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第二次護憲運動と治安維持法

森水学園第三分校で連載中の「真・日本史」シリーズ4「日本が壊れるまでの道」に、第6回「第二次護憲運動と治安維持法」を追加したので、前後2編に分割してここにも載せておきます。


イシ: さて、大正時代は自由・平等を希求するエネルギーとそれを排斥して軍国主義を完遂しようとする既存勢力とのせめぎ合いの時代だった、と言ったけれど、政治の世界でのせめぎ合いはどんな風に進んでいったのか、改めて見てみよう。

 まず、平民宰相と呼ばれた原敬が暗殺された後の内閣を並べてみるよ。第20代から第30代までに相当する。

  • 高橋是清内閣:1921年(大正10年)11月13日~1922年(大正11年)6月12日 立憲政友会

  • 加藤友三郎内閣:1922年(大正11年)6月12日~1923年(大正12年)9月2日 立憲政友会

  • 第2次山本權兵衞内閣:1923年(大正12年)9月2日~1924年(大正13年)1月7日 立憲政友会・革新倶楽部

  • 清浦奎吾内閣:1924年(大正13年)1月7日~1924年(大正13年)6月11日 超然内閣(閣外協力は政友本党)

  • 加藤高明内閣:1924年(大正13年)6月11日~1926年(大正15年)1月30日 憲政会・立憲政友会・革新倶楽部連立から途中で組閣し直して憲政会単独に

  • 第1次若槻礼次郎内閣:1926年(大正15年)1月30日~1927年(昭和2年)4月20日 憲政会

  • 田中義一内閣:1927年(昭和2年)4月20日~1929年(昭和4年)7月2日 立憲政友会

  • 濱口雄幸内閣:1929年(昭和4年)7月2日~1931年(昭和6年)4月14日 立憲民政党

  • 第2次若槻礼次郎内閣:1931年(昭和6年)4月14日~1931年(昭和6年)12月13日 立憲民政党

  • 犬養毅内閣:1931年(昭和6年)12月13日~1932年(昭和7年)5月26日 立憲政友会

  • 齋藤實内閣:1932年(昭和7年)5月26日~1934年(昭和9年)7月8日 挙国一致内閣(立憲民政党・立憲政友会)



凡太: どれも2年ともたなかった短命な内閣ですね。でも、昭和7(1932)年の斎藤内閣までは政党を基盤にした内閣だったんですか?

イシ: そうとも言えない。まず、高橋是清内閣は、人気の高かった原首相が暗殺された直後に急造された内閣で、原内閣の蔵相だった高橋を首相に据えて、他の閣僚も全員再任した内閣だった。そのため「居抜き内閣」なんて呼ばれた。それを決めたのも山縣有朋、松方正義、西園寺公望の三元老だ。

凡太: 元老ってまだいたんですね。

イシ: 軍部を仕切っていた山縣は原が暗殺される直前から発熱で寝込んでいて、翌年の大正11(1922)年2月1日に病死したんだが、病床でもまだ粘っていて、原の後の首相には元老の西園寺を推していた。
 しかし、西園寺は、政党内閣の首相が暗殺された後に元老内閣が復活してはまずいだろうということでこれを断り、松方と相談して、原と同じ政友会の内閣を継続させるという意味で高橋を首相にした。

凡太: 高橋是清さんって、若いときは留学のつもりで渡ったアメリカで瞞されて奴隷同然に働かされたり、日露戦争では日銀副総裁として米英に国債を買ってもらって戦費を調達したりした人でしたね。(第3巻『馬鹿が作った明治』p.143参照)

イシ: そうそう。苦労人だよね。彼がいなければ資金調達ができず、日露戦争に日本が勝つなんてことはありえなかった。それでも、政界内では高橋をよく思わない者たちも多かったんだね。山縣有朋は次期首相に高橋が決まったと知ると、「また泥棒どもの内閣か」と吐き捨てるように言ったそうだ。
 山縣の死の一月前には大隈重信も死去している。ひとつの時代の区切りのような感じではあったけれど、そこから先、政治が上手く機能していったかというと、全然そうはならなかった。

