未知の文体:ジン・イー監督『ボタニスト 植物を愛する少年』(2025/中国・新疆ウイグル自治区)
ひっさびさに、まったく文法・文体が掴めないような映画を観た。
なんとなく言わんとしているストーリーはわかるし、
カザフ族と漢族だったり、多様な民族のことや、
上海や北京などとの関係など、社会的なものが書き込まれているのだろうことは、やんわりとわかる。
でも、具体的な「何か」が、ぜんぜん掴めない。
ドキュメンタリーのように流れていく時間を撮っているのかと思いきや、
幻想(非リアリズム)のシーンもあり、
でも、それが民俗的なあり方としては、「自然」なのかも?とも思ったり。
終始、若い頃、背伸びをして、よくわからない芸術映画を観つづけた感覚を思い出して、作品と関係ないところで、それが懐かしかった。
エリック・ロメールとか、
いや、もっと遠いというか、
国際交流基金関係で観たパレスチナか何かの映画、、、ミッシェル・クレイフィとかかな?
「何が写ってたか」じゃなくて、「なんだか、わっかんね~けど、これを素晴らしいって思わなくちゃいけないんだな」と思いながら観てた感覚。
そういう映画も、今観なおしたら、おそらく「わかる」。
いや、「わからない」としても、「わからない」と「わかる」。
でも、この『ボタニスト 植物を愛する少年』は、本当にわからない。
退屈ってわけでもない。面白いって感じでもないけれど。
とにかく、未知の文体に出会った幸福感。
ちょっと前に、細見和之さんの『アドルノ 非同一性の哲学』という本を読んだけれど、そこでアドルノが、パウル・ツェランやベケット、カフカを評していたような。そういう。
面白かったかと聞かれたら、応えに窮するけれど、
よかったかと聞かれても、「たぶん、よかった」と、
歯切れが悪くしか応えられないけれど、、、
とてもよい映画体験だった。
パンフレットで夏目深雪さんが
【映画とは本来、開かれた時間を捉える得るメディアである。しかし多くの作品はラベリングや強い物語によって閉じてしまう。『ボタニスト』は、その時間を閉じることなく提示することによって、映画の根源に触れている。そこでは時間は出来事に回収されず、ただ存在し続ける。】
と書いているけれど、正鵠を射た表現だと思う。
この作品を、なんとか言葉にしようと思ったら、
今のところ、これ以上の説明はできない。
