太平洋戦争開戦
森水学園第三分校のサイトに『真・日本史(5) 「先の大戦」を知る』の下書きとして「太平洋戦争開戦」を追加しました。ここnoteにも転載しておきます。
イシコフ: さて、ここからはいわゆる「太平洋戦争」に入るわけだけれど、最初に断ったように、私はこの戦争自体の内容を事細かに並べていくつもりはないんだ。そういう「太平洋戦史」的な本は山のように出ている。誰がどこでどう戦って勝った負けたという記録よりも、なぜあちこちで玉砕とか餓死とかが延々と続いたのか、なぜ原爆を二発も落とされる前に降伏しなかったのか、といったことに重点を置いて見ていきたい。だから「○○の戦い」といった各戦闘については、簡単に列記していくだけになると思う。
ではまず、1941年12月8日の真珠湾攻撃からだね。
真珠湾攻撃については、日本の宣戦布告が遅れたために「卑怯な奇襲攻撃」として歴史に刻まれた。これについては「あれは伝えるのが遅れただけで、日本はちゃんと宣戦布告するつもりだった」とか「アメリカは日本が奇襲してくることを知っていたのに、わざと不意をつかれたようなふりをした」とか「宣戦布告が受け取れないように細工されていた」とか、いろんなことを言う人がいる。でも、実際に伝えていなかったんだから、何をどう言ったところでしょうがない。
そもそも、大本営は奇襲を成功させるために無通告で開戦するつもりだった。それに反対したのが天皇と山本五十六で、天皇はわざわざ東条を呼び出して、必ず宣戦布告してから攻撃開始するようにと厳命した。それで攻撃開始30分前に交渉打ち切りの最後通牒を渡すということに決まったんだが、それが遅れてしまった。
この日本からの「最後通牒」電文は14分割された長文で、13通目まではダラダラと今までの経緯を書いていて、最後の14通目に書いた「覚書」の第7項3というところに、
「よって帝国政府は、ここに合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥結にするを得ずと認むる外なき旨を、合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」
と書かれていた(原文はカタカナ。一部の漢字を平仮名にした)。
凡太: これが「宣戦布告」ということですか?
イシ: 最後のところまで読むだけでも相当な時間がかかるわけで、しかも最後の文章も曖昧。これが攻撃30分前に届けられていたとしても、「卑怯な奇襲」には変わりなかっただろう。
それと、あまり知られていないけれど、真珠湾を奇襲したのは日本時間で12月8日午前3時19分だけれど、それより1時間早い午前2時15分には陸軍の部隊がイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに上陸してイギリス軍と交戦している。
凡太: その前に日本はイギリスに宣戦布告したんですか?
イシ: いや、12月8日午前7時半にロバート・クレイギー駐日大使を外務省に呼び出して、アメリカに送った「帝国政府ノ対米通牒覚書」と同じものを「参考として」渡したんだが、これもマレー半島攻撃後なので、宣戦布告なしの攻撃ということになる。
これを知ったオランダは、12月8日のうちに日本に宣戦布告した。
こうやって見ていくと、宣戦布告はあったのかどうかという議論はほとんど意味がないように思えるね。日本はなし崩し的に米英蘭相手に戦争を始めてしまったわけだ。
◆1942年の戦況
海軍は真珠湾の米軍基地に次いで、米領フィリピンのクラーク基地、マニラ湾、グアム島、ウェーキ湾、オーストラリア信託統治領のニューブリテン島ラバウル(現パプアニューギニア)と進撃していき、年明け1月には占領地を一気に広げた。
陸軍はマレー半島コタバルを皮切りに、すでに仏領南部インドシナに進駐していた部隊と合流してイギリス・インド軍を討ち破りながらマレー半島を南下して、1941年12月25日には香港を占領。年明けの1942年2月にはシンガポールを占領した。
3月、オランダ領東インド(最も欲しかった石油のあるスマトラ、ボルネオ)を占領。5月、全ビルマ占領。
マッカーサーが有名な「I shall return.」という言葉を残して撤退し、マッカーサーの後任で指揮官になっていたウェインライト中将が降伏を申し入れたのが5月6日のことだ。
こんな風に、開戦後半年は日本軍が予想以上の勝利を重ねていた。
●シンガポール陥落とフィリピン占領
2月8日から2月15日にかけて、日本軍はイギリス植民地だったシンガポール要塞を攻略。英米連合軍は食料や弾薬が尽きかけていたこともあって降伏した。
日本は占領したシンガポールを「昭南島」と改名し、インド独立運動家と降伏したイギリス軍のインド人兵士を集めて「インド国民軍」を組織した。その後、日本軍はフィリピンにも上陸し、76,000名ものアメリカ・フィリピン合同軍の兵士が捕虜になった。
このときに起きたシンガポール華僑粛清事件とバターン死の行進については、すでに辻政信のところで説明した通りだ。
凡太: 英米軍はほとんど戦わず降伏したという感じですか?
