俳優出身監督だからこその:『君と私』(チョ・ヒョンチョル監督/2022年)
俳優出身のチョ・ヒョンチョル監督の長編第一作。
主演のパク・ヘス(セミ役)のすばらしいこと。
こころが震えているような、
相手への気持ちの機微が、つぶさに伝わってくる。
相手役のキム・シウン(ハウン役)も、本当にすばらしい。
こちらは、むしろ何かを隠しているような、
抱えているものがあるような。
そのコントラストも絶妙で。
たとえば、ジョン・カサヴェテス監督も、俳優出身から監督になったひと。
カサヴェテス作品も、役者が活き活きとし、「役者が生きていること」が「物語」に先立つ感じがある。
(「実存が本質に先行する」というサルトルの「実存主義」ではないが。)
『君と私』も、そんな感じが強くする。
いや、同時に、「構成」もバッチリ組まれていて、
その両方が、極めて高い精度のバランスで組み上げられているとも言える。
ただ、正直に言えば、すこし「あざとい」と感じる部分もあったし、
引っかかる点もなかったわけではない。
その点は、後述する。
ただ、「引っかかった点」も、パンフレットを読んで、概ね、解消した。
そうやって作品の背景を知ることで、
作品に「感じた印象」が変わるという意味でも、とても得がたい経験だった。
【以下、ネタバレあり】
簡単に図式化すると、
「(女性同士の)恋愛物語」が中心にあり、
容れ子構造として、その周りに「セウォル号沈没事件」(2014年4月16日)という歴史的背景(文脈)がある。
「引っかかった点」は3点。
①【セウォル号事件を扱うことの是非】
②【同性愛を扱うことの是非】
③【ドキュメンタリー的な撮影の是非】
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①【セウォル号事件を扱うことの是非】
わたしは、ドキュメンタリーをずっとやってきた経験から、
映画のために「テーマ」を利用することに、極端な拒否反応がある。
だから、「恋愛物語」に感銘を受けながら、
その周りにある「セウォル号沈没事件」のことが、引っかかって仕方なかった。
「これ、セウォル号事件の必要ある?」
「近未来に訪れる「死」を、物語のひとつのフックにするなら、
別に実在の事件である必要はないんじゃないか?」と。
だから、物語に2つくらい山があるのだけれど、
「恋愛物語」の方の山場には、深く感じ入りながら、
それ以後のシーンの劇的な物語展開を、
「上手い」とは思いながら、
いや、「めちゃくちゃ上手い」と思えば思うほど、
抵抗感の方が強くなっていた。
まったく入り込めなかった。冷めて見ていたとさえ言っていい。
ただ、家に帰って、パンフレットを読みながら、
印象が逆転した。
日本に住むわたしにとって、隣国の事件は、「ただの事故」としか思わなかったのだけれど(たぶん、当時は、背景についても新聞などで読んでいたのだと思うけれど、もう、すっかり忘れてしまっていた)、
韓国において、この事件は「ただの事故ではない」のだ。
パンフレットにある【落合有紀さんの「今なお続くセウォル号沈事故の余震」】に詳述されているけれど、
【セウォル号船長を始め清海鎮海運の乗務員は、高校生たちに「じっとしていて」と船内放送を流し続けたまま、海洋警察に真っ先に救助された。制服を脱いで身分を隠したのだ。海洋警察は船内から脱出した乗客を助けただけで、沈むセウォル号の非常口を開けることも、船内の捜索もせずに現場を離れた。】(パンフレットより)という。
また、朴槿恵(パク・クネ)大統領も、「徹底して救援せよ」と命じたまま、音信不通。その「空白の7時間」の間に、初動が遅れたとも言われている。
【朴元大統領はチェ・スンシル(※側近の占い師)と40分ほど事故対応について話し合い、1時間半ほど美容師に髪をセットさせていたそうだ。】(同)とのこと。
そんな事情もあり、政権は、真相解明に後ろ向きであり、
国民の怒りも爆発。
【セウォル号事件で政府批判したと見なされたポン・ジュノ監督、俳優のソン・ガンホなどの文化人や団体はブラックリストに入れられていた。】(同)という。
つまり、「作品(商売)のために、事件を利用した」というより、
「こういう作品をつくることは、政府への抵抗であり、それは、真に犠牲者への追悼になりえている」のかもしれない。
この点においては、もう180度近く、自分の「印象」が「偏見」だったと気づいた。
「どいういう文脈(コンテクスト/背景)で発表されたものなのか」によって、「作品の意味するもの」は、まったく変わる。
こういう経験ができた部分も、この映画を観て本当によかったと思う点のひとつ。
自分が感じた「正しさ」さえ、前提条件がちょっと変わるだけで、簡単にひっくり返る。
②【同性愛を扱うことの是非】
こちらは、とても肯定的に見ていた。
簡単に言えば、「同性愛」である必要がまったくない、一般的な男女の(シスジェンダーの)恋愛映画と何も変わらない。
いや、それ以上だ。
