悲しくて悲しくてー『二十四の瞳』
あまりにも臆面もなく抒情的で、泣かせに徹していて、その姿勢にやや照れてしまうというか、戸惑ってしまう時も無くは無かったが、それを突き破るほどの鮮烈な哀しさを発した場面が数多くあった。とにかく、国や時代と言った顔のない大きなものに、市井の個々人の生が踏みにじられる、その様が辛くて辛くて仕方なかった。主人公の大石先生と、彼女が持つ12人の子供たち(二十四の瞳)が、第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後のおおよそ二十年間にあたって、あまりに「生きづらい」時代を生き、あるいは死んでいく。彼ら/彼女らは、例えば貧しさによって学校を辞め、大阪へ奉公に出される。女だからという理由で、歌手になる夢を一笑に付され、家の手伝いをさせられる。病気によって(そしてその治療に専念できない経済力によって)、余命が宣告される。若い男だから戦争に出され、死ぬ。こうして列挙してみると、たかだか60年間で、随分と価値観というか規範意識が変わったものだと驚く。今の時代で若者たちがこんな不自由を強いられることを善しとする人間は、相当に稀になったと言えるだろう。
しかし、そうした推移こそあれど、個々人の感じていた辛さは変わらない。実際この作品全体の視点人物たる大石先生は、本当によく泣く。それも自分自身の苦しみによってではなく、教え子たちの悲惨によってだ。本作に気づかされたのは、泣くことによって救われるという働きが、やはり確かにあるということだ。象徴的なのは、生徒の一人の悲惨な状況を知った大石先生が、「あなたを励ましたいけど、どうすればいいか先生にも分からない。けど辛い仲間はあなた一人じゃない」という旨の言葉をかけながら泣く場面だ。率直に言って生徒たちがぶち当たる問題は理不尽としか言いようがなく、何らかの即効的な解決策は何一つ見当たらない。そんな状況に陥った人の傍にいる時、取りうる中での最も誠実な大夫度の一つは、ただ傍にいて、共に泣く、ということなのではないのだろうか。痛みが避けようの無いとき、その痛みをそれでも避けようと呼びかけるのも勿論一手ではあるが、その痛みを少しでもごまかそうとする、そのために詭弁をふるうこともまた一手なのだろう。そのような意味で本作は、戦争や時代の大いなる悲惨に対して、その悲しみをしかと描きつつ、その解決策ではなく「慰め」を、高峰秀子の涙によって与えた、一つの誠実な作品と言えるのではないかと感じた。