イシ: 食料が尽きかけていて補給も難しいと分かったから、存分に戦えないという判断だろうね。合理的だと思うよ。食うものも食わず、食料は現地で略奪するのがあたりまえになっていた日本軍は拍子抜けしただろうけれど、こういう兵士の命を無意味に失わせない合理的な判断ができなくなっているところでも、すでに日本軍の負けは決まっていたんじゃないかな。
●ドゥーリットル空襲
危機感が増したアメリカは、4月16日に16機の爆撃機(燃料タンクを増設したB-25)で日本本土を空襲した。
当時の米軍爆撃機の航続距離は短くて日本本土を空襲して空母に戻ることができなかったため、空母は東京から1100kmくらいまで近づき、空襲後は中国大陸に逃げ込んで不時着させるという決死隊のような作戦だった。
16機は東京、神奈川、埼玉、栃木、新潟、千葉、愛知、兵庫、三重、和歌山などを空襲した。その後、中国の飛行場にたどり着けた機はなくて、15機は海に着水したり、機を捨てて空中脱出したりで全損。1機はウラジオストックに不時着したけれど、乗組員は全員ソ連軍の捕虜になった。
これは部隊長の名前を取ってドゥーリットル空襲と呼ばれている。日本に対して「アメリカはいつでも日本本土を空襲できるんだぞ」とPRするのが主目的だった。
効果はてきめんで、軍部は混乱し、大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと嘘の発表をし、朝日新聞は「初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌」などと報じた。
ドゥーリットル部隊のうち8名は機を捨てて脱出した後に中国大陸の日本軍に捕まった。この8名は捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われ、上海市で開かれた軍事裁判の結果、8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」により死刑が言い渡された。昭和天皇は穏便に対処せよという意向だったため、その後、操縦士2名と銃手1名が処刑、他5名が無期監禁となり、3名は10月15日に処刑された。
また、ドゥーリットル空襲への報復として、山本五十六連合艦隊司令長官の命で、日本海軍の潜水艦1隻がアメリカ西海岸に派遣され、オレゴン州アストリアのフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃。さらに搭載機を飛ばしてオレゴン州の山林に2度焼夷弾を落とした。
凡太: 潜水艦から飛行機を飛ばせるんですか?
イシ: 零式小型水上機という小さな飛行機1機を搭載できるんだね。これで山林に2回焼夷弾を落としたというんだけど、1回目は前夜の大雨で燃え広がることもなく収まり、2回目に至っては気づかれもしなかった。
この「空爆」が、歴史上、2025年の今に至るまでアメリカ本土が他国から受けた唯一の「空爆」だというんだが、かえってアメリカの強さを強調するような話だよねえ。
●中国大陸での浙贛作戦と剿共戦
ドゥーリットル空襲で日本列島を爆撃した米軍機はウラジオストックに不時着した1機を除いてすべて中国に向かった。米軍の爆撃機は重量級で、空母から発進はできても着艦できないからだ。
そこで、日本軍はこれから先も中国の飛行場が米軍爆撃機の着陸基地になったらたまらないと判断して、中国大陸にいる部隊に「浙江州の飛行場群を爆砕することが急務である」という指令を出した。これによって浙江省と江西省の飛行場を破壊する「浙贛作戦」が行われた。「贛」は江西省の別称だ。
4月末に空爆が開始され、5月から9月にかけては7個師団約12万の陸戦隊も進軍。降り続いた雨で泥沼化した道を進む大変な行軍になった。飛行場を接収すると、周囲数キロに渡って民家、立木、橋などを破壊。この作戦中に中国軍の遺棄死体はおよそ2万5000にのぼった。日本軍も、戦死1284名、戦病1万1812名(戦病死1700名以上)という報告が残っている。
飛行場を占領するという目的以外に、浙江省東部一帯の蛍石産地の占領を狙ったとも言われている。蛍石は宝石として使われるだけでなく、製鉄などの融剤、レンズの特殊材料として使えるからだ。
この浙贛作戦中には、関東軍731部隊と南京栄1644部隊による、浙江省寧波、玉山、金華などの都市へのチフス菌、コレラ菌の散布も行われた。チフス菌、コレラ菌の直接散布は成功しなかったが、ペスト菌に感染したノミを寧波や金華に投下した作戦では2、3日後から住民が次々に発病し、100人以上の死者が出た。感染ノミを扱った日本兵にも被害は出たと言われている。
一方、華北(山西、河北、山東各省)では、北支那方面軍によって共産党勢力を殲滅させる作戦も引き続き行われていた。1941年だけで2万回以上の戦闘があり、中国側の遺棄死体は11万8000名。捕虜は4万5000名。日本軍側の戦死者は5600名以上だったと記録されている。
