私と18世紀の神話:著作権法についての断章

 私の主な政治的主張は「部分的な《脱希少性経済》の実現」である。デジタルデータのコピーには、ほとんどコストがかからない。よって、複製権を複製権たらしめることが非常に困難であり、そのために国家権力が《希少性》を鋳造しようと試み、苦行を重ねている。あらゆる《著作権侵害》とのイタチごっこだ。物質的な希少性を前提にした現在の秩序・構造は、かなりハッキリと、わかりやすくその限界を露呈させている。これを打破せんとするのが私の仕事(ポスト海賊党とでも云えようか?)だと心得ている。このような主張に対する「違法行為は悪である」というような幼稚な反論は、単なる権力の拡声器(擁護)にすぎない!と、腹いせに僕は叫ぶ。しかしやはりどうして諸君は現行法を正当なるものとして盲目的に信じ込む?諸君が説いているのは倫理のようでいて、実のところそれは「今とこれからの安全への執着」であって、結果的には現体制の欺瞞を振りまく行為にすぎないのではないか?制度が必要とするのは普遍化ではなく、一種の世俗化なのだ ──普遍化と世俗化は似て非なるものである。大衆の「こころ」は絶えず移り変わる、とりわけ日本人の懐古主義(口が開けばすぐさま「昔の方が良かった」と言うではないか)は凄まじい。《法》が先か、《倫理》が先か?(もとい…なおも後や先があるか?)権利もまた、普遍的なるものとして錯覚された一つの世俗的なるものなのだ。道徳は時代によって変わる。だからこそ上述のように、世俗的と云えば同時に普遍的とも云えるのである。
 誤解されやすい点を補足しておくと、僕は別に違法行為を正当化しようってんじゃない。善悪に自由と抑圧、積極と消極に主観と客観(果たして「いわゆる」なんて言葉が主観から脱することは可能であろうか?一つの偏見以外にありうるのか?) ──このような二元論に酔っていてはいけない、立場が違えばどうとでも云える。国家権力が複製権の擁護を放棄しまったら、世の中失業者で溢れかえる。ソフトウェア産業にメディア産業、一切のコンテンツ産業は崩壊する(あるいは再編されるが、現状維持でない以上、多くの悲劇を生むことになるだろう)。さらに酷いことに、権利を擁護する国家とそうでない国家との間で外交関係も悪化する(元来得られたハズの利益が失われてしまえば、大きな反感を受ける)だろう。ここで君は「あまりにも犠牲が大きすぎる!」と嘆くか?それとも、「これまで私は、これほど歴史的なものを聞いたことがなかった。さらなる犠牲を!」と言うか?Requiem Aeternam Deo! ── ──?


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谷口 左千夫 私は現在、ある書籍の復刻版(改訂版)を制作している。目下のタイトルはまだ秘密にしておくが、とある黙殺されし哲学者の主著、とでも云っておこう。これをいずれ自己出版し、手にとって読める形にしたいと考えている。いただいたチップはその費用に当てるかもしれないし、当てないかもしれない。