からだのかたち からだのこえ③
ブライダルベールが風に揺れている。
夕立の後、ベランダを見たら、雨上がりの夜の風にブライダルベールが揺らされて小さな音を立てていた。
大切に育てているので大きく育ち、鉢を替え土も入れ替えた。液体の肥料も与えたりしている。
さわさわさわさわ。
ブライダルベールは濃い緑色の葉や茎を風に揺らされながら少し苦しそうに見えた。だから私はその鉢をそれほど風に当たらないところに移してあげた。
ぐっすりと眠った後、夕方に目覚めたら大きな音を立てて夕立が降っていた。窓を閉めてエアコンをつけて寝ていた。
温度は高めに設定して。
眠っている間に汗をたくさんかいてしまうとその後が大変なので、私はいつもそうしている。
目覚めた後しばらくはそのまま横になっていたけど、夕立が止んで風が強く吹き始めた時ベランダが気になって起き出してきたのだ。
花のない枝葉の伸びたミニバラと大きく育ったブライダルベールの鉢が心配だった。その二つを風の当たりにくい場所に移してからリビングのソファに腰かけぼんやりとしている時に、今日聞いた母の声のことを思い出した。
「ありがとう、夏希」母の声はそう言った。
帽子が風に運ばれた時、先輩も私も母が来たのだと直感した。
二人同時にそう思った。
不思議だった。
私は冷蔵庫からよく冷えたウーロン茶を取り出してグラスに注いでゆっくり飲んだ。すっきりとした味と香りが静かに浸み込んでゆくのを噛みしめながら三杯飲んだ。美味しかった。グラスを片づけてお手洗いに行き、もう一度ソファに座った。
風はまだ吹いている。
ひゅうひゅうと大きな音を立てて。
両膝を抱きしめて目を閉じる。
真っ暗な中に風の音がひゅうひゅう響く。
外の世界は今、強い風にもみくちゃにされて大変なことだろう。
今日がお休みでよかった。
今外にいないで済んでよかった。
素直にそう思った。
朝、私は昨日のバンバンジーを冷蔵庫から出して食べた。
冷たく冷えたバンバンジーはすんなりと朝のお腹に入ってくれた。
ゆっくりと大切に時間をかけて私は食べた。
美味しくて爽やかでゴマの風味が濃厚でもあるその料理は、夏の朝の私に静かな元気を与えてくれた。きちんと食事を摂る習慣は大切だと、あらためて思った。
麻婆豆腐は夜食べた。
ご飯を炊いてその上に乗せた。
茄子の煮浸し。
きゅうりの浅漬け。
ご飯にのせた麻婆豆腐。
ゆっくりと丁寧に味わって食事を終えた。
今日も仕事は忙しく、一人の部屋はしんとしている。
とりあえずちゃんと眠ろう。
とりあえずお風呂に入って。
とりあえず眠ってしまおう。
私は湯船にお湯を溜め、タオルを出して、パジャマを出した。
濃い青の夏の空が水色を含んだ色に変わる頃、ミニバラがまた小さな蕾をつけ始めた。
肥料を与え、水を与える。
陽に当てて風を通す。
ミニバラはいくつもの蕾をつけて陽に映えて可憐な花が開く日を待つ。
母のお墓にも高台のベンチにもあれから何度も行ったけど母の声は聞こえなかった。
そのたびにまたあの食堂でご飯を食べる。
水餃子と麻婆豆腐。
野菜のたっぷり入ったタンメン。
油少な目。
野菜多め。
薄味で丁寧に作られている料理。
食堂に行く度にどれか一つの料理を頼んで丁寧に味わって食べた。
普段の日も以前のようにからだにものを押し込むように食べ続けることはなくなった。心はしんと落ち着いていた。私は変わったのだ。
何かに追いかけられ、何かを追いかけるような気持ちで生活しなくてもよくなったからなのかも知れない。もしかしたらまたあわただしい時が来るのかも知れないけれど、それでも、今の私は落ち着いている。
その静かな生活を私はそっと噛みしめながら生きている。
朝起きて花に水をあげる。
家事をしたり、歩いたり、ゆっくりと食事をしたり、仕事にまい進しながら明日のことを夢見たり。
私の明日への夢は、ささやかなだけどしっかりと堅くて強いものだった。
子どもが欲しい。
誰か本当に私を大切にしてくれる人と家庭を持って暮らしたい。
そして子どもを育てたい。
そんなささやかだけど大きな夢。
守り合う人が欲しい。
自分が自分でいるために。
私は決して強くない。
一人では生きてゆけない。
一人では自分自身でいることもできない。
そのことがよく分かった。
母と私の二人の暮らしがとてもささやかなものだったように、これから続く私の暮らしもささやかで静かなものであって欲しい。その中で家族を持って、温かい普通の暮らしを紡ぎたい。
炊き立てのご飯みたいな、水道のお水みたいな、朝のきれいな空気みたいな、何気ない毎日の当たり前にあるはずのもの。そういう普通の生活を私は紡いで暮らしたい。
私は普通に生きてゆきたい。
特別なんてなくていい。
そのままで、全部いい。
そのままの、素のままの自分で、ごく普通の当たり前に囲まれて包まれて自然に息をするように穏やかに生きてゆきたい。
特別なものなんて何一ついらない。
そんなものいらないくらい大切なものがあればいい。
そのままで、素のままで。
余計なものは何もいらない。
私は私のままでいい。
『変わりたい』という声はもう聴こえないだろう。
新しいスタートラインに着いた私は『これから』に向かって行く。
怖いけど、逃げたりはしない。
そのままの自分で私は未来に歩き出す。
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