からだのかたち からだのこえ ②
前回の記事はこちらです。
早寝早起きをするようになってから、私の生活は少しずつ落ち着いていった。一番忙しかった頃のような暴飲暴食はしなくなったし、ゆっくりと湯船に浸かってぐっすり眠る平和な夜が続いた。
そしていつもよりは役目が覚めた朝、私は外に出た。
少しだけ湿り気を帯びた清潔な朝の空気と薄水色の空。
そっと見上げると薄い色の月が空の中に残っている。
私はその朝の空気の中に踏み込んでいった。
いつもと同じ景色なんだけれど、少しだけ違う。
朝の魔法。
いつも使っている駅まで5分。
辺りは静かで人気もなくて、私一人の世界に思えた。
歩こうと思い始めたのはその日からだった気がする。
その日から私は、朝の時間に少しづつ外に出て歩き始めた。
朝外を歩くのは気持ちのいいことだった。
私は少し早く起きて歩きやすい靴を履いて毎日駅までの道を静かに歩いた。
歩いている間、外の空気をたくさん吸って外の景色に溶け込んで、でも、自分と深く向き合って、それまでとは違う自分に静かに向かって行くような不思議な気持ちを感じていた。
何故だかわからないけれど自分が自由になって行くような感じがして、嬉しかった。
心が静かに開いていく。
聴こえないしめやかな音楽と見えないきれいな光がそこに確かに存在しているような気分があった。
心が、軽くなっていく。
「最近何かいいことでもあったんですか?」
職場の人にそう訊かれて、驚いた。
「何もないけど」
「そうですか」
「私、何か変わった?」
「はい。なんだか雰囲気がこれまでと違う、と感じて」
「そう?」
「ええ、少し前からなんとなく」
「そう」
「優しい感じが増した、というか」
「え?」
「なんだか平和な感じがします」
「そっか、それまで変だったかな?」
「忙しかったですからね」
「そうだね」
会話はそこで終わった。
母のことは職場ではまだちゃんと話してはいなかった。
赤ちゃんが生まれる人たちがいる時に、母のことを話すのはなんだかいけないような気がいていたからだった。
長年の努力が実って念願の子どもに恵まれた人の明るい気持ちに影を落とすようなことを言うのは間違っているような気がして嫌だった。
でも私確実にものすごく辛かった。
苦しかった。
誰とも分かち合えない思いを抱えながら仕事に忙殺されるのはほんとに苦しいことだった。
『怒ってもいいよ』
母にそう言われても、私は母を怒れなかった。
静かに弱っていく母に自分の怒りをぶつけるなんて、そんなことできる訳がない。バタバタとすごい勢いで過ぎて行く毎日を私はどこかで有難いと感じていたような気がする。振り回されていることで自分の生の感情と向き合わなくても済んでいた。母のことだってそう。
洗濯物と花を持って病院に通うことで私はそっと救われていた。
からだを動かして誰かのために何かができることで心は少し救われる。
でも。
それだけじゃ駄目なんだと。
そうも思うようになった。
「『しあわせ』になってほしい」
母にそう言われたけど、私は自分の『しあわせ』を具体的にイメージすることができない。そしてただ、日々の暮らしに流されてなんとなく生きている。
母のこと、会社の仕事、その二つに忙殺されながら、絶えず何かを食べ続けることで自分を何とか持たせていた。苦しかったけれど、自分と向き合わずに済んだ分楽だったのかもしれないとも思う。
泣いた私を母がそのまま受け止めてくれたから、私は壊れないで済んだ。
私はすごく無理をしていた。
母は自分の苦痛よりそのことを心配してくれていた。
私は母に守られている。
私はずっと『しあわせ』だった。
私は、『しあわせ』だったのだ。
「『しあわせ』になってほしい」
母のその言葉は、私に今までとは違う新しい課題をくれた。
私は『しあわせ』にならなくてはいけない。
母を安心させるために。
日々の暮らしはつつがなくそのまま静かに続いている。
私は毎朝早起きをして、花に水をやり、外を歩き家事をこなし、仕事に行く。
そして休みの日には母のいる病院に洗濯の済んだパジャマやタオルと枕もとのテーブルに飾るための花を持って面会しに行く。
母が入院した初めの頃は、仕事がとても忙しくて面会時間に間に合わず、会うことができなかった。その頃の自分が何を考えていたのかなんてもう思い出すことができない。とにかく忙しくて余計なことなんて何も考えられなかった。目いっぱい、精一杯の状況だった。どうしようもなかったんだ。
「『何かいいことあったんですか?』って聞かれたの」
「そう」
「特別なことなんて何もないんだけどね」
母とそんな話をしながら私はいつものようにスマートフォンの画像を見せた。
母は花盛りのミニバラの画像を見ながら静かな声でこう言った。
「夏希、よかったね」
「え?」
「夏希のことちゃんと見ていてくれる人が身近にいてくれて母さんも嬉しいよ」
「そっか、そうだよね」
「そういう人のいる職場にいられるあなたはしあわせよ」
「はは、そうだね」
「でもそれだけじゃ駄目だからね」
「そうなの?」
「それだけじゃ守れない」
「何を?」
「自分を」
「そう?」
「そうよ」
「そうかな?」
「うん。そうよ」
「そっか」
「世の中は甘くないからね」
「そうだよね」
私は一人の厳しさと向きあうことに直面している。
一人、本当に一人。
無防備なままその孤独と直面しなくてもいいようになってほしい。
母はそう言っているような気がしている。
「ごめんね。私まだ、ママのこと安心させられなくて」
「え?」
「心配かけてごめんなさい」
「そんなこと」
「私何もできてない」
「そんなことないよ」
「そう?」
「うん。だってその仕事場の人、夏希が変わったって言ったんでしょう?」
「うん」
「あなたちゃんとできているのよ。自分で気づいてないだけで」
「そうかな?」
「そうだよ。夏希の顔、穏やかになったもん」
「え?」
「ここに来て泣いた後、あなたの顔。変わったよ」
「そうなの?」
「うん、そう。それまでのあなた、ものすごく辛そうだった。見てるのが辛かった。でも今はなんだかすっきりとした顔してる」
「そうかな?」
「うん。花の苗の写真を見せてくれるようになった頃から表情が変わっていった。笑ったりもするようになった。だからちょっとほっとした」
「そっか」