 急遽首相にされた高橋是清は政友会をまとめきれず、半年あまりで内閣総辞職してしまった。しかし、生き残っている二人の元老・西園寺公望と松方正義は、第二党である憲政会総裁の加藤高明は首相の器ではないと判断して、海軍大臣の加藤友三郎ともさぶろうを推挙。加藤は当初やりたがらなかったが、政友会が閣外協力するというので引き受けた。

凡太: まだ元老が裏で実質、首相を決めているんですね。陸軍大臣、海軍大臣は軍人がなることになっているから、海軍大臣が組閣した内閣は政党内閣ではないですね。

イシ: そういうことだね。第一党の政友会は、憲政会の内閣になるのを阻止したいがために、加藤に閣外協力すると持ちかけている。
 加藤は軍人でありながら、ワシントン海軍軍縮条約に従って主力艦14隻を廃止するなど軍縮を行い、陸軍もそれに倣って5個師団を削減し、シベリア出兵も終わらせた。
 しかし、加藤は大腸癌が悪化して大正12(1923)年8月に死去。これまた短命な内閣になってしまった。

加藤友三郎

加藤友三郎(1861-1923)
広島藩士の三男として生まれる。海軍兵学校を卒業後、日清戦争、日露戦争で軍功を上げ、大正4(1915)年、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。海軍大将に昇進後、寺内正毅、原敬、高橋是清内閣で連続して海軍大臣。海軍大臣として海軍の合理的改革などに取り組みつつ、軍部と政党の両方に一定の信頼を持たれる希有な存在となっていく。原内閣の海軍大臣として臨んだワシントン会議ではアメリカ発案の軍縮案「五五三艦隊案」を受け入れた。
高橋是清内閣総辞職の後を受けて組閣し、軍縮を実行したが、首相就任後間もない大正12(1923)年8月24日に満62歳で病死。

凡太: 加藤さんは海軍大将でありながら軍縮を行ったんですね。

イシ: そうなんだよ。彼は常に合理性とバランスを求める人物だった。当初は軍事大国となったアメリカに対抗するために、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を戦力の中核に据えるという「八八艦隊計画」というのを推進していたんだが、そのためには莫大な費用がかかって国民生活を圧迫すると考え直し、やみくもに軍備拡張するのではなく、国際協調によって戦争を避けるという方向に転換していった。それで、軍拡一本槍の勢力からは批判も受けたが、粘り強く軍部と政府の協調路線を探り続けた。
 ワシントン会議での軍縮案を受け入れた際に海軍省に宛てた報告書にはこうある。

国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。



凡太: まったくの正論ですね。軍部にもこういう人がいたのに、62歳で死んでしまったのは残念です。

イシ: そうだねえ。もう少し長生きしていれば、軍部の暴走に多少なりとも歯止めがかかっていたのかもしれない。……まあ、分からないけどね。
 加藤が死んだ8日後の9月1日に関東大震災が起きた。そのとき、次期首相はまだ決まっていなくて、外相の内田康哉が首相を臨時兼任するという政治空白期だったのも弱り目に祟り目だな。

 そんな状況で生まれた第二次山本権兵衛内閣は元老・西園寺公望の指示によるもので、関東大震災の復興で手一杯だった。ところが年末の12月27日、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が狙撃されるという虎ノ門事件が起きた。
 犯人の難波大助の動機はいまひとつ不明のままだけれど、大逆事件、亀戸事件、甘粕事件と続いた国家権力による社会主義者虐殺事件への抗議という意味合いが強かったことは事実だろうね。
 この事件の引責という形で山本内閣が総辞職した。

