全力感謝おじさん

自分はあんなに全力で人に何かを伝えた経験が、
果たして今まであっただろうか、

あんなに全力で何かを伝えてもらった経験が、
果たして今まであっただろうか、

それは12月31日、
その年最後の日の事だった。

風が強く、指先が痛くなるような寒い日、
駅へと急ぎ、駅前の広場を通り過ぎた時だった。

僕が視界の隅に捉えたのはホームレスの男性で、
寒さに耐えるように強く目を瞑っていた。

前にはお椀が置かれており、誰かがお金入れてくれるのを待っていた。
しかしほとんどの人が、その一角を避けて通っていた。

ホームレスのおじさんは、
下を向いたままブツブツとずっと独り言を言っおり、
時々何かに文句をつけるように声を荒げたりしていて、
おじさんが声を荒げる度に、周りの人の距離は広がった。
お椀にお金は入ってはいなかった。

僕は駅へと入っていきながら、そのおじさんの事が気になっていた。
こんな寒い中で、どこで寝るんだろうか、
そして彼はどんなお正月を迎えるんだろうか。

僕は悩んだ末に引き返し、暖かい物でも食べて、と声をかけ
千円札を一枚、お椀の中へと入れた。

それだけの事だった。
それだけの事で、また駅へと向かうつもりだった。

しかしお椀の中に入った千円札をみた瞬間、
おじさんの独り言はピタリと止み、
しわくちゃの目を見開き僕の顔を見たかと思うと、
街の皆が振り向く程の大声で、

「ありがとう!ありがとう!」
そう僕にお礼を言ってくれたのだ。

呆気に取られる僕をよそに、
「ありがとう!ありがとう!」
おじさんは何度も何度もお礼をくり返した。

それはそれは大きな声だったので、
街のみんなが僕らの方を振り向いた。
歩いていた人は、びっくりして僕の数歩手前で立ち止まり、
たむろしていた若者は一斉にこちらを振り向いた。

一瞬皆が遠巻きになり、僕と通行人との間に、
ぐるっと円を書いたように空間ができてゆく様だった。

勘弁してくれ!、余計な事するんじゃなかった。
一瞬そんな気持ちが自分の中でわき起こった。

しかし今目の前にいる彼は、
下を向きぶつぶつと独り言を言っていたおじさんとはまるで別人だった。

さっきの様子からは、
とてもまともなコミュニケーションが取れる相手には見えなかったのに、
彼は今、身振り手振りを交え、全身で気持ちを僕に伝えてくれていた。
果たして彼のどこに、こんな気持ちが隠れていたのだろう。

同時に僕は今までの自分の人生を振り返っていた。
僕は今まで、こんなにも全力で感謝の気持ちを伝えた事があっただろうか、
こんなにも全力で感謝の気持ちを伝えてもらった事があっただろうかと。

おじさんは場の空気なんて全く読んでいなかった、
それゆえに何のまじりっけもなく、何の遠慮もなく、
ただただ純粋だった。

僕はおじさんのそんな気持ちに答えてあげたかった。
なのに僕は、動けなかった。

僕達を見つめる町の視線は冷ややかだった。
余計な事して、、ほっとけばいいものを、、
どこかからそんな声が聞こえてきた、

町の視線に耐えきれなくなったもうひとりの僕が囁く、
みんなの様にこの人の事を無視して、そのまま立ち去ってしまえ、
そうすればまた元の場所に戻れる。
「みんなと同じ」に戻れる。
余計な事しなければよかったんだよ、
そしたらいつも通り年末だったのに。

僕は迷っていた、迷って迷って、
このまま立ち去ってしまいそうになっていた。

ふと気づくと、僕の様子がおかしい事に気付いたおじさんが、
どんどん意気消沈してゆくのが見えた。
「またやっちまった」おじさんのそんな声が聞こえた気がした。

さっきまでの気迫も、しわくちゃの笑顔も、
今にも抱きつかれそうな程の喜びも、
その全てが、どんどん失われていっていった。

さっきまであんなにしわくちゃに笑っていたのに、
そのおじさんの顔が、みるみる暗く、卑屈になってゆく、
そして元のホームレスへと戻ってゆく。

この人は、今まで何度もこういう経験をしてきたのではないだろうか。
僕はそこに昔の自分を見た様な気がした。
しかし昔の自分は、皆が怪訝そうな顔をしている事を敏感に察知し、
そして熱くなる事を避け、クールに振舞い、
仲間外れにならない術を身につけて、
上手に本心を隠す事に成功した。