「そうだよ。こんなことしかできてなくても私あなたの母親なのよ。何時だって子どものことを一番に考えちゃうの」
「そうなんだ」
「夏希、好きな人ができたらどんなタイミングでもいいからちゃんと結婚してね」
「え?何、いきなり」
「だってあなた、自分より私のこととか仕事の事とか考えて全部後回しにしちゃいそうだから」
「そんなこと、・・・、いや、あるかもです」
「でしょでしょ」
「うん」
「だからね、わざわざちゃんと言わなくちゃならなくなっちゃう」
「ごめん」
「謝らなくていいのよ。夏希はちゃんと優しいんだから」
複雑な気持ちだった。
そして少し泣いてしまった。
「どうしたの?」
「わからない」
「そっか、泣けばいいよ」
「うん」
「泣いちゃう夏希、なんか可愛い」
「そんなこと言うかな?」
「言うよ」
「そっか」
私たちは静かに笑った。
泣いたり笑ったり、忙しい。
そんな二人を今日生けた百合の蕾がそっと見ている。
真っ白な蕾の百合をくれたのは、毎朝歩いている場所で知り合ったおばあさんだった。なんとなく話すようになって、日曜日は母に会いに病院に行くのだと話したらこの百合をくれたのだ。
「飾ってあげて」
そう言って。
そしてそのおばあさんに言われたように水の中に腐敗防止の薬剤を入れ、氷も入れ、花が咲くまでに水が腐ってしまわないように気をくばった。
「甘い香りがするの。病院では嫌がられるかしら?」
そうも言われたけどわからなかった。
母のいる病室に細かいことを言う人は今のところいない。
看護師さんたちも、母一人子一人の私たちにかなり優しい。
最初の頃、私の仕事が忙しくて、面会時間外に洗濯ものを置きに来させてもらっていたりしていたことも優しくされてる原因なのかも知れない。
頑張っている人たちは、頑張っている人に優しい。
「きれいに開いてくれるといいな」
母は百合の蕾を見てそう言った。
「きっときれいに咲いてくれるよ」
そう言いながら私はそっと心の中で小さく祈った。
『きれいに咲かせてあげてください』
母と私は花瓶に挿した百合の蕾をそっと見つめた。
毎朝歩くようになってから私は変わっていったみたいだ。
会社の中でいろんな人に、『何かいいことでもあったの?』と聞かれるようになった。
『早起きして散歩するようになっただけ』
一度そんなことを言ったような気もするけれど、あまりよく覚えていない。かなり落ち着いてきたとはいえ、フルタイムで働きながら母の病院に通う生活は正直かなりハードだった。からだだけではなくて心も多分。
苦しいと言えない代わりに私は絶えず何かを食べて苦しい気持ちを誤魔化していた。そのせいで太ってしまった。情けないくらい。
『変わりたい』
母の面会から帰った後、ゆっくりとお風呂に浸かっていた時に、その声は聞こえた。
自分自身の内側からはっきりとくっきりと湧き出すようにそれは聞こえた。
私は自分のからだを見つめた。
腕も脚もお腹も、膨らんでまん丸だった。
痩せようと思った。
具体的に動けば解決できることから始めるしかないと思った。
だから痩せてみようと思った。
その日から、私はダイエットを開始した。
まず、食べるものを変えようと思った。
パンと麺。
これらをやめた。
そして歩いた。
朝の散歩の速度を上げて距離を伸ばした。
それと通勤する時、一駅歩くこともした。
毎日は無理なので、できる時だけ。
会社でも階段を使うのを増やした。
チャンスを見つけては小まめに歩いた。
それで確実に痩せられるとは思わなかったが、それでもそれを続けてみた。
相変わらず仕事はとても忙しく、母の病院にも通い続けている。
日曜日だけでは足りない時は別の日の仕事帰りに洗濯物を届けに行く時もある。だからなるべく自分自身を追い詰めてしまわないように細心の注意を払うようにしていた。でないと母を守れない。そのことが私にとって最優先するべきことだった。それが私を守りもし縛ってもいた。私はその枠組みの中を回り続ける小さなちいさな存在だった。
そういう私を見つめ続けて母は心を砕いている。
心配してくれている。
私を大切に思って。
そんなことを思う時私はいつも泣きたくなった。
私たちを囲んでいる社会を変えることは出来ない。
いつか自分が死ぬことから逃れることもみんなできない。
私たちにでき得ることは生きている今の中で誠意を尽くして生きることだけ。自分も人も大切にして生き抜くことを選ぶことだけ。
私は母に守られて今までを生きてこられた。
だから母に心づくしの今をどうしてもあげたい。
「『しあわせ』になってほしいの」
母の言葉が浮かぶ。
制約だらけの毎日の中、私はもがいたり苦しんだりしながら、どうにか今を生きてるだけだ。
「『しあわせ』になってほしい」
そして、
『変わりたい』
私は今自分にできることを繰り返しながら、その先に進むために今できることをしようと思った。
「看護師さんが花粉のところを取り除いてくれたから」
そう言って母は微笑んだ。
あの百合が咲いていた。
真っ白な花弁が光を弾いて輝くように見えている。
「往診に来てくれる度に、先生や看護師さんが、この花が咲く日が待ち遠しいですね、って言ってくれて、お水も取り換えてくれたの。本当に有難い」
「ほんとだね」
私は笑った。
私は今日買ってきた花とその百合を取り換えずに、母と二人でそっと見つめた。
甘い香りが残っている。
私はその涼やかで優しい香りに感謝した。
母だけでなく周りの人も楽しんでくれていたらいい。
訳もなくそう思った。
母の目は百合を見つめて少しうるんでいるようだった。
涙が滲みだしている。
私もそっと涙を拭いた。
百合の白さが目に沁みた。
こんなこともあるのだ。
名前も知らない人からの親切が人の心を和らげて涙まで零させてしまうこともあるのだ。
この花をくれたおばあさんはこの花がこんなに母を慰めてくれていることをわかってプレゼントしてくれたわけではないと思う。
けれども母はこの花にこんなに慰められている。
涙まで流している。
私たちは百合を見つめた。
二人とも泣きながら。
ダイエットは続いている。
私はとにかくせっせと歩き、野菜とこんにゃくとお豆腐と、そういうものばかりを食べていた。心が減量にばかり向いていたのでそのことに不満は強く感じなかった。目標は大切だ。
仕事場に子供を産んだ先輩が赤ちゃんを連れてきた。
