"THE LEPLI-ARCHIVES"#193-『CdG- ”川久保玲作品発表会巴里”-'18年3月03日を論じる。』
文責/ 平川武治:
初稿/ 2018年3月 9日:
写真/CdG 2018-19A/W Paris collectionから,:
『プロローグ』
今年のこの街、巴里は興味ある二つの「50周年記念」がある。
一つは、この国の戦後の左翼イデオロギィーの根幹になっている”5月革命”-
「MAY ‘68」の50周年。
もう一つはあの70年代のモードの在り方、「プレタポルテ」を生み出して
牽引して来たメゾン、「ソニア リキエル」の50周年でもある。
この「50年」という半世紀前の出来事を熟知し続けている人間が少なく
なりつつある事と、やはり都合の悪い事は忘れたいという心情と、この時代とこゝろを「風化」させてしまいたいからであろう。
これによって戦後の大衆は「豊かさ」を持ち得るまでに”努力“して来た
この”50年”であった。
そして、川久保玲がスタイリストをやめて、友人、三人で始めたこのCdG
ブランドも多分、「50周年」を迎えるであろう。そして、このブランドの
創成期、当時の多くを知っている人たちもこのブランドのプレスによって
都合よく得意の意訳によって本質を知っている人たちが少なくなったようだ。
『ここで、 ”川久保玲作品発表会“を見る度に思うことがある。』
このデザイナー、川久保玲はそもそも、どのような服を作りたくって
日本のファッション・シーンへ入って来たのかである。
彼女の全ての始まりは、彼女達がつけたブランド名でも判るし、
当時の巴里のS.リキエルのコピーから始まった。
そして、その後どのような価値観と思惑と目的の変革によって彼女たちの
ブランドが先日のような”発表会“を為すまでに至っるになったかは誰も知らないし、ジャーナリスト達は尋ねない。勿論、海外のジャーナリスト達は
全くこの「コトの始まり」は知らされていないし、聞くための情報も持ち得ていない。
以前、僕がロンドンの『iD Magazine』編集長だったテリー・ジョーンズからの依頼で別冊「REI KAWAKUBO」のために依頼原稿にこの経緯を書いたら驚いていたし、「こんなことは全ては記事に出来ない」とすまなそうに謝っていた事をいつも新鮮に思い出す。
このような時間と、どのような関係性と努力を経て、現在の川久保玲の
作風に至るまでの「メタモルフォーゼ」が可能なのか?を、国内も国外でも誰も今だに論じない。
『日本のファッションが「文化の領域」にまで達することが出来ない所以の一つがあろう。』
ある意味では、ここに日本のファッションが「文化の領域」にまで達することができない所以の一つ、”なりすまし”があろう。
他方では、自らが欲しくってなりすまし「文化勲章」を貰ってしまった
有名デザイナーも存在したと言うのに。
最近の東京ファッションウイークの”枯れ木に山の賑わい“も、
日本の現在の外交政治「庭先外交」と同じくその多くが「庭先デザイナー」でしかない。見える庭先ではしゃぎまわっているだけの輩たちだ。
「おい、君たち、“床の間”を持っているのか?」
すみません、今のマンション住まいで育った世代は”床の間“の存在と美意識すら知らない世代でしょう。
『では、”川久保玲作品発表会“を論じよう。』
まず、何よりも昨シーズンから、このデザイナーの作風が変わった。
僕もハッピーになる。
多分、あのN.Y.のMETでの展覧会以後、このデザイナーはある種の肩の
荷が降りたのであろうか或いは、日本では持ち得ることが出来ない”自信”が生まれたのであろうか?
