推理小説なんて書けるわけがない」と言われ、アガサは反発。
推理小説を書きはじめる。
━━ クラリサ
アガサの母。
失踪の10カ月前に死去。
敬虔なクリスチャンで、トマス・ア・ケンピスの『 キリストにならいて 』を愛読していた。
アガサはその本を、生涯にわたり、ベッド脇のテーブルに置いていた。
━━ マックス
アガサが40歳になる2日前に再婚した相手。
彼は26歳だった。
結婚から10年が過ぎたころ、ロンドンの大学で考古学の教授に就任する。
アガサが死去した翌年、かねてからの不倫相手と再婚する。
が、その翌年に死去した。
ネタバレあらすじ
|丘陵の小道で乗り捨てられた車が発見された

その日の早朝。
大通りから入った林の小道の脇の土手に、車が乗り捨てられているのを通行人が発見。
通報を受けた警察が調べると、車内には毛皮のコートとトランクが残されており、アガサ・クリスティーの運転免許証が見つかる。
照会すると、前の晩に自宅を出たまま。
所在は不明となっている。
不慮の事故に遭い、夜中に丘陵をさまよい、草むらに倒れているのではないか。
警察はすぐに捜索をはじめた。
|警察は夫を疑う

さらに警察が調べると、夫のアーチは不倫をしており、何度もアガサと口論になっていたと判明。
数日前には、泣きまくるアガサはティーポットを投げつけている。
そして、失踪したその晩。
アーチは、友人宅でパーティーに出席していた。
不倫相手と一緒に。
決定的だったのは、アガサが残した置き手紙を破り捨てて、それを警察に黙っていたこと。
秘書、メイド、コック、運転手など、証言者は複数いた。
警察は、アーチに疑いを持つ。
友人宅は、車が発見された場所から数キロにある。
パーティーを抜け出したアーチは、呼び出したアガサを殺したのではないか。
|多くの新聞が失踪と疑惑を書き立てた

この時代、テレビはない。
人々は新聞でアガサの失踪を知り、顔写真が載ると多くの目撃者も現れた。
同時にアーチの疑惑も取り上げられて、多くの新聞のトップ記事となる。
丘陵の草むらは捜索された。
現場近くの池の水抜きも行われた。
予備警察もボランティアも、合わせて2000人が集まった。
新聞記者や野次馬を含めると、現場には最大で1万5000人が集まったという。
|ある女性の宿泊客

そのころ。
現場から300キロ離れた保養地の高級ホテルで、ある女性の宿泊客が隠れた話題になっていた。
連日、各新聞に大きく載っているアガサ・クリスティーに似ている。
彼女は失踪が報道された翌日から泊まり、日中は貸本屋にいったり、ビリヤードをしたりしている。
「あなたはミセス・クリスティーによく似ておられますね」と、冗談まじりに声をかけた者もいる。
彼女は「わたし、そういうことには興味ありませんの」と答えている。
夜はダンスホールに姿を見せる。
そこのバンドのメンバーは「彼女はアガサ・クリスティーだ」と言い合っていた。
だが、プライバシーを厳守する上流階級が利用する高級ホテルの雇われのバンド。
それを言いふらして、もし人違いだったら、あっさりと職を失ってしまう。
が、メンバーの妻が、あまりにも気にしているのを見かねて警察に通報した。
警察は調べてみる。
彼女は、宿泊名簿には『テレサ・ニール』と記入してある。
南アフリカから来た、とある。
宿泊して2日目には、新聞広告も出している。
『 最近まで南アフリカにいたテレサ・ニールの友人知人の連絡を乞う 』という内容。
メイドによると、室内では書き物をしているという。
新聞を目にしても、とくに変わった様子はないとも。
どうにも警察は確証を持てない。
連絡を受けたアーチは、確かめるために当地に向かった。
|失踪の理由は明かされた

11日目の朝。
彼女は、ホテルのラウンジに姿を見せた。
座っているアーチに気がついてからは、無言のまま同じ席に座る。
彼女は、間違いなくアガサ・クリスティーだった。
夫婦は長く話した。
失踪は、アーチを失う不安からの行動だった。
帰ってこないアーチを困らせるため、アガサは車で家を出てから、パーティーが行われている友人宅の近くに車を放置。
義姉のナンの家に泊まる。
いずれ、アーチが見つけに来るだろうと思っていた。
アーチの兄の職場宛に、ホテルから手紙も出している。
が、見つけにくる前に、これほどの全国的な大騒動になるとは。
アガサもナンも、まったく想像していなかった。
新聞広告を出したのは、記憶喪失を装うための策だった。
|今でいうパパラッチ状態に

