Tokinaはフランスの夢を見るか|シネレンズの血脈と、神楽坂の夜
こんにちは。d-fractalのデザイナー、Tanakaです。
いつもの神楽坂の裏路地。重い木の扉を押し開けると、控えめなジャズの音色と、マスターがグラスを磨く微かな音が迎えてくれます。
今日は仕事が早く終わったので、いつものここでいっぱいやって帰ろうと思って寄ってみると案の定いた(笑)うちのボスが。この静かなバーのカウンターの真ん中が、うちのボスの定位置です。
「ボス、さっさと帰ったと思ったらここですか、家で待つ猫ちゃんはいいんですか?」
「ああ、あいつらはええねん、一匹やないから楽しくやってるやろ」
タリスカーのソーダ割りをゆっくりと傾けるボスの隣に座り、私はジントニックを頼みそれを待ちながらふと最近悩んでいた機材の処分について話を振ってみました。
「ボス。Tokinaの『AT-X PRO 28-70mm F2.8通し』、実はマウント違いで2本も持ってるんですけど、最近めっきり使わなくなっちゃって。そろそろ売ろうかと思ってるんですけど、どう思います?」
ボスはグラスを置き、面白そうに目を細めました。
「またお前、渋いの持っとるな。あれ、俺たちの時代にもちょっと流行ったわ。当時のTokinaらしからぬ重厚な金属製鏡筒でな、おまけにインナーフォーカスや。あれがカッコよかったんよ。あの当時の安いズームレンズ言うたら、ズーミングするたびに頭がみよーんと間抜けに伸びて、ホンマにカッコ悪かったからな」
「そうなんですよ。フォーカスクラッチ機構も含めて、ガジェットとしてのカッコよさは抜群なんですけど……いかんせん重いし、開放のピントは今の基準で見ると激甘だし。でも、ヤフオクの相場を見たら、下手したら1万円を切るような値段で転がってて」
「まあ、そうやな。俺なら売らんかな。今さら売っても二束三文にしかならんしな。……ところでTanaka、そのレンズと『アンジェニュー』の奇妙な関係、知ってるか?」
「アンジェニュー……フランスの、あのシネレンズとかで有名な名門ですか? まあ、一応ネットの噂話程度にはTokinaとの話聞いたことありますけど、なんか面白い裏話でもあるんですか?」
私の問いに、ボスは「よしきた」とばかりにニヤリと笑いました。こういう時のボスの機材語りは、だいたい面白いのです。
■ 倒産の危機と、フランスからのオファー
「これがな、かなり複雑で泥臭い話なんや」
ボスは、タリスカーの氷をカランと鳴らして語り始めました。
「まず1988年にな、トキナーが『AT-X 270 AF (28-70mm F2.8)』っちゅう大口径ズームを作ったんや。でもこれが、あんまり売れずに会社が傾きそうになるくらいの大ピンチに陥った。そこにな、フランスのアンジェニューが目をつけたんや。『なんやこのレンズ、面白そうやん♪』ってな」
「面白そうやん、って(笑)。いくらなんでも軽すぎません?」
「まあニュアンスとしてはそんなもんや(笑)。で、アンジェニューがトキナーにOEM供給を依頼するんやけど、その時にアンジェニュー側からレンズの設計にガンガン注文をつけて、光学系のブラッシュアップやら、鏡筒の高級化が図られたんや」
「へえ、めっちゃ面白そうな話ですね。日本のレンズメーカーの危機に、フランスの名門がテコ入れしたと」
「まあおそらくそんな感じや。で、その時にアンジェニューから発売されたのが『Angenieux 28-70mm F2.6-F2.8 AF』や」
「あれ? F2.8通しじゃないんですね」
「ああ、その話はまた後で話すわ。とにかくな、その後アンジェニューがなぜか急に一般写真用のレンズ市場から撤退してまうねん。そんで、その残された基本設計を今度はTokinaが買い取って、それをベースに『AT-X 280 PRO (28-80mm F2.8)』なんかのPROシリーズが誕生した訳や」