この戦闘は日本側は剿共そうきょう戦と呼んでいたが、中国側は「三光作戦」と呼んでいた。三光というのは「杀光(殺光)、烧光(焼光)、抢光(搶光)」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)のことで、中国側は「318万人が殺され、276万人が連れ去られた」と主張している。日本側には正式な記録はないから正確な数は分からないけれど、そういう状況があったことは確かだ。「連れ去られた」中国人の多くは農民で、労工として肉体労働に従事させるため満州と日本本国にも送り込まれた。東条内閣はこれを強制労働ではなく中国人との間に契約を結んだものだという体裁を作るために「華人労務者内地移入ニ関スル件」として閣議決定(1942年11月27日)している。
●ミッドウェー海戦の大敗北
ハワイ諸島北西のミッドウェー島にはアメリカ軍基地があったので、ここを早期に叩いておこうという作戦は4月に立てられていた。しかし、その直前にドゥーリットル空襲があって日本軍は動揺した。この空襲をめぐって飛び交った情報には誤報が数多く含まれていて、しかも、そのやりとりをアメリカはしっかり解読していた。
おかげで日本軍のミッドウェー攻撃を事前に察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官は、ハワイから空母部隊を出してしっかり迎撃できた。日本軍は作戦に従事した空母4隻、艦載機248機すべてと重巡洋艦1隻を失い、戦死者3000人以上という大敗北を喫した。
日本が当時所有していた空母は6隻で、そのうち4隻を一瞬にして失った上、戦死した3000人以上の兵士には真珠湾攻撃に参加した熟練パイロットが多数含まれていた。
早くもこれが日本が敗北への道をまっしぐらに突き進んでいく転換点となったわけだけれど、大本営はこの敗北を隠し、日本側の損失は空母1隻、巡洋艦1隻という嘘を報じた。
●ガダルカナル島の戦いとソロモン海戦
7月、日本軍は南太平洋ソロモン諸島の中にあるガダルカナル島に2000人の作業員と300人の守備隊を上陸させて、飛行場建設を開始した。8月、スコップとツルハシでなんとか滑走路ができあがったところを見計らって、アメリカ軍は2万人の海兵隊を投入してこれを占領。ブルドーザーなどの重機を投入して立派な飛行場として完成させた。
完成間近だった重要な飛行場を奪われた日本軍は奪還を試みて、先遣隊として1000人の兵を上陸させたんだが、米軍はすでに2万人が島にいるわけで、あっという間に迎撃されて司令官の一木清直大佐以下800人が戦死。
次に送り込まれた3100人の部隊も700人の死者を出して敗北。その次に投入した1万5000人の部隊も上陸時に総攻撃を受けて散り散りになった。
この3度の上陸作戦失敗でジャングルに逃げ延びた日本兵はおよそ2万5000名。武器も食料もなく、みなガリガリに痩せ細って、1万5000人が餓死、病死した。戦闘で死んだ者はおよそ6000人だったそうだから、その3倍くらいが餓死、病死だ。
ガダルカナル島に残された兵の撤退が決まったのは12月31日の御前会議で、翌1943年2月に駆逐艦20隻を出して、夜間に脱出させた。これでなんとか1万人が脱出できた。
日本国内では大本営が「ガダルカナル島にて作戦中の部隊は、目的を達成したので他に転進した」と発表した。このあたりからの「大本営発表」は嘘ばかりになった。今では「大本営発表」という言葉は「嘘だらけの公式発表」の代名詞になってしまっているね。
ソロモン海戦では、最初のうちは米・豪を中心とした連合軍の艦船を何隻か撃沈するなど勝利も収めていたが、戦艦2隻を失うなどした上、輸送船を次々にやられて、ただでさえ危機的な補給が途絶えてまともに戦えなくなった。

◆1943年の戦況
●山本五十六大将を失う
ガダルカナル島を失った後の日本軍は、ラバウルに海軍の航空兵力を集めてアメリカの航空兵力に対抗しようとした。その作戦の指揮を執るために現地にいた山本五十六司令長官は、ラバウルからブーゲンビル島に中型爆撃機で移動中に撃墜され、戦死した。アメリカ軍は日本軍の暗号無線を解読していて、山本司令長官の行動を事前に知っていた。
山本司令長官は2か月後に日比谷公園で国葬され、20万人が参列した。
●アッツ島玉砕
アリューシャン列島最西端にあるアッツ島は、他の主戦場からははるかに離れたアラスカの端っこにある。日本軍はミッドウェー作戦のための陽動作戦としてアメリカ軍を北に誘い出すと同時に、アメリカ軍が北東方面から攻め込めないようにという意図で、1942年6月から隣のキスカ島共々占領していた。


ここに1943年5月、アメリカ軍が攻め込んできた。
