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無敵の幸福

明日死ぬとわかった時、
その男は、これだけは描きたかったという絵に挑戦した。
しかし、絵なんて学生の頃に夢中で描いていた記憶があるだけで、
それはもう遠い昔の事だった。
 
どう考えても1日じゃ終わらない、
とても満足できる絵になんてならない、
それがわかりきっていた。
   
あと1年あれば
1ヵ月でもあれば
 
広大すぎる自分の中の表現欲求に気がついてしまったその男は、
でもそれを、きっと数%も吐き出す事なく、
明日には、それを抱えたまま、死んでゆく。
 
描けども描けども満足のゆく物にはならず、
死ぬ間際に強烈に後悔するだろう。
 
今まで何をやっていたんだと、後悔と、悔しさに、
ぐちゃぐちゃになりながら死んでゆくのだろう。
それが分かっている、そうなるだろうと、自分で分かっている。
分かっていても止める事ができない。

なぜ私はこんな物に気づいてしまったんだろう。
なぜ死ぬ直前に、気づいてしまったんだろう。

こんな物に気づかず、酒でも飲んで、
ゆっくりと死の時を迎えた方が、幸せだったんじゃないだろうか。
 
こんなものに気づかなければ、
もっと穏やかに死を迎えられていただろうに。

でも一度火が入ってしまった原子炉は、その炎を止める事はできなかった。

ーーーーーーーーーー

描き始めてどれくらい時間が経っただろう、
それすらも分からないくらい、男は夢中になって描き続けていた。

どこか遠くから声がした、それはどこか懐かしい声だった、

それは子供の頃にずっと聞いていた声、
そしてある時からもう聞く事が無くなってしまった声、

ひろ君、あなたはどんな風に死んでゆきたいの?

この声は・・・
あーもう死が近づいているのかもしれないな、男はそう思った。
でも心は不思議と穏やかだった。

あ〜そうだな、幸せな人生だったな〜って思って死んでゆきたい。

ひろ君にとって、幸せな人生ってどんな人生?

う〜ん、分からない、もしかしたら、今この瞬間がそうなのかもしれない、
ただ、描かずにはいられない・・・止められない・・・
 
ふふ、血は争えない物ね、今は幸せ?

あ〜それももう分からないのかもしれない。
自分が幸せとか、満たされてるとか、そういう事自体に、
もう興味がないんだ、そういう事にすら、もう囚われてなくて。

自分が幸せであろうがなかろうが、
そこに何か感情が動かされる事もなくて、
だからこれが幸せなのかと聞かれると、うまく言語化できないんだよ。

ね〜ひろ君知ってる?
光しかない世界に来てしまうと、
光を光だと認識できなくなってしまうのよ、
自分自身が、もうそれと同化してしまっているから。

そうなんだね、
ただ今はすごく静かで、、自分が凪の海になったみたいだよ。

懐かしい声が優しく微笑む。
私はね、それを無敵の幸福って呼んでいたわ。

幸福という光があるのだとしたら、
自分がそれと同化してしまっている様な瞬間。
そしてその時、自分の幸福は、もう外的要因の何者にも左右されない。

母さんらしいや、僕もつられて笑う、

なんだかね、今はもうこの感情しか残っていないんだよ、
本当に、これしか、残っていない、

ただ、愛してる、ありがとう。
この世界全てにそう思う、本当に。

無敵の幸福、その言葉の意味が今少し分かった気がしたよ。

男がそう言い終わると、あたりはすっと静かになった。

そして男はまた筆をとる、そこにはもう、
微塵の迷いも後悔も、残ってはいなかった。

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