そしてその代償がこれなのだ。

今まで友達だった人までもが、
潮が引くように自分から距離をとりはじめる時の悲しさを、
僕は知っていた。
なのに今度は、立場を逆転して、それを今おじさんにやり返しているのだ。

目の前で、おじさんの中から火が消えていった。
これ以上傷くのはご免だと、ぶ厚い心の壁が現れ、
彼の顔を厭味に満ちた卑屈な表情に変えていった。

その変貌ぶりはあまりにも悲しかった。
この歪んだ仮面の下には、あんなにも純粋な心が隠れているというのに。

彼の気持ちに応えてあげられなかった自分が悔しくて仕方がなかった。
後悔してもしきれなかった、あの笑顔はもう失われてしまっていた。

「早く消えちまえ」
ふと僕の耳にそんな声が聞こえてきた。
小さくて良く聞き取れなかったが、
おじさんが確かにそう呟いたのだ。

それは僕の胸に、あまりに深く突き刺さった。

自分を守る為のトゲ、それはお互いを傷つけ合う、
そしてそれは、これからも、誰かを、そして僕自身を、
ずっと、傷つけてゆくのだろうと思った。

あ~、またこれで
彼はこの笑顔を誰にも見せなくなってゆくのだろう。

その事は、僕自身の心も深く傷つけた。

この後の展開に期待するかのように、
街の視線は無言で僕たちを捕え続けていた。
しかしそんな物ももうどうでもよくなってしまっていた。

僕はずっと立ち尽くしていた、
このまま無視して去ってしまったら、
もう後戻りが出来ない場所に行ってしまうんじゃないかと思った。
直感的にそこに行ってはならないと、心の中の何かが警鐘をならしていた。
かと言って、もうどうすればいいのかも分からなかった。

どれくらい、2人で無言でいたのだろう、
ふと気づくと、僕はおじさんの手を取っていた。
汚れたその手をぎゅっと握りしめていた。
それだけだった、もう何も言葉が出てこなかった。
ただただ、彼の手を強く握りしめてあげたかった。
もうその気持しか残っていなかった。

ーーーーーーーーーー

あれから数か月、あれ以来、おじさんの姿を見掛ける事はなかった。

年始にダンボールハウスが一掃され、
「美しい街、僕らの街」
そう書かれた看板に置き換わっていた。

この人達の言う「僕ら」の中に、
あのおじさんは入ってはいないのだろう。

そう思うと少し悲しくなった。
もう彼はここには帰って来れないのかもしれない。

人のごみに流される様に、僕が駅へと入っていこうとした時だった、
後ろから「おーい!」と大きな声が聞こえた。

聞き覚えのある声だった。
僕が振り向くと、
その人は「ありがとう!!」と言って大きく手を振っていた。

あー、あの時の!!

風貌が変わっていたので、一瞬分からなかったが、
それはまぎれもなくあの時のおじさんだった。
ヒゲも剃り、髪も短くなっていた。
 
僕とおじさんの間を大勢の人混が遮っていた、
人の波間におじさんの顔が見え隠れする。

もう一度、彼の大きな声がする「あの時はありがとう!!」

あー伝わっていたのだ、何もできなかった、
ただ手を握り返す事しかできなかった。
でもきっと、それだけで、十分に伝わっていたのだ。

おじさんの顔から卑屈なホームレスの影は消え、
笑顔が戻っていた。

彼は僕のあの時の心の葛藤を、見抜いていたのではないだろか。
あの無言の時間の間に、僕の中で起きていた事の全てを、
知っていたのではないだろうか。
彼の笑顔は、その全てを理解した上で、
僕を応援してくれているかのような、そんな笑顔だった。

そしてもう一度僕に、あの時に失った物を、
取り戻すチャンスをくれている様だった。

今度は何に構う事もなく、僕は思う存分に大きく手を振り返した。
思う存分に叫んだ、声の限りに叫んでいた、ありがとうと手を振り続けた。

何年もの歳月をかけ鬱積していた物が、ずっと積もっていた後悔が、
僕の中で跡形もなく消えていく様だった、

本心を隠す術を身につけた時から、
僕はずっと、僕自身を裏切りながら生きていた、
そして今それが、音を立てて崩れてゆく様だった。

ひとごみに紛れ、おじさんの姿がどんどん遠くなってゆく、
おじさんはこちらに向かって手を振り続けていた。
僕もおじさんが見えなくなるまで、声の限りに叫んでいた。
僕の中にで何かが確実に変わっていた。

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