この時点でアッツ島には山崎保代大佐以下2600名の日本軍守備隊がいたんだが、すでに兵站が切れていてまともに戦える状態ではなかった。上陸してきたアメリカ軍は1万1000名。日本軍守備隊はあちこちに掘った蛸壺壕に分散して籠もり、機関銃掃射などで抗戦したが、アメリカ軍は沖に碇泊した戦艦3隻から14インチ砲を打ち込み、物量の差で日本軍を圧倒した。
大本営は「アッツにはお気の毒なるも、これに悪あがきをして得る所もなく戦力を消耗しては大変である」として、放棄することを決断した。要するに見殺しだ。
23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ「地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り、最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」という命令電文を打った。
このとき初めて「玉砕」という言葉が使われたと言われている。
この時点で生き残っていた150名の兵は、怪我で動けない兵には自決が命じられ、動ける100人ほどは銃剣と手榴弾だけで最後の突撃をかけ、全滅した。
このうち27名は意識を失うなどしてアメリカ軍に捕らえられ、戦後に帰国している。
凡太: 降伏していれば全員死なずに帰国できたんじゃないですか。ひどい話です。
イシ: 兵隊をただの消耗品としてしか扱っていないんだよ。そこが連合軍との大きな違いだ。
しかも、この「アッツ島の玉砕」は、守備隊が自ら補給や援軍を断り、皇軍兵士として立派に玉砕したと報じられ、国民が一丸となって後に続けと宣伝された。
凡太: 隣のキスカ島はどうなったんですか?
イシ: キスカ島には6000名の守備隊がいたんだが、アメリカ軍からの艦砲射撃に耐え、日本軍の駆逐艦が霧に紛れて接近し、5200名をうまく収容できた。
しかし玉砕の連鎖はここからあちこちで果てしなく続くことになる。
●イタリアの降伏
7月、アメリカはヨーロッパの地上戦に本格参戦し、7月24日には議会がムッソリーニを見限り、統帥権と憲法上の大権を国王家に返還することを決議。ムッソリーニは逮捕・幽閉された。
その後、連合軍のイタリア上陸が始まり、ムッソリーニの後を継いだ新首相ピエトロ・バドリオ(1871-1956)は9月8日に無条件降伏。しかし、バドリオが停戦条件をめぐって時間稼ぎをしている間に、ドイツ軍がローマを占領してムッソリーニを救出し、イタリア北部にイタリア社会共和国というドイツの傀儡政権が作られた。
これに対抗してバドリオ政権が日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告。連合軍もそれを支えたため、イタリアは南北に分断された内戦状態になった。内戦というよりは、イタリア国内で連合軍とドイツ軍が戦うようなものかな。
イタリア軍の半数近い兵士がムッソリーニ側についていった一方で、北部ではファシスト政権によって捕らえられていた共産党員が解放され、パルチザンとして闘争に参加するなどして、イタリア国内は混乱を極めた。

ベニート・ムッソリーニ(1883-1945)
Benito Amilcare Andrea Mussolini イタリア北部ロマーニャ地方の農村で育つ。父は熱心な社会主義者。師範学校を卒業して小学校教師になるも、退職し、スイスを放浪。帰国後は王国陸軍の狙撃兵連隊所属などを経て、イタリア社会党に入党。しかし、第一次大戦で積極参加を主張したため除名される。その後、ファシズム運動を展開し、権力を掌握していく。
1922年10月、4万人のファシスト党員がローマを占拠。混乱収束のため国王がムッソリーニに組閣を命じ、39歳で首相となる。1925年、1月に独裁宣言。ドゥーチェ(統領)と呼ばれ、神格化されていく。議会制度が実質的に消滅。1926年にはすべての野党が廃止され、ファシスト党一党独裁が完成。
1935年エチオピア侵攻。1936年10月、ベルリン=ローマ枢軸成立。1937年11月、日独防共協定。同年12月国際連盟脱退。1939年4月、アルバニア併合。1940年6月、英仏に宣戦布告。1940年9月、日独伊三国同盟調印。1943年7月、政権を失い、幽閉されるも、ドイツ軍に救出され、イタリア北部にドイツの傀儡政権樹立。内戦を経て、1945年、4月、パルチザンに捕らえられ、愛人のクラーラ・ペチッタや腹心と共に銃殺される。遺体はミラノ、ロレート広場のガソリンスタンドに逆さ吊りにされて晒された。61歳没。

凡太: イタリアもグチャグチャだったんですね。でも、日本とはかなり違う戦争の終わらせ方をした感じです。もし、日本がイタリアと同じ時期に東条内閣が倒れて停戦交渉に入っていたら、ずいぶん違う歴史になったでしょうね。