可愛かった。
そして子どもが内側から沸き立たせている光が大人を動かしているということに気づいてちょっと感動してしまった。
子どもは光を放っている。
先輩は仕事ばかりをしていた時よりも柔らかな優しい顔になっていた。
「最初はただただ大変で、でも私、子どもを持ててほんとによかった。みんなにはすごく迷惑をかけてしまったけれど、産んでよかった。本当にありがとうございました」
先輩はそう言ってクッキーの大きな缶をみんなに回してくれた。
みんな赤ちゃんの可愛さに目を細めたり、先輩が差し入れてくれたクッキーを頬ばったりしながら午前中の短い休憩時間を楽しんでいた。
「夏希、ありがとうね。大変だったでしょ」
先輩にそう言われて、
「大丈夫です。みんなのおかげでなんとかなりました。赤ちゃん可愛いですね。それとクッキー美味しい。ありがとうございます」と言うと、
「無理させちゃってごめんね。私夏希が休む時には全面的に協力するから」と言われた。
私がいきなり急激に太ってしまったのが仕事のストレスだと、みんな思っていたようだった。確かに仕事は忙しかった。ものすごくハードだった。
そして私の生活は大きく変わってしまったけれど本当はそれだけではなかった。でもそんなこと言えない。母のことを話したら先輩はきっとものすごく気にしてしまうだろう。赤ちゃんがいて大変なのに、そうしてとても疲れているのに。
「このクッキーほんとにすごく美味しいですね」
何をどう言ったらいいのかわからなくて私はまたクッキーの話をした。ダイエットを始めてからお菓子なんて全然食べていなかったので余計にそう思ったのかも知れないけれど、そのクッキーはかなり美味しいものだったから。
「子供を産んだ産院で知り合ったお友達に教えてもらったものなの。美味しいよね。子どもの世話で疲れすぎて何も食べられなかったときにこれだけ食べて過ごしたこともあったのよ。優しい味だよね」
「そうですね」
そう答えながら私は、そのクッキーを母にも食べさせてあげたいと思った。それとあの、百合をくれたおばあさんにお礼として渡したいとも思った。
「このクッキー、どこで買うことができるんですか?」
私がそう訊くと、先輩は、ちょっとだけ困ったような表情になったが、お店の場所を教えてくれた。私がまだ暴飲暴食を続けていると思っているのかもしれない。
「私が食べるんじゃなくて、母に買ってあげたいと思って」
そう言うと先輩はほっとしたような顔をしてにっこりと笑って言った。「仲いいもんね、ママと夏希」
私はそっと微笑んでお店の場所を手帳に書いた。
母はきっと喜んでくれる。
きっときっとだ。
「夏希が頑張ってくれたお礼に私からプレゼントしちゃおっかなぁ」
「え、いいですよそんなの、申し訳ないですもん」
「でも、ママにはすごくお世話になってるし」
「え?」
「私ね、諦めようとしてたんだ。子ども持つの」
「そうだったんですか」
「その頃ね、私あなたのおうちにお邪魔したじゃない。その時あなたのママにそのこと話しちゃったの。多分ちょっと夜話ていたのかもしれない。そうしたら、ママ、『諦めては駄目。続けなさい』って」
「え、そんなこと言ったんですか。そんなこと。ごめんなさい」
「ううん、違うの。ママねその時私にこう言ったの、『子ども、きっと授かるわ。私にはわかるの。あなたにはきれいな光が満ちている。だからきっとその時が来たら必ずいい子を授かります。子どもは宝物よ。自分だけじゃなくて周りの人も照らしてくれる。。そしてみんなを動かして新しいものを作ってくれるの』って、私その時わかったの、どうしてあなたが素敵なのか。あなたのママは素晴らしい人だわ」
「私が素敵?」
「そう。あなたはとても素敵だわ。本当に素敵な子。あなたのママはきっと母親の天才よ」
「え?そんなこと・・・」
「あなたには素晴らしいものがいっぱい詰まってる。多分みんなそう思っていると思うよ。きれいなのよ、心が。そんな人なかなかいないんだから」
私は何も言えなくなってしまった。
「ママに私からクッキー、プレゼントさせてよ。どうかお願い」
先輩にそうまで言われてしまって断れなくなってしまった。
「ありがとうございます」
「じゃ、決まった。いつがいい?」
「え?」
「この子もママに会わせたいの。ママのおかげで生まれたんだもの」
言葉が出ない。どうしよう。ママが入院していることはうちの課の課長だけにしか伝えていない。忙しい中他の人達に気を遣わせたくなかったので各位してもらっていたのだ。
「本人に聞いてみますね」
そう言って誤魔化した。
「お願い。よろしくね」
先輩がそう言って、みんなに軽く挨拶して帰っていったのでその話は終わった。
どうしよう?
正直に言うしかないんだろうか?
私は戸惑ったままその後の仕事に向かった。
「そっか、産まれたんだね」
「うん」
病院で母に先輩のことを話すと母はにっこりと笑った。
「絶対にいいお母さんになるだろうって思ったの」
「でもそんなことまで言ってしまって、責任取れないでしょう」
「よろこんでいたんでしょ」
「そうだけど」
「夏希、子どもは宝物よ」
「そうかな?」
「そうよ。絶対に持つべきだわ」
「でも」
「あの先輩は絶対に子どもを持つべき人だと思ったの。子どもも先輩もきっとしあわせになれると」
「そんなことわからないでしょ」
「うん。そうかも知れないけれど、きっとそうなると思いました。
彼女は心がきれいだったから」
「確かにそうとは思うけど」
先輩は素敵な人だ。仕事にも誠実で周りの人も大切にしてくれる。
「先輩に会える?」
「いいよ」
母はすぐそう言った。
母のことを職場で話していないことは母にはまだ話していない。
話す必要がないと思っていたからだった。
私は誰にも相談できない悩みを抱え、暗い気持ちになってしまった。
すると、
「夏希、言いにくいことあるの?私に話しちゃえば?」と言われ、
「え?何?」と聞くと、
「多分みんな知ってると思うよ」と言われてしまった。
「夏希のことある程度長く付き合っている人だったらきっと、大体わかっていると思うよ」
「何を?」
「ママのこと話してないんでしょ?みんなに。それときっとママに内緒にしてることもあるんでしょ?」
「え?」
「そんなのわかるよ。夏希正直もんだから」
え?どういうこと?
