妄想図書館 〜まだ恋をしてもいいですか? 1冊
第一章 夜になると、私は少しだけ弱くなる
夜になると、私は少しだけ弱くなる。
昼間の私は、ちゃんとしている。
仕事もするし、笑顔も作るし、
「大丈夫です」と言うのも、上手になった。
でも夜になると、
その『ちゃんとした私』が、どこかへ引っ込んでしまう。
誰にも見せない部屋で、
誰にも聞かれないため息をついて、
私は自分の本当の声を思い出す。
「誰かに、会いたい」
その声は、ずっと胸の奥で眠っていたはずなのに、
最近は、やけに大きくなってきた。
私はもう、恋なんてしない。
もう誰かを好きになって、
自分の人生を揺らされるのは、
十分すぎるほどやった。
そう決めたはずなのに、
心は、どうして言うことを聞いてくれないんだろう。
洗い終わったコップを、食器棚に戻しながら、
私はふと、手を止めた。
指先に残る水の冷たさが、
やけに現実を突きつけてくる。
この家には、もう誰の気配もない。
子どもは独立し、
元夫の靴も、コートも、
とっくにこの玄関から消えた。
静かで、
自由で、
誰にも気を遣わなくていい。
それなのに、
どうしてこんなにも、胸の奥が空くんだろう。
私はソファに腰を下ろし、
スマホを手に取る。
誰かに連絡を取りたいわけじゃない。
ただ、誰かの気配を感じたくて、
意味もなく画面をなぞる。
でも、連絡先の名前を見ているうちに、
胸の奥が、すっと冷えていく。
今さら、誰に何を話せばいいんだろう。
今さら、私は何を求めているんだろう。
そんな気持ちを抱えたまま、
私はその日も、
コンビニの袋を片手に、
夜の道を歩いていた。
少し遠回りして、
静かな裏道を選んだのは、
誰にも会いたくなかったからか、
それとも、誰かに会いたかったからか、
自分でもよくわからない。
街灯の光が、
アスファルトの上に、
ぼんやりと影を落としている。
その光の中で、
私は、見慣れない建物の前に立ち止まった。
小さな、古い建物だった。
派手な看板もなく、
営業しているのかどうかもわからない。
ガラスのドアには、
手書きの文字が貼られていた。
―― 妄想図書館
この本は、あなたの心の奥に入ります。
心の奥。
その言葉を見た瞬間、
胸の中の、しまい込んだはずの感情が、
小さく、でも確かに動いた。
まるで、
誰にも言っていない私の気持ちを、
見抜かれたみたいだった。
私は、しばらくその場から動けなかった。
ここに入ったら、
私は、何を思い出してしまうんだろう。
ここに入ったら、
私は、どんな自分に会ってしまうんだろう。
ドアノブに手をかけて、
少しだけ、深呼吸をする。
逃げる理由も、
入らない理由も、
どちらも思いつかなかった。
だから私は、
そのまま、そっとドアを押した。
―― その瞬間、
静かな夜の空気が、
少しだけ、甘い匂いに変わった。
