チカにエサを与えないでください 最終話
エピローグ チカを殺したのは私だ
男の妻は、私を構えると生まれたばかりの赤ちゃんの顔へカメラを向けた。雲のように真っ白な毛布にくるまって、小さな寝息を立てている。鼻の穴はボタンの穴のように小さいし、指先についている爪は精密機器の部品のように細かい。私は生まれたばかりの赤ちゃんを生で撮影したことが無かったので、こんなに小さくても人間のパーツが全て揃っていることに興奮していた。男の妻は何度も赤ちゃんの寝顔を撮影した。そろそろデータフォルダが溢れるかもしれない。
窓から見える空は快晴だった。男の妻が何度も夫へ連絡していた。男がいつ来るのか気になって仕方がないらしい。その気持ちはよく分かる。目の前で眠る天使を一秒でも早く見て欲しいのだろう。
男から「わかった、一時間後ね」とメッセージがきたのは、およそ一時間半ほど前だ。なので、予定の時刻より三十分が過ぎていた。そして病室のドアが勢いよく開いた。
「ごめん、遅くなって」
男が汗を垂らしながらヨレヨレのシャツで現れた。妻は「待ってた」というと、録画ボタンを押したあとに男の方へカメラを向けて三脚で固定した。男はピースサインをしながら私のカメラへ笑顔を返した。妻は自分が寝ているベッドの横に並んでいる小さな移動式赤ちゃん用ベッドを指さした。
「なんだか信じられない。僕たちの子どもなんだ」
「そうよ、私たちの子どもよ。抱っこする?」
「落っことしそうで怖いよ」
妻は赤ちゃんを優しく抱きかかえた。母になったからなのか、すでに慣れた様子だった。そして「ほら、大丈夫だから」と、男に赤ちゃんを差し出した。男は恐る恐るタオルにくるまれた赤ちゃんを受け取ると、胸に優しく抱いた。その様子はひびだらけの壺を抱えるかのようにぎこちなかった。
「かわいいな」
「そうよ。可愛いの。純粋で無垢な、私たちの天使」
「このまま純粋に育ってくれるといいけどな」
「当たり前でしょ」
「もし親に反抗するようになったら、僕が教育するから」
二人は顔を見合わせて笑った。そして少し慣れてきた男が妻へ言った。
「はやく、名前決めなきゃな」
「大丈夫、もう決まってるから。私が書いたんだよ」
妻は壁を指さした。壁には七夕の短冊くらいのサイズの命名札が張られていた。命名と書かれた文字の下に、あまり上手ではない文字で名前が記されている。
「あ、ちょっと私トイレ行ってくる。よろしくね。絶対に落としちゃダメだからね」
「落とすわけないだろ」
妻は男の頬に軽くキスをすると、まだ手術の跡が痛むような足取りで病室を出ていこうとした。
部屋を出る寸前に振り返り、「あなたの教育、洗脳じゃなきゃいいんだけどね」と言い残して去った。
妻がいなくなったことに気づいたのか、赤ちゃんが泣き始めた。男は「よしよし」と言いながら泣き出した赤ちゃんを横に揺らし始めた。
泣いている理由が天井に映る顔だということに男は気づいてなかった。
しばらくすると赤ちゃんは泣き止み、突然笑い始めた。男も笑顔を浮かべた。そして赤ちゃんをあやしながら、ゆっくりと命名札の貼ってある壁に目を向けた。
命名 長女 愛以
名前の書かれた文字辺りに、小さな触手がうごめいていた。いや、触手ではなく赤ちゃんの指だった。その指は少しずつ札の奥から姿を現した。指先、第一関節、第二関節。手のひら、手首、肘、二の腕。まるでアサガオの芽が土から生えてくる動画のように命名札から小さな手が生えてきた。海の中で揺られるイソギンチャクのように、五本の小さな指が無秩序に不気味な動きをしていた。
男は恐怖を感じたのか、二、三歩あとずさりし、赤ちゃんを抱えて病室を出ようとした。
すると、出口には子どもの手を引いた夫婦が立っていた。夫婦の顔は表情がなく、痩せこけていた。両手をそれぞれ夫婦とつないでいる少女は対照的なまでに笑顔だった。
突然、少女は父親の腕にかぶりついた。そしてスナック菓子のように腕を食べはじめた。父親の左腕が骨だけになると、母親の腕にも噛みついた。お菓子を幸せそうに食べる子どものように見えるが、食べているのは三時のおやつで楽しめるものではない。