凡太: 一人のテロリストのために内閣が総辞職するんですか? しかも震災復興が急務という非常時に。

イシ: 皇族への発砲というのはそれだけショッキングな出来事だったんだろうね。
 で、元老・西園寺が次に組閣を指名したのが当時75歳の高齢になっていた清浦奎吾けいご
 清浦は明治29(1896)年の松方内閣の司法大臣を皮切りに、第二次山縣内閣、第一次桂内閣の司法大臣、第一次桂内閣の司法大臣、農商務大臣、内務大臣兼任……と、貴族院を基盤にして政府内で隠然とした力を持っていた人物。
 その清浦は、政党人を起用しない貴族院議員ばかりの組閣をしたので、超然主義の復活と批判を浴びた。
 しかし、衆議院第一党の政友会内部で、総裁・高橋是清派と、貴族院勢力と結んで国粋主義路線を取ろうとする床次竹二郎派が対立していて、床波派は総裁の高橋を失脚させるために清浦への閣外協力方針を採るなどバラバラ。そういう政争の中で国会が解散して総選挙に突入した。政友会は149名が離反して分裂し、政友本党を結成。高橋のもとに残った政友会は清浦内閣打倒を掲げて、憲政会、革新倶楽部と連合して第二次護憲運動と呼ばれる倒閣運動を起こした。この政友会、憲政会、革新倶楽部は「護憲三派」と呼ばれた。
 選挙では護憲三派が281名当選。政友本党は選挙前から33議席減らした116議席になり、清浦内閣は総辞職。第一党となった憲政会総裁・加藤高明が首相となり、加藤内閣が誕生した。

 この大正13(1924)年6月成立の加藤高明内閣から昭和7(1932)年5月15日の五・一五事件で暗殺された犬養毅首相までの8年間、6内閣の時代を、二大政党の総裁が交代で内閣を組織した「憲政の常道」時代と呼んでいるんだが、これまた短いねえ。

 まず、加藤高明は、高橋是清、若槻礼次郎、浜口雄幸、幣原喜重郎、犬養毅といった面々を要する内閣を作り、前々から課題となっていた普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結してソ連と国交を樹立した。
 一方で、共産党潰しを目的とした治安維持法を成立させたり、陸軍現役将校学校配属令を公布して学校教練を始めるなど、軍国化への道筋も作ってしまった。

凡太: 加藤高明さんというのは、第二次大隈内閣の外相でしたね。「三菱の大番頭」といわれ、第一次世界大戦への参戦や対華21ヶ条要求のときの人という認識です。

イシ: うん。日英同盟締結も推進して、対外政策では常に強硬派だった人だね。ソ連と国交を結んだのも、主に貿易面でのメリットを考えたからだ。三菱の大番頭としては、貿易も戦争も勢力拡大の手段ということかな。そんな加藤が、ここにきて護憲三派内閣の首相というのも皮肉という感じがする。
 ちなみに、このときようやく成立した普通選挙法は、満25才以上男子に与えられたもので、女性は相変わらず選挙権がなかった。男にしか選挙権がないのに「普通選挙」と呼ぶことに国民が違和感を感じない……そういう時代だったんだね。

治安維持法の怖ろしさとは

イシ: 治安維持法についてはしっかり理解しておかないといけない。
 治安維持法の制定は普通選挙の実現とセットだったとよくいわれている。普通選挙になって貧乏人も投票ができるとなると、社会主義者が政界に入り込んでくる可能性があるから、そうなる前に徹底的に潰せ、という意図で制定されたといっていい。要するに、社会主義者が組織的に活動して選挙活動、政治活動をするのを絶対に阻止するための法律が治安維持法だった。

凡太: それまでの治安警察法とかでも、社会主義者は散々弾圧されてきましたよね。治安警察法ではまだ足りなかったんですか?

イシ: 治安警察法は、明治13(1880)年に自由民権運動の取り締まりを目的に制定した集会条例がルーツになっている。それが10年後の明治23(1890)年に集会及政社法となり、さらに10年後の明治33(1900)年に治安警察法へとなっていったわけだ。自由民権運動が労働運動と結びついていったために、政治活動だけでなく、労働運動の段階で抑え込んでおきたいということで、内容を膨らませた形だな。
 一方で、治安維持法は最初から社会主義、共産主義を根絶やしにするというのが主目的だった。
 治安維持法が禁止したのは簡単に言うと、

  1. 天皇制や資本主義を否定することを目的とした結社の結成とその参加(未遂でも有罪対象)