イシ: そうだねえ。でも、ムッソリーニやヒトラーは完全な独裁者タイプで、個人が倒れれば状況が大きく変わる可能性があるけれど、日本は今まで見てきたように、一人の独裁者の下にできた政権じゃない。無責任集団とでもいうか、天皇の統帥権独立という名のもとに、誰も全体責任を負わない仕組みのまま表面的な手続き上は正しい状態で異常なことが連鎖していった。その結果、絶対に勝てない戦争を終結させられず、国全体が「玉砕」に向かって走り続けたような形だ。
各戦場での「見殺し」「玉砕」はさらに続いていく。
●絶対国防圏の設定とタラワ島、マキン島の玉砕
9月30日、閣議と御前会議で、伸びきって兵站が行き届かない戦線を引き下げて、太平洋・インド洋において死守しなければならない領域を千島、小笠原、内南洋、税部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む地域にするという「絶対国防圏」なるものが決められた。
その際、陸軍は大幅に戦域を縮めて後方の防衛戦で戦うという戦略に対して、海軍は戦域後退は最低限にして早期決戦に臨むべきだと主張。なかなか意見がまとまらなかった。このあたりからずっと、陸海軍の連携がうまくとれなくなっているんだな。
11月にはギルバート諸島のマキン島とタラワ島にアメリカ軍4万人が侵攻して、両島にいた日本軍は玉砕した。ちなみに両島は「絶対国防圏」の外側にあった。
このときの日本軍の総数はタラワ島に5000名、マキン島に800名だった。数の上では圧倒的に不利なんだが、アメリカ軍は3000人以上の死傷者を出したことで、以後の戦い方を変える。上陸にこだわらず、艦砲射撃と空爆で徹底的に塹壕やトーチカを破壊し、立て籠もる日本兵の反撃拠点を破壊した後に、水陸両用装甲車や大口径砲、火炎放射器などで「仕上げ」を行うという方法だ。サイパン、グアム、沖縄などではその方式が採られた。
●学徒出陣
10月2日、在学徴集延期臨時特例というのが公布されて、理系と教員養成系以外の満20歳に達した男子大学生、高等専門学校生が徴兵されることになった。それまでは学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。
凡太: 理系は免除されたというのは、理系のほうが文系より優秀だと見なされたからですか?
イシ: いや、理系学生は兵器開発などに必要だから、という理由だ。戦場には送り込まず、軍の研究所などに勤労動員された。それと、農学部とかは理系とは見なされなかった。
10月21日には、強い雨の中、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われて、関東地方の入隊学生7万人が集められた。そこで東条首相は「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日来たのであります」などと演説した。それに対して学生代表は「……生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げておとごとくこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、……生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす」という答辞を読み上げた。この後、東条の号令で「天皇陛下万歳」が三唱された。
このとき答辞を読み上げた東京帝大文学部の学生は生き残り、戦後に東大教授になったんだが、この答辞の文章は東大助教授が書いたものを渡されたということだ。


凡太: 学徒出陣した人たちの多くは戦死したと聞きました。
イシ: そうだね。生き残っても、シベリア抑留されて衰弱死した者や、将校として現地指揮官になった者もいたから、BC級戦犯裁判で死刑を宣告されて処刑された者もいる。
あと、理系の学生は召集免除されたというけれど、必ずしも理系の能力のある青年が、ということじゃない。海軍飛行予科練習生(予科練)というのがあって、航空機搭乗員として養成されていた。当初は志願制だったんだが、国は全国の市町村にノルマを割当てて大量に集めた。新聞も応募者数を競わせるような煽り方をした。本来なら理系の大学に進むような青年も多かったはずだ。予科練の練習生は戦争末期には特攻隊要員として扱われた。戦後の日本を支えるはずの頭脳がどれだけ失われたことか。
●大東亜会議とカイロ会談
11月5、6日、東条内閣は満洲国、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府(汪兆銘政府)などの首脳を東京に集めて「大東亜会議」なるものを開催した。この頃には日本は事実上、単独で太平洋戦争を戦っているような状況だったから、日本の声量地区や傀儡政権の首脳を集めて「アジア人の結束」を示したかったわけだけれど、集められた各国首脳は消極的だった。