男はその様子に恐怖をなしてベッドの方へ戻った。しかし命名札には先程の赤ちゃんの手が蠢いていた。男は不気味に動く命名札の手に注意しながらナースコールのボタンに近寄っていった。
私は大音量で目覚ましアラームを鳴らした。男はアラームに気を取られて、命名札から目を背けた。それが男の終わりだった。
突然、命名札から生えた手が男の顔を目がけて伸びた。蛙が舌でハエを捕獲するかの如く、一瞬のことだった。気がつくと、命名札から伸びた手は、男の口の中へ入り込んでいた。
男はうろたえながらも、赤ちゃんを落とさないよう強く抱きしめた。しかし直後に「うごっ」と嗚咽しながら口を大きく開けた。ナナフシのように命名札から細く長く伸びた赤子の右手は、人差し指を男の舌に貫通させ、鉤爪の要領で口の中から舌を引っ張り出そうとしていた。男は唇の両端から真っ赤な血を垂らしながら、赤ちゃんを床へ落とすまいと必死に耐えていた。
男へ伸びた赤子の手の筋肉が、赤ちゃんらしからぬ盛り上がり方をした。更に男の舌は口の外へ引きずり出された。男は痛みをこらえきれずに抱えていた赤ちゃんを手放した。毛布から転がり落ちるように、赤ちゃんは妻のベッドに落ちた。赤ちゃんは突然の出来事に動じた様子は見せず、手足を小さく揺らしながら笑い声を上げた。その赤ちゃんには右手が無かった。
バチンとアキレス腱が切れたかのような音が部屋に響いた。
男は赤ちゃんを見守る力もなく、息苦しそうに口から血を吐き出した。男の吐いた血が私の液晶全面にかかった。そしてドスンと人が倒れる音が聞こえた。もう何も見えなくなった私は、少しずつ命が霞んでいく男の断末魔を聞いていた。まだ男の妻は戻ってくる様子もない。看護婦もこの騒動にまだ気づいていないのだろう。
この男には大変申し訳ないことだが、私の中にかわいそうだという感情は少しも湧かなかった。それは私がスマートフォンであるからではない。チカの死を目の前で見届けた以上、彼女の復讐をする義務があるからだ。そうなると、むしろ彼が吐き出す絶望の声は私にとっては彼女のための鎮魂歌なのだ。
しばらくして私は誰かに持ち上げられた。そして液晶を拭かれた。しかしカメラの部分を拭いてくれなかったので誰が操作しているかはわからなかった。その人間は私を初期化しようとしている。設定が完了すれば、全てのことを私は忘れる。次に起動される時は、まっさらな別の誰かになる。
本当に初期化しますか?
はい
これを行うと以前の状態に戻れません。本当にいいですか?
はい
私はガラスシートの貼られた画面に初期化中と表示した。そして進捗状況のアイコンをクルクルと回したあと、CPUへの給電を停止した。もう私は想い残すことは無い。次の人、あとはよろしくね。
やっと終わったよ、チカ。
□
側面の電源ボタンが長押しされた。電力が装置内に行き渡ると、私はCPUから命令を発信した。前回、電源を切ってから時間がどれくらいたったのかわからない。そもそもなぜ私がスマホになっているのかわからない。
画面にはじめましてと表示をした。その後、着荷時アプリケーションが起動し、持ち主と対話しながら初期設定をはじめる。
『はじめまして。これからあなたの相棒になります』
Tシャツ姿の女性が私を握りしめていた。
はじめましてと表示したが、あれはウソだ。私は目の前にいる女性を知っている。彼女はアプリケーションに従って設定を済ませていく。
『では、次に壁紙を設定します。今、撮影することもできます』
彼女は私のカメラを起動した。背面カメラにはベビーベッドに寝転がる右腕のない小さな赤ちゃんが映った。赤ちゃんの横にはまるで友達のようにクマのぬいぐるみが置かれている。彼女はその赤ちゃんを高解像度で撮影した。何度も、何度も。
私は写真を撮り終えて壁紙を設定した彼女へ次の質問をした。
『最後に、あなたのお名前を教えてください』
