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忘れていく母へ贈る、10分間の魔法

〜バラバラの時計と、認知症の母と、
 発達凸凹の息子と、私の白目むきがちな日々〜


 1. 「上書き保存」ができない世界での迷子


「ねえ、病院行ったんだっけ?」


病院の自動ドアを出て、道路の向かいにある薬局へ向かう、ほんの数歩の間のことだった。
背後から降ってきたその声は、驚くほど無邪気で、
それゆえに、私の体から最後の一滴の体力を音もなく奪い去った。


4月の生暖かい風が、アスファルトの匂いを運んでくる。
ぐずる息子を早朝から保育園へ預け、
入れ替わりで実家へ走り、母を連れて向かった土曜日の外来。
何時間も待合室の硬い椅子に座り続け、
名前を呼ばれ、診察室に入り、
淡々と話す医師に現状を伝え、
次回の予約を調整し、混み合う会計を済ませた。
その後のことだった。


横断歩道を渡る前まで、確かに共有していたはずの、
あの濃密な「数時間」が、母の中では跡形もなく消え去っている。


「……さっき終わったところだよ。今からお薬をもらいに行くよ」


努めて穏やかに、けれど振り向かずに答えると、
母は「ああ、そうだったね」と、
深い霧が晴れたような、安堵した声を出す。
その笑顔は、かつての、元気だった母のままだ。


けれど、その安堵は長くは続かない。
薬局を出て車に乗ると、
シートベルトを締める音に重なるように、
また同じトーン、同じ表情で尋ねてくる。


「ねえ、薬局から薬もらったんだっけ?」


これが、私の土曜日だ。


パソコンの作業に例えるなら、
どんなにキーボードを叩いてデータを入力しても、
肝心の「保存」ボタンが物理的に破壊されている状態。
一歩進むたびに、世界が初期化される。


母を実家に送り届け、次は息子を保育園に迎えに行く。
朝はあれほど「行きたくない」と泣き喚いた息子が、夕方は「帰りたくない」と反転する。
当時2歳の息子は、特性ゆえの制御不能なエネルギーを爆発させ、
「ギャー!」という怪獣のような咆哮を上げながら園庭を走り回り、ついには塀をよじ登ろうとする。


実家に行けば、過去を失っていく母。

帰宅すれば、今この瞬間の衝動を制御できない息子。


アラフォーの私は、その真ん中に立ち、
だいたい毎日、天を仰いで白目をむいている。
世間ではこれを「ダブルケア」と呼ぶらしい。
文字にすればたった5文字の、無機質で整理された言葉。


けれど実際は、底なしの泥濘の中で、
家族というパズルを、
ピースが足りないまま泥まみれになって組み上げているような日々だ。


笑う余裕なんてない日の方が圧倒的に多かった。
それでも、笑い飛ばして「ネタ」にでも昇華させなければ、心がポッキリと折れてしまう。
そんなギリギリの境界線で、私は今日を繋ぎ止めていた。


母の記憶は、
指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、
さらさらと、静かに失われていく。


せめて、その砂がすべて落ち切る前に。
「愛されている」という感覚、
その温かな手触りだけは、母の魂の奥底に残せないだろうか。



 2. 「おせっかい」という名の、あまりに不器用な献身


今にして思えば、母は昔から「止まれない人」だった。


家の中でじっとしている母の姿を、私はほとんど覚えていない。
常に何かを考え、思い立ったら即座に動き出し、
よく喋り、そしてよく忘れ物をする人だった。
玄関のドアを開けたままゴミ捨てに行き、
近所の人と長話に花を咲かせる。
「あ、鍋の火消したっけ?」と慌てて戻ると、
台所は煙に包まれている——そんな光景は、我が家の日常茶飯事だった。
当時は「おっちょこちょいな人だな」と思っていたけれど、
今、息子の発達支援を通じて専門的な知識を得た私の目から見れば、母にも確実に「その気(け)」があったのだと思う。


その多動的とも言える「止まれない特性」は、
しばしば他人への過剰な干渉——「おせっかい」として発露した。


実の父が倒れれば、
仕事が終わると同時に病院へ駆けつけ、
義理の両親の介護が必要になれば、
誰に頼まれるでもなく自分の時間を削って尽くした。
母は常に、誰かのためにバタバタと走り回っていた。


小学生の頃、祖母が入院したときのことだ。
母は毎日のように病院へ通い詰め、
山のような洗濯物を抱え、
祖母が「食べたい」とこぼした一言を聞き逃さず、翌日には手料理をタッパーに詰めて持っていった。
たまにしか来ない親戚が
「まあ、おばあちゃん元気そうね」と一言かけるだけで病室がパッと華やぐ。
その横で、母は黒子のように黙々と、
汚れたパジャマを着替えさせ、排泄の世話をし、
爪を切り、祖母の乾いた背中をさすり続けていた。


