妄想図書館 〜まだ恋をしてもいいですか? 3冊
第三章 現実よりやさしい世界
「あなた、最近ちゃんと笑っていますか?」
その言葉は、
責めるでもなく、
同情するでもなく、
ただ、そっと置かれたみたいに、
私の胸の奥に届いた。
私はすぐに答えられなかった。
笑っている。
ちゃんと、笑っているつもりだった。
職場でも、
ご近所さんとすれ違うときも、
コンビニの店員さんに「ありがとうございます」と言うときも。
でも、その笑顔が、
本当に『私の心から出ているものか』と聞かれたら、
自信がなかった。
「きっと、…たぶん。」
小さな声で、そう答えた。
彼は、それ以上、何も聞かなかった。
ただ少しだけ、首をかしげて、
私を見た。
夕暮れの海の色が、
彼の横顔を、やさしく染めていた。
「ここ。…、座ってもいいですか?」
彼は、そう言って、
私の隣の、砂の上を指さした。
私はうなずいた。
気づくと、
私は本の中の世界に、
ちゃんと『立って』いた。
さっきまで、
椅子に座って本を開いていたはずなのに、
今は、
裸足で、冷たい砂を踏みしめている。
風が、
髪をやさしく揺らす。
波の音が、
胸の奥のざわめきを、
少しずつ、洗い流していく。
「ここは…?」
「あなたが、心の奥でよく思い浮かべていた場所です。」
彼はそう言った。
「本当は、来たかった場所。
でも、来ないようにしていた場所。
ですよね。」
胸が、きゅっと鳴った。
私は、この景色を知っている。
若い頃、
一人で、
何も考えずに、
ただ海を見に来ていた頃の場所。
忙しさと、
現実と、
いろんな『もういいや』に追われて、
いつの間にか、
来なくなっていた場所。
「…どうして、あなたは。」
言いかけて、
言葉が止まる。
あなたは、誰なの?
そう聞きたかったのに、
なぜか、それを聞いてはいけない気がした。
彼は、私の言葉の続きを、わかっているみたいに、
少しだけ微笑んだ。
「私は、あなたが、話したかった『誰か』です。」
それは、
答えのようで、
答えじゃない。
でも、
なぜか、それで十分だった。
私は少しずつ、
自分のことを話し始めた。
離婚したこと。
子どもが独立したこと。
夜になると、
理由もなく胸が苦しくなること。
誰にも言わなかった言葉が、
波の音に混ざって、
するりと外へ出ていく。
彼は、
うなずきながら、
ときどき、
「それは、つらかったですね。」
「ちゃんと、がんばってきましたね。」
と、静かに言ってくれた。
その一言一言が、
胸の奥に、
小さな灯りをともしていく。
私は、
気づいたら、
少しだけ、笑っていた。
作った笑顔じゃなくて、
ちゃんと、
心から出てくる笑顔だった。
「ここに来ると、少し楽になります。」
私がそう言うと、
彼は、うれしそうに目を細めた。
「それは、あなたが、
あなた自身を、
ちゃんと大切にし始めているからですよ。」
私は、その言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。
でも、
なぜか、
涙が、頬をつたった。
理由は、
わからなかった。
ただ、
誰かに『ちゃんと見てもらえた』気がして、
胸が、いっぱいになった。
―― 私はこの場所を、
何度も訪れるようになる。
そのとき、
私はまだ知らなかった。
このやさしい世界が、
私の心を、
どこまで連れていくのかを。