その直後の11月22日、ローズヴェルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統がエジプトのカイロに集まり、早くも日本の敗戦後をどう処理していくべきかを話し合っている。
この合意内容は12月1日に「カイロ宣言」として発表された。
日本は満州、台湾、澎湖諸島を中国に返還すること。
日本は1914年以来獲得した全ての太平洋上の島嶼を手放すこと。
朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること。
といったことが折り込まれている。これが後のポツダム宣言のベースにもなっている。
凡太: この時点ですでにアメリカとイギリスは日本が無条件降伏するのは時間の問題だと読んでいたということですか? しかもそこに中国も加わっているんですね。
イシ: チャーチルは中国戦線よりも、イギリスが直接利権を持っていたインド・ビルマ方面のことを重視したかったようだけれど、ローズヴェルトは中国の蒋介石政権を支えることを最重視していた。蒋介石もまた、米英がソ連と手を組む前に、中国の立場を確立したかったので、ローズヴェルトを頼った。
これが1943年末のことだ。日本が無条件降伏するのは1年8か月後になるわけだけど、なぜもっと早く終戦に持っていけなかったんだろうと思うね。
1944年の戦況
イシ: 1944年になると、太平洋上の日本軍はもはや死に体としか言いようがない悲惨な状況になる。
拠点としていたマーシャル諸島、トラック島、ラバウルが次々に攻め込まれ、壊滅。さすがに軍部内でも、早く戦争を終わらせないと大変なことになってしまうという焦りが出てくる。ところが、東条は頑なに「勝つまでやる。それしかない」と突っぱねる。勝てるわけがないのはもはや明々白々なのに。2月には首相、陸相だけでなく、参謀総長まで兼務するようになり、日本は完全な軍事国家になった。学徒動員が強化され、「銃後を守る」女性たちにも勤労奉仕や竹槍訓練が強制された。東条は、6月には特攻隊の構想についても口にしている。
●竹槍事件と新名丈夫記者
2月23日の毎日新聞一面には「皇国存亡の岐路に立つ」「首相・閣議で一大勇猛心強調」「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 眦決して見よ、敵の鋏状侵寇は」「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」といった見出しが並んだ。


凡太: 当時の新聞は難しい漢字や言葉が並んでいたんですね。「鋏状侵寇」ってなんですか。
イシ: 侵寇というのは侵略のことだ。アメリカ軍が南太平洋のラバウルと中部太平洋のマーシャル諸島方面の両方から攻めてくることを鋏の刃に喩えたんだな。
この記事では、「今こそわれらは直視しなければならない、戦争は果して勝つてゐるか、ガダルカナル以来過去一年半余り、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかはらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来つた血涙の事実をわれわれは深省しなければならない」と、これまでの戦い方を批判し、「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以ては戦ひ得ないのだ。帝國の存亡を決するものはわが航空戦力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかつてゐるのではないか。」と結んでいる。
これに東条は激怒した。掲載紙は発禁処分を受け、編集責任者と筆者は処分を求められた。毎日新聞社は編集責任者は処分したが、記事を書いた新名丈夫記者の処分は見送った。
すると、新名記者は8日後に二等兵としての召集令状を受け取った。いわゆる「懲罰召集」で、けしからんやつだから最前線に送り込んでやる、ということだ。
凡太: 召集が懲罰ってことですか。聖戦とかいっておきながら、これじゃあ戦地が刑務所や処刑場だと言っているようなものじゃないですか。
イシ: まったくだね。新名記者はそのとき37歳。大正時代に徴兵検査を受けたときは弱視を理由に兵役免除になっていた。新名記者は海軍記者クラブ「黒潮会」主任記者でもあったので、海軍が「大正の老兵をたった1人取るのはどういうわけか」と抗議した。海軍の中には陸軍の戦い方に批判的だった軍人が大勢いたから、新名記者が勇気をもって自分たちの思いを代弁してくれたという気持ちもあったんだろう。