「なんでお母さんばっかり、あんなに大変な思いをするの? もっと休めばいいのに」


母はいつも、少し困ったように、でも誇らしげにこう言っていた。


「お父さんは何もできないから、私がやるしかないのよ」


当時、その言葉の裏側にある重みは分からなかった。
父は、今思えば典型的なASD(自閉スペクトラム症)の特性があり、
言われたことはなんとかこなすが、
行間を読んだり自発的にケアに回ったりすることが極端に苦手な人だった。
母は、父の分まで「感情の労働」を一手に引き受けていたのだ。


大人になり、自分もケアをする側になってようやく理解した。


あれは、単なる「おせっかい」でも「自己満足」でもなかった。
言葉では伝わらない、理屈では割り切れない愛を、行動で埋め尽くそうとしていたのだ。
心配だから、してしまう。
見て見ぬふりができないから、動いてしまう。
それは、紛れもない、母なりの不器用な愛の証明だった。


 3. 切なすぎる実家療養と、霧の中のクリスマス


母の異変は、季節が移り変わるのと同じくらいの速度で、しかし確実に進んでいた。


「あれ、私、さっきも言ったっけ?」という自覚症状があったのは、ほんの短い期間だった。
やがて同じ質問を繰り返す間隔が1時間になり、
30分になり、10分になり
——最終的には、数秒前の自分の言葉さえ見失うようになっていった。


私が息子を身ごもり、切迫早産で実家に戻らざるを得なかった時期が、
一つの大きな転換点だったと思う。
絶対安静を強いられ、布団から動けない私を支えるため、母は献身的に台所に立ってくれた。
しかし、母の脳内にはすでに、深い霧が立ち込め始めていた。
「妊婦が避けるべき食材」や「塩分制限」といった、重要かつ新しい情報を「保存」しておくことができなくなっていたのだ。


「お母さん、生ものは今はダメだよって、昨日も言ったよね……」

「あら、そうだったわね。ごめんね、次は気をつけるわ」


申し訳なさそうに笑う母を見て、私は冷蔵庫の扉に大きく「ダメなものリスト」を貼った。
けれど、母の目はそれを文字として認識しても、
意味として処理できず、視線は虚空を通り過ぎてしまう。


翌日の食卓に並ぶのは、またしても半熟卵や、炭水化物たっぷりの芋料理のオンパレード。
高齢出産ということもあり、食事制限は死活問題だった。
けれど、母にとって「芋を煮る」ことは、
数十年にわたり染み付いた「家族への愛の形」なのだ。
習慣化された古い記憶だけが、壊れた保存機能の中で唯一、鮮明に残っていた。


箸を置いたまま、何も言えずに俯く私。そのとき、母がぽつりと呟いた。


「私……もっと、ちゃんとしてやれると思っていたのに……」


涙がこぼれ落ちる。
「母としての役割」を全うできないという現実が、彼女の自尊心を鋭く切り裂いたのが、痛いほど分かった。


私は仕事帰りの姉に電話した。声が震えていた。


「……もう、無理かもしれない。パンでもいいから買ってきてほしい」


翌日から、姉は仕事帰りに食料を買い込み、
私と母の食生活を整えてくれた。
料理が得意ではなかった姉が、毎朝早く起きて、
栄養たっぷりのスープを作ってくれるようになった。
ボロボロになった私の肌にクリームを塗り、弱り切った私の髪を優しく乾かしてくれた。


「大丈夫、なんとかなるから。お母さんのことも、私が見るから」


その言葉に、母の前では決して見せられなかった涙が、ダムが決壊したように溢れ出した。


その年のクリスマス。
実家の食卓には、姉が用意してくれたささやかなチキンとケーキが並んだ。
認知症が進む母と、お腹に不安を抱える私、
そして私たちを支えるために奔走する姉、
我関せずの父。
四人の、静かな夜だった。


ケーキを一口食べた瞬間、お腹の中の息子が、
これまでになかったほど激しくうねるように動いた。
ドンドコと、まるでお祭りの太鼓を叩いているような力強さ。


「わあ、すごい動いた!」


私が叫ぶと、母がそっと私のお腹に手を当てた。


「初めての豪華な食事に興奮したんだね。この子はきっと、お肉が大好きな元気な子になるわね!」


私たちは声を上げて笑った。
母の目は、そのときだけはっきりと、
霧の向こうにある「未来」を見ているようだった。


たとえ今日のメニューを忘れても、
目の前の命に対する祝福の気持ちは消えていない。
あの夜、不安でぐちゃぐちゃだった小さなリビングには、
確かに、聖夜の奇跡のような温かさが満ちていた。