  2. 天皇制や資本主義を否定することを目的とする協議を行うこと

  3. 天皇制や資本主義を否定することを目的に民衆を煽動したり、社会を混乱させること


凡太: 結社の禁止となると、政党結成どころか、勉強会の類でも摘発される可能性がありますよね。

イシ: うん。天皇制と資本主義を否定するようなことは、そう考えるだけでも処罰する、ということだね。書くな、話すな、考えるな、ということだな。
 天皇制にしても資本主義にしても、歴史的には社会の一時的形態や状態にすぎない。完全無欠なものではないから、批判が出たり、革命が起きたり、法律による規制がかけられたりする。それをうまく処理していき、社会全体をなるべく平穏で豊かな、幸福感を得られる状態にしていくというのが政治本来の目的だと私は思うんだが、一度権力を握った人たちにとっては、どんな目的であろうとも、現体制を変えるようなことはそもそも「考えてほしくない」。余計なことを考え、吹聴するようなやつは徹底的に潰せ、ということなんだろう。

 最も恐ろしい点は、法の解釈が取り締まる側に委ねられていたという点だよ。
 治安維持法が初めて適用されたのは、大正14(1925)年11月の京都学連事件と呼ばれるものだ。これはかねてより学校内でマルクス関連の勉強会をする社会科学研究会(社研)というサークルの活動を危険視していた警察が、社研を潰す機会を窺っていたところ、同志社大学構内の掲示板に軍事教育反対運動のビラが貼られているのを見つけ、京都府警察部特高課が京都帝大、同志社大などの社研会員の自宅や下宿などに突入し、家宅捜索して学生33名を検挙・拘束した事件だ。この検挙の理由とされたのが治安維持法だった。

凡太: え? 治安維持法が禁じているのは天皇制や資本主義を否定することですよね。軍事教育反対というのは関係ないと思いますが。

イシ: その通りだよ。最初の適用からして滅茶苦茶だった。
 この最初の検挙では、大学寄宿舎にも大学に通告なしで無断で侵入し、学生のノートや日記などを押収した。京都大学が抗議し、全員釈放されたんだが、その後、司法省や検事局が本格的検挙に乗りだし、全国規模で社研会員を次々に検挙し、社研に関与していると思われる大学教員らの家宅捜索も強行した。
 結果、38名の学生が起訴され、37名が有罪になった。
 このときの経過がまた恐ろしくてね。まず、大正15(1926)年1月14日、この事件の新聞報道を禁止した。国民には知らせるなというわけだね。報道を禁止したその翌日に、各府県の特高課を動員して全国の社研会員学生を検挙した。
 それに合わせるかのように、岡田良平文部大臣は学生・生徒による社会科学研究の禁止を通達した。
 その8か月後、検挙した学生らの予審が始めるのに合わせて新聞掲載を解禁したんだが、新聞はみな「学生の不祥事」という伝え方で「社会主義を研究する学生は不良で危険だ」という印象を植えつけた。
 新聞に「学生の不祥事」という記事を書かせた3日後に学生38名を起訴。その翌年に第1審判決で37人が有罪となった。弁護側、検察側両方が控訴して、昭和3(1928)年3月5日には第2回公判が始まるんだが、その10日後の3月15日には日本共産党党員ら数千名を治安維持法違反容疑で一斉拘束し、約300名を検挙(一説には検挙者約1500人、そのうち483人を起訴)するという三・一五事件が起きた。翌年4月16日にも潜伏していた共産党幹部ら339名を逮捕、起訴している。
 東大生だった是枝恭二などは京都学連事件で保釈後に日本共産党に入党したため、禁固1年が確定した後、三・一五事件で再検挙されてそのまま獄中死している。
 京大生だった岩田義道は禁錮10か月の判決を受けた後に共産党に入党して党中央委員になったが、昭和7(1932)年10月、摘発から逃れるために大学教授宅に匿われていた時に特高に捕まり、拷問を受けて4日後に警察署内で死んだ。

凡太: 新聞は完全に取り締まり側に利用されていますね。政界や司法界からの反対意見はなかったんですか?