陸軍は「懲罰召集ではない」という体裁を取るために、兵役免除されていた中高年250人を一緒に召集した。その後、海軍の抗議によって新名記者は3か月で召集解除となったが、同時に召集された老兵は硫黄島に送られて全員戦死した。
陸軍はその後も新名記者を再召集しようとしていたので、海軍はそうさせないため、新名記者を報道班員としてフィリピンに送った。新名記者はそこで特攻隊員らと交流。敗戦直前に内地に戻ってからも、人間爆弾「桜花」部隊の取材などを行い、戦後は取材した記録をGHQに接収されないように個人で隠し持ち続け、多くの著書を残した。1981年4月に74歳で死去するまで、生き残った特攻隊員たちとの交流が続いていたそうだ。
●インパール作戦の無謀・無残
1944年3月、日本軍はインド・マニプル州の州都インパールを攻略しようと3個師団を送り込んだ。しかし、兵站が途切れ、失敗。7月まで続けられたが中止され、撤退する兵士たちには餓死、戦病死が続出した。
この作戦は最初から片倉衷大佐、稲田正純少将らが強硬に反対したにも関わらず、第15軍司令官の牟田口廉也中将が強引に主張し、上司である緬甸方面軍司令官の河辺正三が許可したことにより強行された。
牟田口は装備を軽くするために兵に持たせる食料を減らし、食料がなくなったら野草を採ったり、連れているヒツジやウシを殺して食べればよいという、自称「ジンギスカン作戦」を主張。軍司令部の誰もが馬鹿げていると反対したが、河辺だけが同意した。河辺と牟田口は日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件のときも支那駐屯歩兵旅団長と支那駐屯歩兵第1連隊長という上司と部下の関係だった。
河辺は大東亜会議にも出席したインド独立運動指導者の一人であるスバス・チャンドラ・ボースを高く評価していた。ボースはインドにさしたる地盤がないのに東条に取り入り、インド仮政府の首班に指名された。日本軍のインドへの遠征はボースの願望でもあったため、インパール作戦につながったという見方もある。
インパール作戦を含めて、ビルマで餓死、病死、戦死した日本兵の数は16万人に及ぶ。

河辺正三(1886-1965)
富山県出身。陸士(19期)、陸大(27期)卒業。盧溝橋事件のとき、支那駐屯歩兵旅団長として支那駐屯歩兵第1連隊長・牟田口廉也大佐の直属上官。1944年、牟田口が強硬に主張したインパール作戦を認可。作戦失敗後も責任をとらされず、参謀本部附~中部軍司令官~第15方面軍司令官兼中部軍管区司令官と歴任し、大将にまで出世し、敗戦直前の1945年4月には航空総軍司令官に就任。戦後、戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留されたが、1947年に釈放。朝鮮戦争が勃発すると、失業復員軍人らを集めた義勇軍の総司令官となって朝鮮半島にわたるという話が持ち上がったが、憲法違反になるとされて計画は中止になった。1965年に78歳で死去。
●マリアナ沖海戦~サイパン陥落
アメリカは1943年10月に、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド大将が、日本本土を空襲する「マッターホルン作戦」というものを立てて、ローズヴェルト大統領も了承していた。
日本本土空襲に使う航続距離の長い新型爆撃機B-29の開発も進められていた。この計画のためには、中国の飛行場からよりも東京に近いマリアナ諸島を、B-29の出撃基地としてどうしても手に入れる必要があった。
1944年6月11日、アメリカ軍はマリアナ諸島にある日本の飛行基地への攻撃を開始し、徹底的に破壊した。これで日本軍の制空権は完全に失われた。
6月19日、マリアナ沖海戦が火ぶたを切った。サイパンが陥落したら完全におしまいだから、日本軍はありったけの艦船を注ぎ込んでアメリカ軍艦隊に向かって行った。日本海軍は戦艦こそ大和、武蔵、金剛、榛名といった大型艦が残っていたけれど、空母はミッドウェー海戦で4隻失っていたから手薄。商船を急遽軍艦に改造したようなのも混じっていた。
一方のアメリカ軍は空母15隻、戦艦7隻に潜水艦。結果は、日本側が空母3隻と450機以上の航空機を失う大敗。アメリカの勝因の一つは、高性能レーダーだった。
その後、アメリカ軍はサイパンに上陸。この際は、前年のタラワ島での苦戦に学んで、上陸前に艦砲射撃と空爆で島内の日本軍基地を徹底的に破壊した。
島内にいた2万1000名の日本兵に援軍を送り込み4万2000まで増強したが、アメリカ軍の上陸初日には8割が戦死。生き残った兵はジャングルや洞窟に逃げ込んでゲリラ戦に挑んだ。しかし、すでに補給が断たれていて食料も弾薬もない状態だからどうにもならない。大本営はサイパンを放棄することを決定。それを受けて7月6日、サイパン司令部の斎藤義次中将と南雲忠一中将は生き残っていた兵に玉砕を命じた。「戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし」