 4. 産声と、重なり合う「今」


2022年1月。羊水が減少していることが分かり、翌週の入院が告げられた。
コロナ禍の真っ只中、立ち会いも面会も叶わない、孤独な出産だった。


誘発分娩による気が遠くなるような陣痛の嵐の中で、
私が考えていたのは、意外にも、母のことだった。
母も、こんな痛みを乗り越えて私を産んでくれたのだろうか。
あの「止まれない」ほどのおせっかいな愛は、この痛みから始まったのだろうか。


産声を上げた我が子は、どこか潰れたような顔をしていた。
第一印象は正直「ブサイクだな……」だった。
けれど、看護師に綺麗に拭かれ、保育器の中で小さな胸を上下させている姿を見ているうちに、
愛しさがじわじわと細胞の隅々にまで染み渡っていった。


退院後、再び実家での生活が始まった。
新生児の育児と、進行する母の認知症。
それは、想像を絶するカオスだった。


「今ようやく寝たから、私も少しだけ仮眠するね」

「分かった。ゆっくり寝なさい」


そう会話をして寝室に入った3秒後、ドアがガチャリと開く。


「……ねえ、起きてる?」


悪気は全くない。ただ、さっきの会話が、ドアを閉めた瞬間に消去されているのだ。


それでも、母の「体が覚えている記憶」には何度も救われた。
ミルクをあげる角度、ゲップを出させるための優しい背中の叩き方、泣き止まない息子を抱っこして庭の緑を見せに行く足取り。
それらは、脳の記憶回路を通らずとも、母の細胞一つひとつに刻み込まれた「母親としての本能」だった。


「泣いても、何をしていても、本当に可愛いねえ」


母が息子に注ぐ眼差しには、混じりけのない純粋な愛があった。
私の言葉は届かなくても、息子の産声とぬくもりは、母の心の深い場所に届いている。
その確信だけが、私の折れそうな心をつなぎとめる唯一の楔だった。



5. 時計の針が、居場所を失った日


月日は流れ、2024年5月。
平穏を装っていた家族のバランスが、再び大きく崩れた。
父が鬱を患い、入院したのだ。


父がいない間は穏やかだった母が、退院後から一変した。
「自分のこともままならないのに、父さんの面倒なんて無理よ!」
ストレスは行動に現れた。
今まで一度もなかったトイレの失敗が頻発し、
家の中を目的もなく歩き回る。


「……もう、限界だ」


私は姉と相談し、母を説得して、ついに認知症外来の門を叩いた。


診断を確定させるための検査の日。
病院の診察室は、消毒液の匂いと、逃げ場のない重苦しい静寂に包まれていた。
担当医は丁寧な口調で、母に一枚の白い紙とペンを差し出した。


「お母さん、ここに時計の絵を描いてみてください。数字を全部入れて、時刻は10時10分を指しているように」


隣に座っていた私は、
「これくらいなら、お母さんでも描けるだろう」と高を括っていた。
だって、母は毎日、壁掛け時計を見て
夕飯の時間やドラマの時間を気にしているのだから。


母は少し首を傾げ、迷いながらゆっくりとペンを動かし始めた。
まずは円を描く。少し歪んでいるけれど、それは間違いなく円だった。
次に、数字を書き入れようとして——母のペンが、ピタリと止まった。


その「間」が、永遠のように長く感じられた。


「……あれ? 数字って、どこからだったかしら。時計の数字、いくつまであったかな?」


母の呟きに、私の心臓が大きく跳ねた。


やっとの思いで描き終えられた紙を覗き込んだとき、私は自分の心臓が凍りつくような音を聞いた。


そこにあったのは、もはや「時計」ではなかった。


1から12までの数字が、円の右半分にだけ、ひしめき合うように固まって配置されている。
そして肝心の針は——中心という概念を失い、
どこを指すこともできず、ぐにゃりと紙の余白を彷徨っていた。


「ああ……」


その瞬間、バラバラだったすべての記憶が一本の線でつながった。


外出先で、母が何度も何度も憑りつかれたように「今、何時?」と聞いてきた理由。
私はそれを「光の加減で見えにくいのかな」とか「視力が落ちたのかな」などと、のんきに思っていた。