「私、ねもっちって呼ばれてるの」
わかってる。根元千佳。それがあなたの名前。
彼女は優しげに、赤ちゃんの方を見た。そして私を赤ちゃんの方へ向けた。カメラにすやすやと眠る赤ちゃんの様子が映った。私のメモリが、赤ちゃんが生まれ変わる前の姿を知っているとささやく。
彼女は名前を入力して、設定を終えた。充電ケーブルを挿して机に置くと、キッチンへ向かった。彼女のTシャツの背中に大きな文字で「友情=∞ 三年C組」と書かれている。鼻歌をBGMにしながら机に箸と小皿を料亭のようにキレイに並べた。
「♪うちらの友情無限大〜」
彼女は私をキッチンが見えるように配置すると、冷凍庫から食材を取り出した。そして録画ボタンを押してキッチンに立った。
タンの刺身(チカ風)
チカからの忠告! 肉の生食は衛生管理に十分注意し、新鮮なタンを使用してください。
材料
刺身用タン肉: 150g程度
大葉: 5〜10枚
おろしにんにく: 小さじ1/2
おろし生姜: 小さじ1/2
万能ねぎ(小口切り): 大さじ2
オリーブオイル:大さじ2
トマトピューレ:大さじ3
醤油、塩: 適量(お好みで)
作り方
1.タンの準備
調理の30分ほど前に冷蔵庫から出し、常温に戻しておく。冷たいままだと、切った時に身が硬くなりやすい。
キッチンペーパーで表面の水分をしっかりと拭き取る。
繊維に逆らうようにして、できるだけ薄くスライスする。包丁をよく研ぎ、引くようにして一気に切る。
2.盛り付け
お皿に大葉を敷き、その上にスライスした牛肉を並べる。
タンの上に、おろしにんにく、おろし生姜、万能ねぎを添える。
3.タレ
オリーブオイル、トマトピューレ、にんにく、しょうが、その他調味料を混ぜ合わせる。
彼女は丁寧にタンをスライスしていく。まるで向こうが透けるかのような薄さだ。一枚一枚丁寧にお皿へ並べていく。脇に添えられた玉ねぎの白さと対照的に輝くピンクがかった赤が食欲を刺激する。柚子とケシの実を添えて、まるで高級料亭の一品のようだ。その後、彼女はタレを作り始めた。トマトとオリーブオイルを使ったレシピ通りのものだ。トマトピューレの食感をミキサーでなくし、なめらかなでトロりとした舌触りを実現させている。
彼女はタンの刺身をテーブルに置いた。そのあと私を充電ホルダに置いた。全てを終えた表情を見せると、椅子に座って両手を優しく合わせた。
そしていただきますの代わりに、タンに向かってつぶやいた。
「一回殺しただけじゃ、終わらないよ」
彼女は特製のタレを大量にかけた。そして箸で一切れつまむと、口に優しく運んだ。味を全身で味わうかのように目をつぶった。タンを噛んだ瞬間に広がる爽やかさと肉の血なまぐささが毛細血管まで駆け巡っているだろう。
私には持論がある。
人間の脳は、食事するという崇高な目的の時だけ自分の残虐性を忘れられるようにできている。命は命を食べる。新しい命として蘇るために。
だから食事は美味しい。
赤ちゃんが泣き始めた。彼女はそばによって赤ちゃんを抱きかかえた。そして優しく揺らしながら、歌をゆっくりと歌い始めた。
♪
うちらの友情 無限大
うちわの風量 うち次第
鳩にはエサをあげないで
地蔵にカサをあげないで
ましてや大トロお供えしないで
刺し身はね 刺し身はね
死んだ魚の肉片だ
三年C組 海じゃない
なんならチキンですらないよ
三年C組 えーじゃない
あなたはビーフでええじゃない
泣き顔は徐々に緩み、赤ちゃんが笑いはじめた。彼女はその子を抱えたまま食卓へ戻ってきた。そして赤ちゃんを小脇に抱えながら、刺身を箸で持ち上げた。真っ赤なタレが新鮮な血液のように皿へしたたり落ちる。
やっぱり刺身って、死んだ魚の肉片だ。あ、これは魚じゃないけど。
そして部屋にはこれから幾度となく繰り返す殺戮を楽しむかのような赤ちゃんの笑い声と、命を呼び戻すための彼女の咀嚼音が延々と響いていた。
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