私の考えていたこと、全部みんなわかっちゃうってこと?
私はかなり落ち込んだ。
ママのこと先輩にどう伝えたらいいのかわからなくて悩んだ私は帰り道、3時間かけて歩いて帰った。その間私の頭の中は先輩とママをどんなふうに会わせたらいいのか、そのことでいっぱいだった。
そうしたら偶然に先輩の教えてくれたお店の前を通ることになった。
私はすぐお店に入ってクッキーを物色した。
あのおばあさんに渡すためのクッキーを買っておこうと思ったのだ。
そして小さめのクッキーがきれいに詰め込まれている小さな缶を一つだけ買って家路についた。中身を壊さないように大切に持ちながら。
朝早く起きて歩くことを続けている。
空模様を見る癖がつき、私は自分が自然の中の小さな小さな存在だということを強く意識するようになった。
木々も草も鳥も虫もみんな同じように存在している。
全部のものがつながっている。
世界は実は小さないのちの集まりでできているのだ。
朝早く家を出て会社に近い場所まで歩いたりもした。
歩くことは苦ではなかった。
それよりもからだのサイズをもとに戻すことの方が大切だった。
母とみんなを安心させたい。
それと同時に『変わりたい』というあの声に突き動かされているような感覚が確実にあった。
そして私は痩せたのだ。
ある日体重計に乗った時、表示された数字を見て私はすごく驚いた。
そして自分のダイエットがある程度終わったことが理解できた。
それなのにそんなには嬉しくないのだ。
私は確実に痩せたのに、自分自身が変われたとは思えなかった。
振り出しに戻っただけ。
そんな言葉が浮かんで消えた。
どうしたらいいんだろうか?
「ありがとう、ほんとにいいの?」
お礼のクッキーを渡すとおばあさんはすごく喜んでくれた。
私は母が喜んでいた様子やお医者さんや看護師さんがみんな協力してくれたことを丁寧に話した。するとおばあさんは、
「よかった。そんなこともあるのね。私もすごく嬉しいな。そんなに深く考えてあげたわけではなかったの。あなたがすごく辛そうで、それなのにお母さんに喜んでほしいって心から思っているのが見えたからどうしてもあげたくなってしまっただけだったの。あの百合は毎年私の庭に生えるの。球根を埋めてあるから。あの百合が咲いて香りがすると夏が来たんだな、って思うの。私あの香りがすごく好きなのよ。お母さんも喜んでくれたんだと知って私あの香りがもっともっと好きになりそう。嬉しいわ。ありがとうこのお菓子、大切に食べるね」
そう言っておばあさんはにこにことして帰っていった。
肩の荷が下りた、そんな気がした。おばあさん、あんなに沢山の百合を私んくれてしまって本当に良かったんだろうか?って気になっていたから。
病院に置いてある瑠璃色の花瓶にぎっちりと詰まっていた百合の茎を思い出して私の心はぎゅっとなった。
おばあさんは私がとても辛そうだったと言った。
自分では気づいてなくても私は辛そうに見えていたのだ。
先輩に正直に話そう。
私はそう思い、先輩にlineを送った。
母がいる病院の名前と地図を添えて。
本当のことを言ってしまえばいい。
もう隠さなくてもいい。
そう思った。
「美味しいクッキーだった。ありがとう夏希」
「私があげたわけじゃないのに」
「でもあなたが先輩にここを伝えてくれたから」
そう言って母は口ごもった。
先輩が持ってきてくれたクッキーを同室の患者さんや面会に来ていた人にも配ってあげたと言って、母はとっても嬉しそうだった。そして茶色の小さな包みを私にそっと渡してくれた。
「これ、一番おいしそうだったから夏希にとって置いてあげたの」
「ありがとう」
私はそれを受け取って、その場で開いて口に入れた。
クッキーの香りと味が口の中に溶けていく。
私はふっと微笑んで母の方を見た。
母はほっとしたような顔をして小さく胸を撫でていた。
また心配させちゃった。
悲しい気持ちが胸に浮かんで滲み絵のように溶け込んでいく。
私はあれからかなり痩せた。
食べ物を厳選し、筋トレを動画で見ていくつかを続けている。
からだを絞って引き締めて鍛えたら変われるのかを知りたくて。
時々お腹がきゅぅと鳴り、からだが何かを与えてくれと内側から伝えてきても素知らぬ顔で素通りして私はからだを引き締めた。
でもそれは周りの人を心配させていただけだと知った時やめてしまった。
からだが悲鳴を上げてることに本当は気づいていた。
その声を無視してそれを続けてもいいことなんてなさそうだった。
歩くことは続けている。
食べるのは、食べる中身は変えている。
ご飯をたくさん。
野菜もたくさん。
お肉を少し。
魚を普通に。
そして時々甘いもの。
どのスーパーマーケットのおはぎが美味しいのか、そういうことに詳しくなった。洋菓子はいただき物があった時だけ。そう決めて頑張っている。
筋トレも続けているけどそれ以上に私はとにかくたくさん歩いた。
歩くことが日課になると歩かずにはいられなくなってしまったのだった。
歩いている間、頭の中は空っぽになる。
そして何かが浮かんでくる。
ずっと前の思い出だったり、小さなころに読んだお話、物語だったり、忘れていたはずの歌を思い出して口ずさみそうになることもたまにあった。
たっぷり敷いた布団の下の豆粒に気づいてしまうお姫様の話もその中の一つだった。
私は歩きながらそのお話についていろんなことを考えた。
普通の理屈で考えるとおかしなことがたくさんあったけれど、物語なんてそういうものなのかもしれないし理屈をあてはめようとするのがもう駄目だとも言えなくもない。
彼女が豆粒にどんなふうに気がついたのか私には想像もできないけれど、姫君であるのかどうか、そういうやり方で判断することもあるんだと、幼い頃の私はすんなり受け入れていた。それ以外のお話もみんなそうだった。おとぎ話や物語はいつだって不思議なことばかりで出来上がっている。