一般的な恋愛映画は、単純にその「ドキドキ感」くらいしか描かれない。
でも、この映画には、「自己と他者」という問題としての恋愛が描かれている。
「(キム・シウン演じる)ハウン」に恋心を持っていた「もう一人の友人」から、
「(パク・ヘス演じる)セミ」が責められる場面。
「セミは、ハウンの抱えている苦しみのことなんて見ようともせず、自分の気持ちのことしか考えていない」と。
極めて普遍的な恋愛の、人間関係の問題。
他人の苦しみは見えない。好きでしょうがない相手であっても。
なのに、自分の苦しみは抱えきれずに相手にぶつけてしまう。
誰しもやっていること。
すばらしい、本当にすばらしい場面だった。
①【セウォル号事件を扱うことの是非】で最初に感じたことの逆で、
わたしは「ようやく、性的マイノリティを、社会運動のプロパガンダとしてではなく、「フツーのひと」として描くだけの映画が現れた」と思って、
とても嬉しかった。
ただ、①のことが頭にあったし、これも「性的マイノリティをテーマにすれば話題になる」という理由だけで、そう設定したのではないか?という疑念が頭にあったのは事実。
パンフレットを読んでも、この点の疑念は消えてはいないけれど、
そもそも、②については、むしろ肯定的にさえ思っているので、
それ以上は、どちらでも、、、。
③【ドキュメンタリー的な撮影の是非】
画面は白っちゃけた光に包まれたような撮影が多い。
オールドレンズを使って、全開放(F値1.4とか)にすると、ああいう画になるので、それかと思っていたら、パンフレット(原田里美さんの文章)によると「ブラックプロミスト」というフィルターを使っているそうだ。
それは、この映画全体が、「過去の記憶」なのだから、過剰演出とは思わないし、いい効果を生んでいると思う。
ただ、「手持ち」を多用しまくる部分が気になった。
いや、ドキュメンタリーのように「時間を撮る(偶然性を取り込む)
」ということで、
ヌーヴェルヴァーグの諸作(ジャック・ロジエやジャック・リヴェットなど)や最近だとワン・ビン監督などのような撮影・演出ならわかるのだけれど、
ドキュメンタリー的に撮りながら、ガッツリ「構図」「カメラワーク」は計算されている。
そのアンバランスが、「いい」ような、「あざとい」ような。
入り乱れた感情で観ていた。
こちらもパンフレットを読んで合点がいった。
パク・ヘスさんのインタビュー
【たくさんのリハーサルを重ねて、ハウンとのセリフも自由にやり取りしながら、ただ座って練習するだけではなく、体を動かしながら実践的に取り組みました。そうしたセリフの中から、監督が良いものをピックアップして実際の脚本に反映してくれたんです。】(パンフレットより)
とのこと。
役者を信用し、「役者のドキュメンタリー」のような時空を、即興芝居も少しは入るだろうけど、「即興ありき」ではないカタチで、緻密に計算したものとして、役者と共に、撮影監督と共に、作りあげて行ったのだろう。
撮影監督のDQMさんは、ドキュメンタリーも撮ったり、同時にMVなども多く撮っているようで、ある種の「リアリティ」と「非リアリティ(芸術性)」を双方から捉えることができる人として選ばれたと予想される。
また、キャスティングの段階では、「プロの俳優」にお願いするか、「実際の高校生」にするか悩んだそうで、
明確な意図をもって「ドキュメンタリー的なもの」を捉えようという思いも一方にあったようだ。
同時に、「絵コンテ」がかなりピッチリ描いてあるので(パンフレットに載っている)、構築への意志も同時に持っていたから、
ああいう真逆の要素が入り混じったような時空になったのだと思う。
そうわかって、撮影方法においても、9割方、肯定の側になったのだけれど、
それを踏まえても、
【セミ(パク・ヘス)がひとりでいる部屋を、手持ちのカメラが撮っている】≒【「明確な主体の視点(人間の眼)」がセミを見ている/「独りの空間」に撮影者の気配が入り込む】というのは、ドキュメンタリーをやってきた人間としては、違和感はどうしてもぬぐえなかった。
ただ、めちゃくちゃ好意的に捉えれば、「それは、ハウンの回想による眼なのだ」。あるいは「(映画にも出てくる)ご両親の回想による眼なのだ」とも考えられなくもないから、気にするほどでもないか。
そもそも、自分でカメラを回さない人は、少しも、何も、気にならないと思うし。
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ということで、映画を観終わった直後は、
「すばらしい」と思った点も、
「ひっかかる」と思った点も、半々だったのだけれど、
パンフレットを読んで、全体的に「すばらしい」と思えるようになった。
とても得がたい映画体験となりました。
そもそも、「恋愛映画」として、本当に秀逸だと思うので、
それだけでも、充分にすばらしかったわけだけれど。
「よりすばらしい」と感じらるようになった。
二重の意味で、とてもいい経験ができました。
ありがとうございました。