ボスはそこで言葉を区切り、私のジントニックを指差しました。
「で、さっきの疑問や。なんでF2.6-2.8やったアンジェニューの設計から、あえて『F2.8通し』にしたんか。それはな、まあ単純に『F2.8通し』のほうがカタログスペックとしてプロっぽくてカッコええのと……F2.6の広角開放の描写が、輪郭が溶けるくらい『激甘』やったから、少しでも性能を良く見せるためにあえて絞ってフタをした、いう泥臭い話もあるんや」
「なるほど……。確かに、F2.8に制限されてる今の私のPROでも、今の解像度至上主義の基準から見たら、開放はびっくりするくらい激甘ですもんね」
■ シネレンズの「正解」と日本の「正解」
私が呆れたように言うと、ボスの表情が少しだけ真面目なものに変わりました。
「そこなんよ。まあ、一緒に組んだのが『シネレンズ』が主力のアンジェニューやから、しょうがなかったといえばしょうがなかったんやけどな」
「というと?」
「Tanakaも知ってると思うけど、映画を撮るための『シネレンズ』いう世界で一番大事なんは、画面の隅々までのカリカリの解像感やないんや。光の滲みや、ボケの連続性……要するに『雰囲気』や。やからな、あの開放のフワッとしたベールがかかったような甘い描写も、シネレンズの基準からすれば、立派な『正解』なんや」
「……雰囲気。シネレンズの正解」
私は思わず、ボスの言葉を復唱していました。ピントが甘い、逆光に弱い。それを「劣った性能」としてしか見ていなかった自分の視点が、ぐるりと反転させられたような感覚でした。カリカリに解像する完璧な現代のレンズには絶対に描けない、映画のワンシーンのような湿度の高い空気感。あの不完全な滲みは、フランスの光学メーカーが意図して残した「表現」だったのです。
「なるほど……深いですね」
「まあ、そうなんやけどな」
ボスは少しだけ苦笑いを浮かべました。
「シャープさ命、解像度至上主義の日本のカメラマンにとっちゃ、あきらかに使いにくい『癖玉』なわけよ。まあ要するに、あのレンズにフランスの『エスプリ(精神・機知)』を感じられるかどうかやな」
「エスプリ、ですか」
「せや。でも、あれだけ綺麗なフレアも出るし、色乗りも若干クセがあってエモいから、今流行りの『オールドレンズ好き』な若者にはもっとウケそうなもんやけど、実際はそうでもない。ヤフオクの値段を見れば、見事なまでの捨て値やもんな」
「そうなんですよ。だから私も、プチプチで包んで、段ボールに入れて、コンビニから発送して……っていう『梱包して売る手間』を考えたら、二の足を踏んじゃってるんですよね」
■ 手元に残るフランスの夢
私がそう言ってグラスを傾けると、ボスは「やろ?」と笑って、タリスカーを飲み干しました。
「エスプリの効いたシネレンズの血統が、たった数千円。売るくらいなら、防湿庫の肥やしにしといた方がマシや。たまに引っ張り出して、絞り開放で神楽坂の夜のネオンでも撮ってみろや。現代のレンズじゃ絶対に出せん、甘くてええ夢が見られるで」
その夜、家に帰ってから、私は防湿庫の奥で眠っていたTokinaのAT-X PROを取り出してみました。
ずしりと重い、金属の冷たい塊。
昼間は「重くて甘いだけの、時代遅れのズームレンズ」だと思っていたその姿が、ボスの話を聞いた後では、異国の映画の匂いを密かに身にまとった、誇り高き異端児のように見えました。
売るのは、やめよう。
梱包する段ボールをクローゼットにしまいながら、私は次の休日にこのレンズを連れ出して、ピントの甘い「フランスの夢」を覗きに行こうと決めていました。
text by Miyuki Tanaka (d-fractal)