違ったのだ。


母は、時計が見えなかったんじゃない。
「時間」という概念そのものが、彼女の世界から崩壊していたのだ。
今という時間がどこから始まり、どこへ行くのか。
過去と未来を結ぶ地図を、彼女は永遠に失ってしまった。


隣で「上手く描けなかったわ、恥ずかしい」と少女のように照れくさそうに笑う母を見て、
私はマスクの下で唇を血が出るほど噛み締め、声を殺して泣いた。




6. 「自由」という名の鍵を返すとき


診断が下り、私たちが避けて通れなくなったのが、運転免許の返納だった。


車社会の地方都市において、母にとって車は単なる移動手段ではない。
「自立の証」であり、自分の意志で行きたい場所へ行くという「自由そのもの」だった。


決定打となったのは、ある蒸し暑い午後の電話だった。


「もしもし……私、今どこにいるか分からないの」


受話器の向こうで、震える母の声。一瞬で血の気が引いた。


「落ち着いて。周りに何が見える? 看板は? 大きな建物は?」


問いかけても、母の答えは要領を得ない。「木がある」「道がある」——どこにでもある風景の断片だけを繰り返す。


1時間後、怪我もなく帰宅できたという連絡が入ったとき、私はその場にへなへなと崩れ落ちた。


「お母さん、もう、運転はやめよう。お願い」


私が絞り出すように告げると、母は豹変した。

「買い物も、コインランドリーも行かなきゃいけない。私から車を取り上げたら、私はどうやって生きていけばいいの?」


その日から壮絶な攻防戦が始まった。
ある日、高齢者の交通事故のニュースを見た母が「やっぱり返納した方がいいかな」と呟いた。
そのわずかな隙をついて、すぐ返納に連れて行った。


ところが今度は、返納したこと自体を忘れてしまう。
うっかり運転しないよう、車の鍵を私と姉が預かると、母は嘆き続けた。


「私はまだ大丈夫」「私をバカにしてるのか」「信用してないんだね」


認知症特有の被害妄想が混じり、母の言葉は鋭利なナイフとなって私の心に突き刺さった。


奪いたかったわけじゃない。
あなたの命を、そしてあなたが傷つけてしまうかもしれない誰かの命を守りたかっただけなのに——。


けれど時間は、残酷で、そして不思議なほど優しい。


一ヶ月も経つと、母は返納したという事実を、
自分の中で都合の良い物語に書き換えた。
「視力が下がって、更新できなかったのよね。残念だけど仕方ないわ」


今では、20年近くペーパードライバーだった姉がハンドルを握り、母は助手席が定位置になった。


「あら、あそこのお花、とっても綺麗ねえ」


流れる景色を眺めながら、穏やかに笑う母。
できなくなることを嘆くより、できる形に変えていく工夫をすればいい。
助手席から眺める景色も、きっと悪くないはずだと、自分に言い聞かせながら。



 7. 10分間の「魔法」:AI絵本がつなぐ記憶


母の状態が進むにつれ、複雑なストーリーを追うことができなくなった。
大好きだったサスペンスドラマも「誰が誰だか分からない、疲れちゃうわ」とテレビを消すようになり、
長年の習慣だった新聞を広げることもなくなった。


そんな母が唯一、吸い寄せられるように視線を留めるものがあった。
スマホに映し出される、息子の写真や動画だった。


「見て、このときのちびたん、すっごく可愛いでしょ」

「本当、可愛いねえ。今、何歳になったんだっけ?」


そのやり取りを、わずか5分間で10回繰り返したとき、私はふと思いついた。


母のために、今の彼女の脳が受け入れられる、最高にシンプルな「物語」を作ってみよう。


私はAIを駆使して、一冊の「デジタル絵本」を作り上げた。
画像生成AIで、息子が赤ちゃんだった頃の姿や、
母と一緒に遊んだ風景を、温かみのあるイラストに変換した。
タイトルは、息子が生まれたときからずっと一緒に過ごしている白いくまの抱っこふとんから取り、
『ちびびとしろいくまさん』。
姉にLINEで送り、母に見せてもらった。


母は画面を食い入るように見つめていたそうだ。
普段なら数秒で逸れてしまう視線が、画面の中の「ちびび」に釘付けになっている。


「……ちびび。……うちの、あの子に似てるわね」


その声はとても小さかったけれど、はっきりとした響きがあった。
最後の一枚をめくり終えたあと、母はふっと少女のように笑った。


「なんだか、うちと同じね。とってもいいお話」


その一言で、確信した。


記憶のデータは消去されても、そこに付随していた「愛した感情」は消えないのだ。
孫を慈しむ気持ちや、かつて自分が子育てに奮闘していた頃の誇らしい記憶が、
AIが描いた絵を通じて、魂の底から呼び起こされた。