イシ: 一部にはあったけれど、案外すんなり通ってしまったという印象があるね。というのも、教科書には出てこないけれど、治安維持法が制定されてしまうまでの裏事情として、国粋主義者からの圧力や、政友会の分裂による勢力図変化といったものがあったんだ。

 まず、治安維持法が成立する前に、第二次山本内閣の司法大臣・平沼騏一郎小川平吉ら、国粋主義者たちが社会主義者弾圧への動きを強め、治安維持法制定へ動いていた。

平沼騏一郎

平沼騏一郎(1867-1952)
津山藩士の家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年に司法省に入省。明治38(1905)年、大審院検事。明治43(1910)年の大逆事件(幸徳事件)では冤罪を作り上げて、異例の早さで24名に死刑判決が下ることに加担した。大正元(1912)年に検事総長。大正10(1921)年に皇室中心主義を唱える「国本社」を結成し、会誌『国本』を発行。その後、国本社には陸海軍将官、司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が次々に参加し、国粋主義勢力のサロン化したため、平沼はその勢力の中心人物として影響力を持つようになり、社会主義者一掃のための法令制定などにも力を入れる。大正12(1923)年、第二次山本内閣で司法大臣。翌大正13(1924)年に枢密顧問官。昭和6(1931)年の満州事変勃発後は右派や軍部から平沼内閣待望論が高まったが、最後の元老・西園寺公望に危険視され、すぐには実現しなかった。昭和14(1939)年1月、内閣総理大臣に就任。日独防共協定(1936)を結んでソ連を仮想敵国としてきたのに、昭和14(1939)年8月にドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだことでショックを受け、「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を出して総辞職。その後、第二次近衛内閣で国務大臣・内務大臣を兼任。第三次近衛内閣でも国務大臣。太平洋戦争敗戦後は極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身禁錮刑に処された。昭和27(1952)年、健康上の理由で仮出所を許された後に84歳で病死。


小川平吉

小川平吉(1870-1942)
信濃国(長野県)諏訪の商家の三男として生まれる。帝国大学法科大学仏法科卒業後、弁護士に。明治36(1903)年、衆議院議員初当選後、伊藤博文と意見が合わず、政友会を離党。日露戦争前は開戦を強く主張。日露戦争後の日露講和条約締結では「屈辱的講和」だと抗議し、日比谷焼打事件を煽動したとして河野広中、大竹貫一らとともに逮捕されるが証拠不十分で無罪に。明治43(1910)年、政友会に復党し、大正4(1915)年に幹事長就任。大正12(1923)年、虎の門事件の翌日に国粋主義を唱える思想団体・青天会を発起。『日本新聞』を主宰。国粋主義の政治家、軍人、学者らが多く会員となる。その中には東条英機、若槻礼次郎、永田鉄山、荒木貞夫、近衛文麿、北里柴三郎、平沼騏一郎らも含まれる。
大正14(1925)年2月、第一次加藤高明内閣(護憲三派内閣)の司法大臣・横田千之助せんのすけの急死に伴い、司法大臣に就任し、治安維持法制定を推進し、4月22日に公布。8月2日には退任した。
翌大正15(1926)年、第一次若槻内閣のときは野党(政友会)議員として朴烈事件に対する処置が甘すぎるとして政府を追及し、議会を空転させた。
昭和2(1927)年、田中義一内閣の鉄道大臣に就任し、それまで左書きだった駅名標をすべて右書きに、発音に沿った駅名表記を旧仮名遣いに改め、ローマ字表記も廃止させて「国粋大臣」の異名をとる。鉄道大臣在任中、経営不振の5つの私鉄を国有化する懇請を受けた際に賄賂を受け取る「五私鉄疑獄事件」を起こし、政権交代後に起訴され留置される。一旦は無罪となるが検察が控訴し、昭和11(1936)年9月に懲役2年の判決確定。政界から引退した。昭和17(1942)年。72歳で死去。

凡太: 司法界でも軍国、国粋主義の勢力が強かったんですね。

イシ: うん。それと、立憲政友会の分裂も響いた。原敬が暗殺された後、高橋是清内閣が内部分裂のような形で崩壊したのは、高橋を支えていた横田千之助に対して、次期総裁を狙って派閥を固めていた床次とこなみ竹二郎との対立も関係していた。
 司法大臣の横田が急死しなければ、治安維持法推進派の小川平吉が司法大臣になることはなかったし、横田は元老の西園寺からも信頼されていたから、もう少し生きていれば横田内閣ができていた可能性もある
 あまり語られることはないけれど、横田の急死は日本の近代史にとって大きな分岐点だったんじゃないかな。