翌日。
ホテルから1歩踏み出してすぐに、待ち構えていた新聞記者たちからは無遠慮にフラッシュを浴びせられる。
到着した駅は大混雑。
新聞のトップ記事で “ アガサ発見 ” を知った人々が、一目見ようと押しかけていたのだった。
群衆といえた。
列車の個室から、群衆を目にしたアガサは驚いて、ワッと泣き出した。
それでも、ホームを歩くときは毅然としていた。
帽子は目深にかぶっていたが、口元には笑みも見せた。
ところが。
その瞬間を撮って、ある新聞がトップに大きく載せた写真はムゴい。
この本にもその写真は載っているが、悪意がある。
企ての成功を喜んでいる笑みにも、大騒動を冷笑しているようにも見える。
読んでいる自分としては、なんとしてでも夫の気を引こうとして大失敗したアガサが可愛らしくも感じるのだけど、当時の多くの人は、あくどい推理作家みたいに感じたのだろうなと思われた。
そんなだからか。
記憶喪失で失踪した…というアーチの説明は、ストレートに疑いを持たれるに至る。
新作の宣伝のための失踪説…が大きくなったようだ。
新聞には、アガサを非難したイラストも載る。
大勢の人々が丘陵を捜索している様子に知らん顔して、笑みを浮かべて華麗なダンスを踊っているアガサが描かれた。
捜索費用を支払うべきだ、との意見も各所に寄せられる。
それに応えるようにして、警察は捜索費用をアーチに請求。
金額に驚いたアーチは、支払いを拒否した。
|失意の離婚

翌年。
アガサは離婚に同意した。
アーチから憎まれていることに耐え切れなくなったのだ。
離婚の裁判では、不倫相手のナンシーの名前は伏された。
ナンシーの名前さえ出さなければ1人娘の親権を認める、とアーチは要求する。
でなければ新作の宣伝のために失踪したと言いふらす、とアガサを追い詰めた。
離婚したアーチは、すぐにナンシーと再婚している。
このあと30年間、ナンシーが癌で死去するまで、2人の結婚生活はつづく。
「結局のところ、アガサは、アーチを失った痛みを乗り越えることができなかったんじゃないかと思うわ」という近親者の言を、著者は聞き取っている。
ここまでで、本のページの残りは3分の1となっている。
|バグダッドでの出会い

離婚してから2年後。
アガサは中東に向けて1人旅に出た。
バグダッドがよかった…と友人から聞いたし、有名なオリエント急行にも乗りたかったからでもあった。
アガサに限らず、当時のイギリス人は海外旅行に頻繁に出かけている。
これは、海外の方が生活費が安くついたとからとのこと。
知らなかった。
で、バグダッドに、オリエント急行は着いた。
アガサは古代の遺跡を見学する。
そこで、イギリスから赴いている青年考古学者のマックスと出会う。
2人は改めて会うようになり、14歳年下のマックスはプロポーズした。
|2つの条件

このときアガサは、結婚する条件を2つ出している。
1つ目は、お互いの収入も所有物も半分ずつに分け合うこと。
これはアガサのほうが収入も財産もあるので、マックスは断る理由がない。
アガサは、同じ失敗をしないようにしていた。
以前は、推理作家として経済的に自立していくアガサに対して、アーチは退役後の就職がうまくいかなくて、出費の諍いがあったからだった。
2つ目は、絶対にゴルフはしないこと。
これは、ゴルフを通じてアーチの不倫がはじまったからだった。
アガサ、かわいいではないか…と思うのはゲスなのだろうか?
それはともかく。
もともとマックスはゴルフをしてなかったから、これも断る理由がない。
しかもカトリックだったマックスは、離婚した女性とは結婚できないという戒律を放棄するため、サクッと離脱している。
マックス、やるではないか…と思うのは失礼きまわりないし、ゲスだという自覚はある。
|幸せな10年間に

再婚してからの10年はアガサは幸せだった…と著者は記す。
この10年間に25冊を発刊。
『 オリエント急行の殺人 』は傑作と評された。
遺跡の発掘をしているマックスとは離れているときも多かったが、手紙のやりとりは頻繁にあった。
手紙の内容は、明るさや嬉しさに満ちている。
一緒にエジプト旅行にもいき、代表作となる『 ナイルに死す 』を書きあげている。
結婚して10年が過ぎるころ。
マックスはロンドンの大学で考古学の教授となる。
|そしてアガサは悩まされる

考古学者というのは、職業としては不確か。
マックスが教授になれたのは、アガサの経済的支援が大きかった…というのは自分の勝手な推理ではない。
著者がそう記している。
そんなマックスだったが。
このころから助手との不倫が続く。
アガサは、また不倫に悩まされる。
悩むアガサだったが、作家としての名声は高まっていく。
この時期に書いた『 そして誰もいなくなった 』はベストセラーになる。
残り20ページを省いたラスト

80代になったアガサは、新たな作品を書くペースは落ちていく。
そんなある夜。
1人の少年が訪ねてきた。
アガサは一遍の詩を詩を引いて、一生を支えた哲学を聞かせた。
わたしには、3つの宝物がある。
最初の宝は、愛。
第2は、あまり多くをやりすぎないこと。
第3は、世の中で先頭に立とうとしないこと。
・・・要約すると上記になる。
で、50年が経っても。
ことあるごとに、あの失踪は取り沙汰されていた。
最後の冬に。
アガサは風邪をこじらせる。
1976年1月の、その日の昼食のあと。
マックスが押す車椅子の上だった。
「わたしをつくられた神さまにお目にかかりに行けるのね」とアガサはつぶやく。
間もなく、静かに息を引き取った。