(参考/www.fashionsnap.com +2)
Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between(川久保玲/コム デ ギャルソン/間の芸)
今シーズンは先シーズンに増して、何よりも当のデザイナー自身が楽しんでコレクションに携わったであろうと感じられた。
このデザイナーがこのような発表会形式でショーを行ったこととは、
「新しい時代の、新しいモードの立ち居場所」へ挑戦したことであり、
何よりもこのデザイナーに僕が感じた功績と光である。
以後、この現実性を見抜き始めたモードの世界のビッグメゾンはM.H.L.V.やPinoグループなどが独自の「ファンデーション」を持つまでにモードが
アートの世界へ近ずく、新たな在り方へと変革もさせた。
このファッションビジネスの変革自体が、このメゾンが成し得た最近の
モードの世界の「大きな創造」であり変化であることを忘れないでおこう。
『チネチッタで見慣れた仕草がランウエーを動き出す。』
あの、F.フェリーニの代表作「道」の、ニノロータのテーマ曲で
今シーズンの”川久保玲作品発表会“は始まった。
チネチッタで見慣れた仕草がランウエーを動き出す。
二つの照明什器が静かに引き上げられる。
すると、ファーストルックが。全身白で装った黒人のマヌカンが
ゆっくりと歩み始める。まるで”過去という妄想”を引きずるかのように、
これは長い間見せていただいて来たパリ・コレクションにおいても
このメゾンでは初めてのキャスティングである。窓は開かれた!!
強い感動と共に素晴らしい、オープニングであった。
これも,川久保玲の特技の一つであろう、上手い!
『とっても失礼な思いだったが、思わず、食べたくなった。』
今回の川久保玲のコレクションは無垢さとチャーミングさ
それに大胆な美しさを見事に自分の創造世界の中でポジティフに展開した。
変わらず、自分の好きなエレメントは継続して居る。
それらに加えて、今回は幾つかの今までに見せなかった手法を魅せてくれた。今回の”source of the image”はトレンドの一つである「レイアード」を彼女の世界観へ引き込み、自らの美意識と過去への想いも込めてポジティフな世界観を構築した。
ボンディングやキルティングを「未完の状態」で自分の素材とした事。
そこへヴィンテージ下着やヴィンテージニットを加えるという手法。
このヴィンテージにそれなりの、彼女なりの想いがコードとして感じられ読める。魅せたかったのはそのエッジとボリュームのバランス感の変わらぬ美しさであったであろう。
僕が一番気に入って好きだったのは、白を基調としたレイアードの中から見え隠れするいくつかの色彩あるうす布があの“ミルフィーユ構造”の
シンプルな構築の中に、多くの布をレアードされたそのエッジの美しさと
チャーミングな少女的はじらひを造形したアウトフィットだった。
とっても失礼な思いだったが、思わず、食べたくなった。
(ある日、ローズベーカリーへ行くとこの”ミルフィーユ・れい“が食べられる。そんな妄想まで、)
『川久保玲の「はにかみ」と言う女らしさを妄想してしまうまでに、』
だが、少し時間を置いて想いおこすと、女の表層としての面と内面が
エッジに現れ見え隠れする”うす布の僅かな色彩”にこのクリエーター、
川久保玲の「はにかみ」と言う女らしさを想った。
この「はにかみ」というこゝろの有り様はやはり、日本人が持っている
特異性であり、人間としてのチャーミングさでもあろう。
そして、隠されている美しさがあるからこそ、こゝろ魅かれる。
ここには日本人でしか理解できないこゝろの有り様の一つに、
「情緒をひとしをに深くする」という美意識があった事も思い出す。
そして、かつては多分、このデザイナーはこのような内面性を自身で
語ること自体が「はにかみ」であったであろう。
こんなところにもこの川久保玲のメタモルフォーゼを感じ、共有出来たことに喜びを覚えた。
『そのプレス手引書の今回のテーマが「camp」だと言う。』