そして不意に思った。
私と母は二人でいたからおとぎ話の内側にいることができたんだと。
『しあわせ』って内側にいることなのかも知れない。
私はそれを不意に思って、とてもとても怖くなった。
「夏希、ちゃんと食べて寝てるね」
「うん。ちゃんと食べて寝てるよ」
母は微笑み、私も笑う。
健康的な会話だ。
あのおばあさんにコスモスの花をもらった。
それと同時に小さな栗も。
「こないだのお菓子、すごく美味しかった。ありがとう。でももうくれなくてもいいよ。その時のお礼にこの栗、小さいけど味は濃いから食べてみて。お母さんによろしくね」そう言っておばあさんは私にコスモスの花束と小粒の栗がびっちり入ったジッパー付きの小さな袋をくれた。
私は栗をゆで栗にして母のいる病院に持って行った。
そうして母と二人で食べた。
「美味しい栗ね」
「うんそうだね」
「孝行娘の夏希のおかげで美味しいものを食べられて私はほんとにしあわせだわ」
「ははは、よかった」
私はからりと笑って見せた。
きちんと食べてきちんと眠るようになってから私の心はどっしりとして、からだは軽やかに動くようになっていた。
私の心。
『変わりたい』という声は今では聞こえなくなっている。
「ママ、私変わった?」
そう訊いてみた。
「わかんない。でも元気そうだよ」
母はそう言って笑った。
その笑顔がすごく素敵だったから私も自然に笑顔になれた。
『夏希、よく頑張ったね』
小さな白いカードにはそう書かれていた。
復帰した二人の先輩から私にプレゼントされたのは『ブライダルベール』という名前の観葉植物の鉢植えだった。小さな白い花が無数にポチポチと咲いている。
母の病院にクッキーを持った二人がた時、母からミニバラのことを聞いて私へのプレゼントを観葉植物にしてくれたのだという。
「可愛い、ありがとうございます」
私が静かにそう言うと、
「よかった。気に入ってくれたんだね」
先輩はそう言って、
「夏希、しあわせになってね」
「え?」
「夏希はしあわせにならなきゃな人だよ」
「え、えっと」
「大丈夫。私たちが見ててあげるから。大丈夫だからね」
「ありがとうございます」
なんだかよくわからないけど私はしあわせにならないといけないらしい。
でも今はまだ私は物語の内側にいる。あっはが生きてくれているから。
だからまだ大丈夫。
でもいつか、この物語は。
私はもらった鉢植えをそっと、ぎゅっと、抱きしめた。
ブライダルベールの濃い緑色の葉は、小さくて可愛かった。
ベランダにミニバラの鉢とブライダルベールの鉢を並べて置いて、毎朝水をサラサラかける。
新調した新しい如雨露は細かな水滴を雨のように降らせて二つの鉢の枝や葉を洗うことができる。土を柔らかく湿らせて根にちょうどいい湿り気を与えてくれる。
二つの鉢は朝日を浴びてきらきらと光るのだ。
私は無理に歩くのをやめた。
そして朝、ゆっくりとあたたかいお茶を飲む。
呼吸をゆっくり深くしながら。
少しずつからだが目覚めて動き出す。
忙しかった頃の自分を遠くから見つめてみる。
なんだか泣きたくなるような、抱きしめてあげたくなるような不思議な気持ちが浮かんで消えた。
そして怖くなる。
私が恐れているのはきっと、この物語が終わってしまうことなのだ。
思わず泣いてしまいそうな今の私はそのうち消える。
次の物語が始まった時、私がそこにいられるのかは始まってしまうまでわからないことなのだ。
「『しあわせ』になってほしい」
母の望む『しあわせ』は、きっと物語の外側に転がり落ちてしまわないことなのだと私は思った。私もそうありたいと思う。でも。
どうしたらその内側にいることができるのか、私にはわからなかった。
本当にわからなかった。
「夏希、ありがとう」
「私こそ」
母と私の会話はそんな感じで続く。
「ママ、私、『しあわせ』になれるかな?」
「どうだろうね」
「わかんないよね」
「そうだね」
「一つだけ言えることは、夏希が自分を愛することね」
「愛する?」
「難しくなんてないよ。大切にするだけなんだから」
「でもわからないことばかりだよ」
「そうだね」
「怖いよ」
「怖いか」
「うん。怖い」
「怖いよね」
母はそっと目を閉じた。
母は私がいることで、私は母がいることで、二人を守る物語の中にいることができている。生きている限り私たちは守り合うことができる。でも飯塚それは終わる。何時か終わってしまうのだ。
「夏希、私ね、いつまでも生きていたい」
「そうだね、生きててほしい」
「がんばるね」
「お願いね」
そんな会話を続けながら私たちは病院の面会時間を静かに過ごす。
かけがえのない毎日だ。
私のからだはすっかり痩せて元のように戻っている。
そして毎朝早起きをして植物に水を与えて、ゆっくりと温かいお茶を飲んだりもしている。
母は明るくいてくれるけど、からだは痩せて戻らない。
元のようにはならないのだ。
私たちの物語はもうじき形を変えてしまう。
私は物語の外にはみ出してしまうかも知れない。
それが怖くて泣いた日もある。私は決して強くないのだ。
いつまでも生きていたいと言っていたのに、母は向こう側に逝ってしまった。あっという間の事だった。
私は最初泣けなかった。
どうしてなのかはわからないけど。
そしてただ目の前のいろんなことを片づけ続けた。
黙々と何も言わずに。
誰のことも責められない。
誰も悪くなんてないのだから。
そして不思議に後悔もなかった。
でき得ることは全部したのだ。
これ以上は無理だった。
そして母の命は尽きて、私たちの物語には終止符が打たれた。
もう戻ることは出来ないのだ。
朝起きて花に水をあげる。
そして仕事に行き、帰ってきたらお風呂に入って眠る。一人で。
私はまた歩き始めた。
朝の光の中を歩いて一日の力を光にもらえたら、そう考えていたんだろうか?