横田千之助

横田千之助(1870-1925)
下野国足利(栃木県足利市)の織物商の次男として生まれる。少年時代は実家が没落し、丁稚奉公に。その後、上京し、東京法学院(現・中央大学)に通いながら新聞記者や星亨の書生を務めた後、弁護士に。立憲政友会の結党に星とともに参加。複数の企業の役員も務める。
明治45(1912)年、衆議院議員初当選、以後死去まで5期連続当選。西園寺公望、原敬、両政友会総裁から信頼され、大正5(1916)年に党幹事長。原内閣成立後は法制局長官。床次竹二郎と共に原敬の後継者として期待される。ワシントン会議に参加中に原が暗殺され、直ちに帰国して高橋是清を新総裁に擁立して党内の混乱を鎮める。普通選挙制の導入や軍縮、軍閥を通じた中国への介入政策の修正を唱える。最後の元老・西園寺公望からは次期政友会総裁・首相にと期待されるが、政友会内で派閥を作っていた床次竹二郎がこれを察知して反発。政友会は内部分裂し、高橋是清内閣が崩壊。横田はそれまで対立関係にあった憲政会、革新倶楽部と協力して第二次護憲運動を進めた。選挙で護憲三派が勝利し、憲政会の加藤高明内閣で司法大臣に就任するも、54歳で急死。

床次竹二郎

床次竹二郎(1867-1935)
薩摩藩士の長男として生まれる。少年時代から激しい性格で、西南戦争で西郷隆盛が死ぬと、大久保利通の留守宅を友人と叩き壊した。東京帝国大学法科大学政治科卒業後、大蔵相入省。内務官僚に転じて各府県を回る。明治38(1905)年、内務大臣だった原敬に直訴して地方局長に就任。神社局長・水野錬太郎と共に神社合併を強引に推進。大正2(1913)年、第一次山本内閣で鉄道院総裁に就任。その後、大正4(1915)年、補欠選挙で衆議院議員に初当選し、以後、連続8期当選。大正7(1918)年、原内閣で内務大臣兼鉄道院総裁。貴族院勢力との結びつきを深めると同時に、社会主義の広まりを防ぐための全国規模の右翼団体として大日本国粋会を創設。関西の博徒、親分36人を東京に呼び寄せて会合を開いた。
政友会内部では高橋是清総裁を立てる横田千之助らと、高橋ではまとまらないと交代を求める床波のグループが対立。大正12(1923)年末、第二次山本内閣が虎ノ門事件の責任を取って退陣すると、床波らは高橋を見限り、貴族院研究会幹部・清浦奎吾を推戴し、政友会・研究会連合内閣を目論んだ。その結果、清浦内閣が誕生したが、貴族院議員ばかりの内閣となり、高橋は護憲の立場から打倒・清浦内閣を掲げた。床波は清浦内閣支持に回り、結果、政友会の過半数以上の党員を引き連れて離党し、政友本党を結成して次の選挙に臨んだが、横田らがまとめた護憲三派に大敗。憲政党の加藤高明内閣が発足した。
昭和2(1927)年、政友本党は憲政会と合併して立憲民政党になり、立憲政友会との二大政党体制になった。しかし、昭和3(1928)年、対中国不干渉政策に反対との理由で25名の党員を引き連れて民政党を脱党し、院内会派・新党倶楽部を結成。しかし、翌年に民政党の濱口内閣が成立すると新党倶楽部は政友会に合流。その後もゴタゴタが続いたが、昭和9(1934)年の挙国一致体制での岡田啓介内閣では野党宣言した政友会の切り崩しを図って逓信大臣としての入閣を打診されたのを受け入れたため、政友会を除名された。昭和10(1935)年には、昭和3(1928)年に満洲軍閥の張学良から出た50万元が床次に渡っていたとされる「50万元事件」が議会で問題になった。その渦中、逓信大臣のまま心臓病で死去。満68歳。