この指令の直後、南雲、斎藤、第31軍参謀長・井桁敬治の3人の将官は自決した。
凡太: 指揮官が自決するのもひどいですけど、なぜ部下たちに降伏して投降せよと命じられなかったんでしょう。
イシ: 大本営の意向を受けてだけれど、責任のとり方が間違っているよね。しかも、サイパンには日本から移住してきた一般の日本人が2万人、先住民が4千人も暮らしていた。彼らも戦闘に巻き込まれて次々に命を落とした。
「生きて虜囚の辱を受けず」は兵士たちだけでなく一般住民にも浸透していたので、島の北端にあるマッピ岬から「天皇陛下万歳!」「大日本帝国万歳!」と叫びながら身を投げて自決した。この岬はその後「バンザイ・クリフ」と呼ばれるようになった。
ただ、自決した民間人の多くは、国への忠誠心というよりは、アメリカ軍に捕まったら拷問されて殺されると思い込まされていたからだともいう。
サイパンの戦いで死んだ日本人と朝鮮人はおよそ1万2000人。うち、日本人民間人は約8000人だという。アメリカ軍が保護した民間人は1万5000人。
さらにジャングルに立て籠もってゲリラ戦を続けた兵士や隠れて生き延びた民間人もいて、終戦後に投降してきた者もかなりいたらしい。
こうした悲惨な状況の後、ともかくサイパンがアメリカ軍の手に落ちたことで、以後はここからB-29が日本本土に向けて飛び立ち、各都市に爆弾、焼夷弾を容赦なく降らせることになる。
また、サイパン陥落のおよそ2週間後の7月22日、東条内閣が総辞職して小磯國昭内閣に代わっている。
この段階で、速やかに終戦交渉を始めなければいけないのに、具体的な策を出せず、島の奥に籠もっての持久戦だの、本土決戦なんてことをうだうだ言っていた。小磯内閣の8か月余りはまったく無駄な時間を費やして、国民をひたすら死に追いやっていただけだと言えるんじゃないかな。
●ペリリュー島の玉砕、レイテ沖海戦の大敗、特攻隊、フィリピン陥落
9月15日、パラオ諸島のペリリュー島にアメリカ軍が上陸。中川州男大佐率いる約1万名がゲリラ戦で応戦し、アメリカ軍も1万名以上の死傷者を出した。しかし、物量の差、武器の差はいかんともしがたく、11月24日に中川司令官が自決し、1万人の日本兵全員が玉砕した。
アメリカ軍のペリリュー島への侵攻はフィリピン奪回への布石として行われた。
10月10日、フィリピン上陸を前に、アメリカ軍は台湾沖の空母部隊から爆撃機を出撃させて琉球列島全域を空襲。12日には台湾の日本軍基地を爆撃した。
この際、日本軍は台湾の陸上基地から航空機で迎撃したんだが、どういうわけか、アメリカの空母11隻を撃沈したという大誤報が流れて、日本国中が狂喜した。実際はアメリカ軍の高性能レーダーによって攻撃する前に発見されて、多くが撃墜されていた(台湾沖航空戦)。
ところが海軍は誤報だったと言い出せず、大本営もしばらくは誤報を信じたままになっていた。
10月20日、約20万人のアメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸。10月23日から26日にかけてのレイテ沖海戦では日本海軍が残っていた主力艦すべてを注ぎ込んでアメリカの艦隊に海上戦を挑んだが、史上最大の戦艦で「不沈艦」と呼ばれた武蔵をはじめ、山城、扶桑という主力艦を撃沈され、全兵力の97%にあたる8万人が戦死するという壊滅状態になった。
このレイテ沖海戦では、初めて特攻隊が編制され、特攻攻撃が実行された。
この頃までには、人間魚雷とかロケット噴射の拘束ぐらいだー「桜花」、モーターボート型の「震洋」「マルレ」(小型肉薄攻撃艇)といった特攻兵器の開発が進んでいて、特攻攻撃はその後の沖縄戦では中心的攻撃法にさえなった。敗戦に至るまでの各種特攻による戦死者はおよそ6000名に上った。
12月15日、連合軍はミンドロ島に侵攻し、すぐに制圧し、その後のルソン島制圧をはじめとするフィリピン奪還への足がかりとした。
ここから先も日本軍は大敗、玉砕の連続で、一刻も早く降伏するしか選択肢はない状況なのに、軍中枢部は国の自殺を意味する「本土決戦」にこだわった。
『真・日本史』第1巻~第4巻発売中

◆『真・日本史(1) -縄文時代~黒船来航まで-
1万年の平和を壊し続けた者たち』
◆『真・日本史(2) -幕末史「戊辰クーデター」の実相-
テロリストと欧米エリートが壊した「維新」』
◆『真・日本史(3) -馬鹿が作った明治-』
◆『真・日本史(4) 大正時代~二・二六事件 日本が壊れるまでの道』
↑ClickでAmazonのページへ
ここから先は

現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。