わからないのだ。自分でも。
ただ歩く。
何も言わずに。
そしてある日、懐かしい香りに出会い私は泣いた。
それはあの百合の香りだった。
母が咲くのを心待ちにして毎日待っていた百合が庭一面に咲いていた。
ここがあのおばあさんの家の庭なのか。
取り切れなかった雑草が気にならないほどたくさんの白い百合が咲き乱れ、甘い香りを放っていた。
その光景を私はきっと生きてる間忘れないだろう。
甘くて涼やかな百合の香りと一緒にいつまでも覚えているだろうと思う。
その後のことは思い出せない気づいたら私は会社にいて、いつものように働いていた。その日亜記者を休んでいたら私は駄目になっていた。
だからそれでよかったんだと思う。
そうそれでよかったんだと思う。
その日の夜、私はお風呂でまた泣いた。
自分が壊れてしまうかと思うくらい泣いた。
涙は消して止まらずにいつまでもあふれ続けた。
次の日私は仕事を休んだ。
あの二人の先輩にlineしたら休め、と言われた。
課長に相談すると、休んでもいいと言われたので私はその日休みを取って母のお墓にお参りに行くことにした。
いつもの花屋に行ってみる。
色とりどりの花の中に凛とした白いカラーの花があり、私はすぐにそれを買った。
透明なセロファンと白い薄紙にくるまれたカラーの花を持って私はバスに乗って母のお墓に辿りついた。
墓石をきれいに拭いて、水入れをきれいに洗って、たっぷりと水を入れてちょうどいい長さにそろえて水切りをしたカラーの花をそこに挿した。
父と母の入っている小さな墓は陽を浴びて薄く光っていた。
花がすぐしおれてしまわないようにコンビニエンスストアで買ってきた氷を水入れに入れてみる。もう一度カラーの花をそっと挿す。清潔な印象の開ききってない真っ白なカラーの花を両親は気にいってくれるだろうか?
線香に火を点けて両親に手向ける。
線香の煙は静かに立ち上り、独特の香りを辺りにくゆらせた。
何も言わずに手を合わせ私はそっと目を閉じた。
涙が自然にこみ上げてほろほろと零れ出した。
私の心の内側に固まっていた苦しみが涙になって零れ出す。
私は素直にそのまま泣いて柔らかなタオルで涙をそっとぬぐった。
泣いて泣いて泣いて、泣き疲れて、家路につこうとした時に、スマートフォンの表示に気づいた。
先輩たちからlineが来ていた。
大丈夫?
どうしてる?
私がそれに、お墓参りに来ていますと返信すると、ものすごい速さで、暑くない?大丈夫?、と返信が来てびっくりした。
心配かけてすみません、と返信すると、ちゃんとご飯食べなさいね、飲み物ちゃんと持ってる?、と返信。
ご飯はこれから考えます、と、水筒持ってきてます、と返すと、しっかりしたもの食べるのよ、と、よかった、熱中症に気をつけてね。と返信。
え?今って休憩時間だっけ?、なんて考えた途端に、
みんな心配してるから明日は元気に出社してね、とすぐにlineが来る始末。
見透かされてる。
私はおもむろに水筒を出して冷たいお茶をごくごく飲んだ。
美味しい。
お茶を飲んだらにわかに汗が噴き出した。
汗を拭き、ごみを捨て、私はお墓を後にした。
両親は多分そこにはいない。
そう思ったけれど、ここに来てよかったと思った。
そして手向けたカラーの花が少しでも長く咲いて美しいままでいて欲しいと心から祈った。
「lineありがとうございました」
次の日会社で先輩たちにそういうとすぐ、
「ちゃんとご飯たべた?」と訊かれてしまった。
「バス停の近くの食堂で冷やし中華を」
「そっか、とりあえず合格!」
「え?」
「ちゃんと卵もチャーシューものってたんなら大丈夫でしょ」
「多分」
冷やし中華にしたのはあまり食欲がなかったからだった。
でも、もの凄く美味しくてゆるゆると食べながら感動してしまったことも話したら、
「じゃあいつか私たちも食べに行かなきゃ」と言われてしまって驚いた。
「お腹すきすぎてたからかも知れないです」
「じゃ、私たちもお腹すかせていかないと」と言われて更にびっくりした。
美味しいものの力って凄い、と思った。
昨日私はゆっくりとお風呂に入り、夢も見ないでぐっすりと眠った。
泣いて腫れた顔は朝にはきれいに治っていた。
朝歩くことは続けている。
お墓にはいかないけれど週に一度花屋に行って両親に花を手向ける習慣ができた。いわゆるお仏壇の花でなくても母の好きそうな可憐な花であればいい。そう思って自由に選んだ。
母が父に贈られた瑠璃色の花瓶に丁寧に生けて、毎日水を替えながら水切りをすることでしおれずに長持ちさせることができた。
花屋に行くのが楽しみで、なるべくそこまで歩いて行った。
歩くこと自体が楽しかった。
夜ぐっすりと眠れたし。
『変わりたい』という声はもう聞こえてこなくなっていた。
「夏希、今度の日曜、時間ある?」
「え?一応、予定は何にもありません」
「よし、じゃあ、夏希のママのお墓参りに行こう!」
「え?なんで?」
「検索したの。あの食堂、日曜日もやってるって。おこちゃまはじいじとばあばが親戚に見せたくて連れてっちゃう予定だし、パパは仕事の付き合いでゴルフに行く。私お家で一人ボッチなんてさみし過ぎるもん。冷やし中華やってるうちに行きたいし、それに子どもの生みの親、夏希のママのお墓参りに行かないなんて間違ってるし」
「でも先輩、毎日忙しいのに」
「気にしない。気にしない。私も夏希が感動した味に舌鼓打ちたいの。だから行こう」
「だから行こう、って。テーマパークとかじゃないんだし」
「行きたいの。ママのお墓。お参りさせてよ」
「それは別にいいですけど」
「約束よ。絶対ね」
先輩はそう勝手に決めてしまって機嫌よく自分のデスクに帰っていった。
お天気がいいといいんだけど。
そして日曜日。
私は先輩と待ち合わせをして母のお墓に向かった。
お天気は快晴だった。
「夏希、お早よう」