記憶は、脳の回路としては消えてしまっているのかもしれない。けれど、愛し、愛されたという温かな感情の澱は、魂の深い場所に沈殿している。


最新のテクノロジーが、母の失われゆく記憶を掬い上げ、10分間だけの「魔法」をかけてくれた。
その10分間、母は認知症の患者ではなく、ただの「優しいおばあちゃん」に戻っていた。



 8. 2026年、雪解けの季節に


月日は流れ、2026年。私たちの生活は、依然として「白目をむく」ことの連続だ。


今年の2月、血の気が引くような事件があった。母が行方不明になったのだ。


きっかけは、母のスマホが故障したことだった。「娘に連絡しなきゃ」という一心で、
母はたった一人で家を飛び出した。
携帯ショップへ向かおうとしたらしいが、
家を出て数分後には、自分がなぜ道を歩いているのかさえ分からなくなっていた。


数時間後、母は数キロ離れたスーパーの店員さんに電話を借り、自宅の留守番電話にメッセージを残していた。


「〇〇(姉の名前)、帰ったらお店に電話して」


母は、自宅の固定電話の番号だけは、指が覚えていたのだ。


事故に遭っていたかもしれない。
二度と会えなかったかもしれない。
考えればきりがない。
けれど今はただ、目の前に母がいる。それだけで十分だった。


一方、発達凸凹の息子にも大きな変化があった。2026年3月、
療育の通所日数が月に10日から23日に増えることが決定した。


その決定通知を受け取ったとき、私は一人きりの部屋で、人目も憚らずガッツポーズをした。


それは決して育児放棄ではない。
プロの手に委ねる時間が増えることで、
私は母に対しても、息子に対しても、
そして何より自分自身に対しても、
「もう少しだけ優しい私」でいられる余裕を取り戻せるのだから。


支えが必要なのは、ケアされる側だけではない。ケアをする私自身も、
誰かに、何かに支えられなければ、立っていられないのだ。




 9. 結びに:書き換わらない「今」を抱きしめて


記憶は、上書き保存できない。


母の脳からは、今食べた夕飯の内容も、今交わした約束も、
春の雪のように儚く消えていく。
息子は今日も、
私の理解を超えたマイルールで遊び、私の忍耐力を極限まで試してくる。


私の日常は、これからもずっと、混沌の中にあるだろう。
ダブルケアという長いトンネルは、出口がどこにあるのかも、
いつまで続くのかも、誰にも分からない。


それでも、私は思う。


あの検査で母が描いた「バラバラの時計」は、
実は今の私の心そのものだったのかもしれない。


数字がどこにあってもいい。
針がどこを指していなくてもいい。
ただ、その「円」の中に、不器用で、泥臭くて、
愛おしい家族が一緒にいるという事実。
それだけで、私たちの時計は、立派に時を刻んでいるのではないか。


2025年11月、母の記憶がまだはっきりしているうちに、と無理を承知で強行した七五三の撮影。
案の定、息子は慣れない着物を嫌がって逃げ回り、カメラマンも私も諦めかけたその瞬間、
息子がほんの一瞬だけ、奇跡的にカメラに向かって満面の笑みを見せた。


バタバタと選んだ写真はどれも、楽しそうに笑っていた。
その姿を、母に見せることができた。
母は「もう3歳なのね」と、驚きながら喜んでくれた。


その一枚の写真があれば。
その10分間の魔法があれば。
私は明日もまた、白目をむきながら、このカオスな日常を泳いでいける気がする。


私たちの物語は、華やかな成功物語ではない。
何かが劇的に解決するわけでも、病気が完治するわけでもない。
でも、忘れていく母に贈り続ける「魔法」を、
私はこれからも、形を変え、言葉を変え、何度でも紡いでいこうと思う。


記憶は消えても、愛し合った時間は、魂の深い場所に残り続ける。
私たちは、何度でも「今、ここ」から、新しい絆を結び直していくのだ。




今週もまた、実家のリビングで同じ会話が繰り返される。


「ねえ、ちびたんは今、何歳になったの?」


私は最高の笑顔で、100回目となる、昨日と同じ答えを返す。


「4歳になったよ。もう、お兄さんだね」


何度でも。何度でも。


愛しているよという言葉の代わりに、私はその「答え」を、母の心にそっと置いてくる。


🐻‍❄️ .。.:・゚💫 .。.:・゚🦝 .。.:・゚💫 .。.:・゚🎤


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