イシ: まとめれば、京都学連事件が起きた大正14(1925)年12月1日や全国で特高が社研会員学生を検挙した大正15(1926)年1月15日のときは憲政会の加藤高明内閣で司法大臣は「日本主義」を提唱していた小川平吉で、この人が治安維持法を成立させた。
 新聞に「学生の不祥事」キャンペーンをやらせた直後に学生38名を治安維持法違反などで起訴した大正15(1926)年9月は第一次若槻内閣で司法大臣は甘粕正彦の仮出獄の許可を発令した江木たすく(1873-1932)。三・一五事件が起きた昭和3(1928)年3月は政友会総裁の田中義一内閣で、司法大臣は平沼騏一郎の主催する国本社理事を務めた嘉道よしみち(1867-1944)。この人は犯罪行為そのものではなく思想を取り締まる「思想検事」というのを設置し、治安維持法を改定して最高刑を死刑とした人だ。

江木 翼

江木 翼(1873-1932)
山口県の商家に生まれる。東京帝国大学法科大学英法科へ進学後、枢密顧問官・文部大臣・貴族院議員となる江木千之の養子に。卒業後、内務省入省。大正元(1912)年、第三次桂内閣、第二次大隈内閣、第一次加藤高明内閣で内閣書記官長。大正14(1925)年、第二次加藤高明内閣の司法大臣、次の第一次若槻内閣でも留任。大正15(1926)年10月、甘粕事件の首謀者とされる甘粕正彦の仮出獄の許可を発令し、甘粕は懲役10年の判決のところ約3年で仮出獄し、その後、満州に渡り陸軍の秘密工作などで暗躍した。昭和7(1932)年9月に58歳で病死。

原 嘉道

原 嘉道(1867-1944)
長野の庄屋格農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業後、農商務省に入省。農商務大臣・陸奥宗光、大臣秘書官・原敬に重用され出世。明治26(1893)年、弁護士に転身。鳩山和夫、小川平吉、花井卓蔵らとともに日本弁護士協会、国際弁護士協会設立に参加。
大正9(1920)年、原敬内閣で陪審法諮問委員に選出され、政友会との関係を築く。国粋主義者として知られる平沼騏一郎主催の国本社に参加し、理事に就任。昭和2(1927)年、田中義一内閣の司法大臣に就任し、治安維持法を行使して日本共産党関係者を一斉検挙した(三・一五事件)。昭和3(1928)年、「思想検事」を設置。治安維持法の最高刑を死刑とする修正条項を追加。昭和15(1940)年、枢密院議長就任。昭和16(1941)年6月に独ソ戦が勃発すると、7月2日の御前会議において松岡外相とともに対ソ開戦を主張したが、日米戦に対しては、あくまでも外交交渉で回避すべきとの立場だった。太平洋戦争突入後、枢密院は権能喪失状態となり、昭和19(1944)年8月、77歳で病死。

凡太: 聞いたことのない名前の人たちがいっぱい出てきました。

イシ: 教科書には出てこない名前だろうね。でも、大正末期から昭和初期にかけて、政界をかき回し、政府を国粋主義に染めていった人たちだよ。
 自由民権運動のところでも、結局は権力闘争じゃないかという残念感を覚えたけれど、ここでもまたか、という感じだね。
 第二次護憲運動とか、憲政の常道とか、言葉はもっともらしいけれど、結局は個人の権力欲、出世欲をベースにした権力闘争になってしまう。床次竹二郎という人は、とにかく首相になりたかったんだろうと想像できる人生だし、平沼騏一郎や小川平吉など、頭がゴリゴリの国粋主義で固まっている人たちもいっぱい出てくる。
 そんな中で横田千之助は最後の元老・西園寺や、軍閥の山縣有朋からさえ「人格者」だと評価され、バランス感覚にも優れていた希有な人材だったようだけれど、そういう人に限って早死にしてしまうんだねえ。

凡太: 政友会の次期総裁や首相の座を狙っていた人たちにとっては、あまりにもタイミングがよすぎるというか……謀殺の可能性はないんですか?

イシ: 可能性はあるかもしれないけれど、証拠が残っていない以上、想像の域を出ないよねえ。


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