「先輩、おはようございます」
明るい陽射しの中で私たちは母のお墓に向かうためにバスに乗った。
バスは揺れることもなく母のお墓にむかっていく。
「お天気よくてよかったですね」
「夏希がいい子だからな」
「そんなこと」
「あるよ。それ」
「そうですか?」
「そうだよ」
「そうかな」
「うん。そうだよ。私だったらそんな風にできないもん」
「そんなこと」
「あるよ。夏希は、いい子だよ」
「・・・」
「大丈夫だから」
「?」
「みんなそれ、わかってるから」
「え?」
「夏希がとてもいい子だってこと、みんなわかってるんだからね」
「・・・」
「だから大丈夫。大丈夫だからね」
「はい」
そこまで話したところでバスは目的の停留所に着いた。
一人で来たときは随分長く感じたバスの時間が二人だとあという間に思えた。バス停から母のお墓のあるお寺までの10分ほどの道のりを二人で並んでつとつと歩く。来る前に買ってきた今日手向けるための花はオレンジ色の小さな百合で、まだ堅い蕾のままの花だった。今日は家から氷を持って来た。コンビニエンスストアーに寄っている時間がなさそうだったから。なかなか来ることができないから手向けた花を少しでも長持ちさせてあげたくておとといから氷を作って置いたのだった。
お寺についてお墓に向かう。手桶に水をたくさん汲んで、持って来たタオルを濡らし、両親が眠る墓に着くと、濡らしたタオルで丁寧に墓石を拭く。
先輩はおもむろにバッグから線香を取り出してマッチを擦って火を点けた。涼やかで心地よい柔らかな香りが立ち上る。
「すごくいい香り」
「そう?」
「特別な感じがします」
「よかった。この香りが一番ママに合うと思ってこれに決めたの。お線香ってすごくいろんな香りがあるんだね。知らなかった」
「それって、どこで?」
「お線香の専門店。ネットでね探したの。行ってよかった。すごくたくさん種類があってどうしよう?って思っていたらお店の人がいくつか選んでお試しで火を点けてくれて、それでこれに決めたのよ」
「そうなんですね」
「この香り、すぐに決めたの。夏希のママにはこれだ!って」
「ありがとうございます」
「それはこっちの台詞」
「そんなこと」
「夏希に喜んでもらえてすごく嬉しい。そしてママにも。ありがとう。今日ここに来させてくれて」
「・・・」
「お花、生けてあげよう。私花入れ洗ってくるよ」
「でも」
「いいからいいから」
先輩はそう言って二つある花入れを持ってさっきの水場に歩いて行った。
私は墓石を拭いたタオルをレジ袋に入れて、バッグの中にそっとしまった。
先輩が洗ってくれたれた水入れに氷を詰めて水を入れ、オレンジ色の蕾の付いた百合の茎を水切りして挿した。さっき先輩が手向けてくれた線香の涼やかな香りがそっと漂い柔らかく包んでくれている。
花を生け終えると先輩と私は並んで手を合わせ、目を閉じた。
静かな時間が流れていく。
私たちは何も言わずに静かにそこから立ち去った。
汚れた墓石をきれいに拭いて線香と花を手向けたら、もう何もすることはなかった。
先輩と私はこないだ行った食堂に向かう前に昔母と行った高台に行くことにしていた。父が亡くなって二人きりになった後、私と母は毎月一度、父のお墓にお参りに来た。月命日に一番近い日を選んで花を買いやって来て、墓石を丁寧に拭き花を手向け線香を点けて手を合わせた。働き出して私と過ごす時間が無くなってしまった母はここに来ることで私との二人きりの時間を確保しようとしれいたのかも知れない。でもその頃の私は思春期の不安や迷いと父を失い母との時間も消えたこと、母を支えたい気持ちと心許ない自分を持て余す気持ち、そのどれもに揺れていて、客観的に物事を受け止められずにいたのでそのことにまで気づけずにただ機械的に来ていた気がする。
私たちはここに来た時必ずその高台のベントの置かれた広場に行って家で二人で作ってきたおにぎりやサンドイッチを食べていた。保温のできる水筒に温かい飲み物を入れ簡単な食事を持ってそこに行き、それをゆっくりと食べたり飲んだりしながら、なんとなくその時に気になったり思いついたりしたことを訥々と話し合った。
仕事で忙しい母と中学に入学してそれまでとは違ってしまった世界の中で戸惑いながら生きてた私がその場所で話した何気ない日常のよしなしごとを思い出すことができるのがなんとなく不思議だった。
二人ともその時期を夢中で必死に生きていた。そうするしか仕方がなかったのだ。
私たちは泣いている間も逡巡する間もない中で流れる時間に身を投げてそのまま生きて今日を迎えた。いいとも悪いとも思わずに、そのままで。
先輩と私はその高台のベンチに座り、遠くに広がる景色を見遣った。
気温の高い日だったが風があるので気にならなかった。
先輩がバッグから魔法瓶を取り出して紙コップにたっぷりと冷たい飲み物を注いでくれた。蜂蜜の入ったレモネードだった。
「美味しいです。ありがとうございます」
「よかった。まだあるからたくさん飲んでね」
「ありがとうございます」
「いやいや。でもここほんとに素敵だね」
その時風が吹き抜けた。冷たさを含んだ強い風。私のかぶっていた帽子が外れて空に舞い上がる。
「ママが来てくれたのかもしれない」
私と先輩の口から同時に同じことばがこぼれた。
私は転がり落ちた帽子を追いかけて走った。
その帽子に追いついた時、私は母の声を聞いた。
「ありがとう、夏希」
声のした方を見遣ったが、何もなく誰もいない。
声はそれきり聞こえなかった。
私は静かにベンチに戻った。
「大丈夫?大変だったね」と気遣ってくれた先輩にそっと笑顔を見せながら、私はさっき聞こえた声のことを考えた。あの声は確かに母の声だった。母がいる。この場所に。
私は空を見上げた。
真っ青に晴れている。
小さな雲が切れ切れに風に流されながら飛んでいく。
母はどこ?
