よしなしごと【新版小説】~僕がノルウェーまで来た理由~
僕がノルウェーまで来た理由
2026年、12月。僕はノルウェー、オスロ空港の硬いベンチに座っている。
自動ドアが開くたびに、1ドル紙幣のように薄く乾いた風が入り込み、僕の首筋を撫でる。空港の空気というのは、世界中どこへ行っても同じようなものだ。再会への期待と、別れの諦念が、消毒液の匂いと一緒に空調システムの中で攪拌されている。
僕は手元のスマートフォンで空港のフリーWi-Fiに繋ごうとしているが、何度やっても「パスワードが違います」という無機質なメッセージが返ってくるだけだ。僕は正しい文字列を入力しているはずなのだが、システム側は頑なに僕を拒絶している。あるいは、僕の存在そのものが、この場所のプロトコルに適合していないのかもしれない。
ジャケットのポケットを探ると、指先に小さな、丸い異物が触れる。かつて愛用していたチノパンの、おしりの左ポケットから脱落したはずのボタンだ。20年以上も前に失くしたはずのそれが、なぜ今、北欧の空港にいる僕のポケットに入っているのか、うまく説明がつかない。しかし、説明がつかないことこそが、僕の人生の正体のような気もしている。
思えば、遠くまで来たものだと思う。いつの頃だったか、僕は海辺でカフカくんと砂遊びに興じていた。寄せては返す波が、僕のプラスチックのスコップをさらっていった。僕はそれを追いかけるでもなく、ただ眺めていた。喪失というのは、いつもそうやって静かに、靴の中に砂が入り込むようなやり方で訪れる。
あるいは、風の唄を聞いたり羊を追いかけていた時期もあった。存在しない羊の影を追って緑の牧草地を走り続けたせいで、僕のIQは一時84まで下がった。世界から色彩が失われ、僕はカラーテレビをモノクロ設定で眺めるような毎日を送った。でも、それはそれで悪いものではなかった。モノクロームの世界では、嘘と真実の境界線が、少しだけ親切に見えたから。
やがて中年を迎えた僕は、生まれ故郷の海の見える街に帰ってきていた。若い頃、僕はラヂオから流れる音楽を聴き流しながら完璧なアルデンテのパスタを茹で上げ、気の利いたソースを作ったものだ。しかし今の僕には、それが途方もない重労働に感じられる。僕は近所のスーパーで買った「日清製粉の冷凍パスタ」の袋をハサミで切り、電子レンジのタイマーをセットする。500ワットで5分30秒。この正確な静寂こそが、現代における僕の誠実さの定義だ。正直に言えば、自分で茹でるよりずっと美味い。
高校の同級生たちがたむろする「ピノッキオ」へ行き、カウンターでピザを食べるのも悪くない。彼らは僕に何も聞かない。そこには、文学賞も、形而上学的な孤独も存在しない。ただ、焼きたてのチーズの匂いがあるだけだ。
それでも、世間は僕を放っておかない。毎年秋になると、「N氏賞」という巨大な呪縛が僕を取り囲む。それは僕にとって、存在しない図書館の期限切れの貸出カードのようなものだった。取れそうで取れない、あるいは最初から僕のものではない何か。
ところが2026年、僕の元に一通の手紙が届いた。差出人は不明。ただ「オスロに来られたし。Nがあなたを待っている」とだけ書かれていた。オスロの裏通り、霧に煙るクリーニング店の奥に、その場所はあった。赤と緑のリボンで飾られた扉を開けると、店主の老人に「パスタの茹で加減は?」と訊かれる。僕は「500ワットで5分30秒です」と答えた。彼は黙って奥の扉を開けた。そこは、オスロであるはずなのに、いつもの「ピノッキオ」と全く同じ匂いが漂っていた。カウンターには、羊男や、耳の綺麗なモデル、鼠くんたちがいて、彼らは音もなくピザを咀嚼している。
奥から現れた整骨院の先生のような男が、僕にベルベットの箱を差し出した。
「おめでとう、君が今年のNostalgia(ノスタルジー)賞の受賞者だ」
震える手で箱を開けると、そこに入っていたのは、僕が20年前に失くした「チノパンのボタン」と、中身が上書きされて消えてしまった1本のカセットテープだった。
「で、僕はなぜノルウェーに来たんでしたっけ?」
僕は男に訊いた。男は憐れむような目で僕を見て、静かに首を振った。
「君はここへは来ていない。君は、オスロ空港のベンチでWi-Fiのパスワードを探している。あるいは、君の家のキッチンで電子レンジがチンと鳴るのを待っている。そのどちらか、あるいは両方だ。物語というのは、いつも中途半端な場所で立ち止まるものなんだよ」
ふと気づくと、僕は空港の冷たい風の中にいた。スマートフォンの画面には、相変わらず「パスワードが違います」という文字が浮かんでいる。ポケットの中のボタンは、先ほどよりも少しだけ重たくなったような気がした。
僕は立ち上がり、出口でも入り口でもない、ただそこにある自動ドアの向こう側へと、ゆっくりと歩き出した。僕がノルウェーまで来た理由は、おそらく、最初からどこにもなかったのだ。 (了)