このメゾンのプレス担当が対プレス関係者へ「今回の川久保は、」的な
手引書的な文章を出しているようだが、僕は未だ、貰ったことがない。
ということは、僕は彼ら達が括るプレス対象者ではないのである。
これも、僕の立ち居場所をよく理解されての対処であろう。
そして、そのプレス手引書の今回のテーマが「CAMP」だと言う。
そこで僕が思い出したのは、S.ソンタグ。あるいは、古いハリウッド映画「coach 22」。
それにしてもやはり、このコードとしての「CAMP」は僕たち世代の
ボキャブラリィーだ。
例のウキペディアでこの「CAMP」を引くとすぐさまそれなりの教養が
入手できる白人的解説が学習できる。あくまで、西洋哲学と西洋美意識の
範疇によって60年代にコード化されたボキャブラリィーでしかない。
ここには日本人特有の“湿り”から生まれた哲学と美意識は皆無である。
ちなみに、「バロックやキッチュ」はドイツ美學から生まれた様式である。
しかし、「CAMP」は戦後のアメリカで生まれたボキャブラリィーである。
ここにも僕は残念ながら、今だに「外国コンプレックス」或いは、
「白人コンプレックス」がむやみに横行している様しか見ることが出来ず、非常に悔しい。
『多分、このようなプレス対応のシナリオは白人が考えるのだろう。』
当然であるが、海外のプレスやバイヤーたちに理解してもらいたいという
役割があるからだ。
悪く思えば、そのついでに日本人プレスたちへも、このように読み込んで欲しい。そしてどうせ、あなたたちは「カワイイ!!」「スゴイ!!!」しか言えないだろう。という目線も隠せない。
しかし、現実的には、この幼稚すぎる日本人的眼差しがこのブランドを
育て、愛して来た40年ほどであった事も忘れないでいよう。
日本マーケットのバックアップがなければ、いまの川久保玲の存在も
このブランドの立ち居場所もないのであるから僕たちはもっと、自信を
持って、僕たちの美意識と感覚とそこからのボキャブラリィーで
”川久保玲作品発表会“を見てあげ、報じてあげなければならない。
貰った、”虎の巻“をリライトすることが記者やジャーナリストと自称する輩の仕事ではないはずだ。
『「キッチュ」という香辛料は既に、今シーズンのメインコンセプト!』
昨シーズンの”川久保玲作品発表会“は「キッチュ・ジャポネズムズム」が僕のタイトルだった。この時もトレンドを意識し、時代を先取りしていた。
そして、この「キッチュ」という香辛料は既に、今シーズンのある意味でメインコンセプトになった。
当然、このような全く新しいものが必要なくなって来た時代性の元での
クリアティヴィティとはやはり、”足し算の世界”へ走る。
この足し算そのものの趣味性あるいは、悪趣味が「キッチュ」である。
全てが「真実っぽさというフェイク」で満たされ始めた現代という時代。
そんな時代の存在象徴がトランプであり彼の向こうを張って、ゲームに付き合っているのが北朝鮮の金正恩である。
このような、在るようで無いリアリティな時代性の最中のモードの世界もここでは、バロック、キッチュと続けば、今後の流れはどのようになる?
という予測的眼差しが読める。
その西洋的、黒人的、ヴァニティ的「悪趣味」がこれからのモードの世界を覆う”流行り病”であり、大変な騒々しい、ケバケバしい時代になろう。
『玄関ドアーは重いドアであっても、最近の彼女は窓を開けている。』
”川久保玲作品発表会“で見せていただける作風が全くポジティフに、
彼女のこゝろかわりに接しられること、見られることは僕もハッピーな
人生である。
例え、玄関ドアーは重いドアであっても、最近の彼女は窓を開けているからだ。
ここにモードの世界も時代が”メビオスの輪”のように根拠あるものを
リンクする風景を見せてくれるのが面白く、傍観し続けて来たのが
巴里における現在までの僕の立ち居場所でしかない。
「ありがとう、川久保様。いつも好奇心を揺さぶるまでのエネジーを‼️」
文責/平川武治。パリ市ピクピィス通りにて、
初稿;平成30年3月06日。