一体どこにいるのだろうか。
私は空を見上げ、眼下に広がる景色を見遣り、母の面影を探した。
「夏希、置かわりいる?」
先輩にそう訊かれて我に返った。
「あ、もういいかもです。お腹いっぱいになっちゃうんで」
「そっか、そうだよね。帽子あってよかったね。よかった、よかった」
先輩はそう言ってレモネードの入った魔法瓶をそっとしまった。
「さっき強い風が吹いた時、夏希のママが私たちに『ここにいるよ』って言いに来たんじゃないか?と思ったの。そういうのママらしいと思って」
「そうですね」
私は母の声を聞いたことを口に出すことができなかった。
隠そうと思ったわけではなかったけれど。
眼下に広がる景色を見ていると何もかものことが本当は錯覚で、何もかもが幻みたいに思えてきた。
母が亡くなってしまったことも、自分が一人になってしまったことも、これからが見えないことも。
「もう行く?」
先輩がおずおずと私に訊いてくれたのをきっかけにして、私たちはこないだ私が冷やし中華を食べた食堂に向かった。
「夏希、もう少しあそこにいなくてもよかった?」
私の様子を気にかけたくれた先輩に何回もそう訊かれた。
「いえ。そんなことないですよ」
私はそう答え続けながら、あの声のことを考え続けた。
あれは確かに母だった。
母はまだ存在してる。
消えてない。
まだいるんだ。
どこかにずっと。
「もうじき着くね」
食堂の赤い看板が小さく見える。
「もうじきですね」
私はほっとしてそう言う。
さっき聞こえた母の声から少し気持ちを離したい。
食堂の冷やし中華は今日も特別美味しいはずで、先輩はそのことに夢中になってくれるはずで、私はそれに期待して歩みを少し強め早めた。
食堂に着いた。
日曜日だったけどほとんどのテーブルがお客さんで埋まっていた。
こないだ来たときは時間が今とはずれていたからほかに誰もいなかったのだろう。
先輩と私は空いていた席に何とか座らせてもらって、すぐに冷やし中華を頼んだ。先輩は運ばれてきたグラスの水を飲みながらテーブルに置かれていたメニュー表のページをめくっている。
そして、
「水餃子も食べようか?」なんて聞いてくる。
「どうしましょうね?」なんて答えながら、私はグラスの水を飲み干す。
喉が渇いていた。
するとすかさずお店の人がグラスにお水を注いでくれた。
忙しい店内にいつも目を配ってくれる人がいるのだった。
先輩はすかさずその人に、「水餃子、追加してください。二人前!それと麻婆豆腐とバンバンジーも」と、はっきりとした声で言う。私はかなり驚いて先輩の顔を見た。先輩はにこっと笑って、
「夏希が食べられなかった分は私が食べるから大丈夫!自分の分は自分で払うし、気にしない、気にしない」
「そんなこと。でも大丈夫なんですか?そんなにたくさん頼んで。食べきれなかったらどうするんですか」
「この食堂ね、お持ち帰りもできるのよ。無料でパックもらえるって、前もって調べてあるの。夏希も自分の分はきっちり持って帰るのよ。時々ご飯抜いているでしょ。でも駄目よ、食べないと。健康なママになれなくなっちゃう」
「ママになる予定なんてないし、ご飯も抜いてるわけじゃないです。時々食べ忘れてるだけです」
そう、本当に時々食べ忘れてしまう。
何故だかわからないけれど。
「忘れてる?」
「なんとなくなんですけど」
「そうなんだ。じゃあここでお持ち帰りしたこのがあるうちは夏希、忘れないよね。どれも確実にすごく美味しいんだから」
「そうですね」
私は小さな声で答えて、下を向いてしまった。
「心配してくださってありがとうございます」
「ママと約束したからね」
「え?」
「『夏希のこと、どうかよろしくお願いします』って言われたの。病院で」
「?」
「『私は夏希がいたからここまで生きてくることができたけど、あの子には誰もいません。だからだから申し訳ないのだけれどちょっとだけ、夏希を守ってあげてください』って」
「・・・」
「私泣いちゃった。病院から帰って子どもの寝顔を見ていたらまた泣いてしまったの。不妊治療があまりの辛くてやめようとしてたとき私、夏希のママに励まされて頑張って続けて私は子どもを授かった。子どもができたことを夏希のママに報告したら、あなたのママはすぐに言ったわ『おめでとう。しあわせを大切に育ててね』って。『何もかもあなた次第なのよ。あなたが育てるの。子どもも自分もしあわせも。あなた自身が育ててゆくの。すべては自分次第なのよ』って」
「・・・」
「私もあなたとママみたいな親子関係を作りたい。夏希のママに感謝してるわ。夏希、あなたにもよ。だからほら、しっかり食べて強く生きていかないと。病気になんてなったりしたら私、許さないからね」
「・・・・・・・・・・。ありがとうございます」
「よし!ありがとうって言ったわね。あなたはこれからここの料理をしっかりと味わって堪能すること。そして食べきれない分は、お家に帰って美味しいうちにきちんと食べきらなきゃだめよ」
「はい」
「よし」
そんなことを話しているうちに冷やし中華がテーブルに届いた。
先輩と顔を見合わせて同時にそれを食べてみる。
「美味しい!」
目を見合わせてにっこりとどちらともなく笑ってしまう。
ゆっくりと味わいながら食べているうちに、他の料理も運ばれてきて,
テーブルの上はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
水餃子、美味しかった。
とぅるりとした食感の少し透き通った皮にくるまれた餡もトロリとしていて、ネギや三つ葉やみょうがを細かく刻んで入れたさっぱりとしたたれもとても美味しくて、するすると食べてしまった。
お腹いっぱいになったので、他の料理はお持ち帰りにしてもらった。
ちゃんと半分ずつお金を払って、先輩と私は家路についた。
家に帰って料理の入ったパックを冷蔵庫にしまってシャワーを浴びて、私はすぐに眠ってしまった。
外はまだ明るかった。
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