Charity
Charityというタイトルのバトンを受け取ってみました。
深い理由はなくて、なんとなく書いてみたかったのです。
チャリティという言葉は、慈善事業や慈善行為という意味だそうです。
これを聞いて最初に思い浮かんだのは、よくいくインドのことと、オーラソーマのボトル36番「Charity」のことでした。
インドは発展著しくて、そこここにあったスラム街や道端で生活する人たちは、一見すると減っているようですが、より一層身を潜めた形で
存在しているように思います。発展というのもこの20年?30年?のことだと思うので、その前のインドの歴史5000年に比べたら、ほんの一瞬の出来事で、まばたき一つの瞬間にすぎません。
観光地や都市の片隅では、5分か10分も歩けば必ず物乞いがついてきます。
日本ではホームレスがいたとしても、しつこく付き纏われるという経験はないので、こんな時どうするのが正しいのか、途方に暮れてしまいます。
ある時、あれはタイのチェンマイでのことでしたが、インドのナーガランドという地方出身の、スパマネージャーの女性とサンデーマーケットに出かけた時のことです。彼女は小銭をたくさん持ち歩いて、ほぼ10メートルおきに並ぶ(あの人たちを物乞いと呼んでいいかどうかはわかりません。インドと違って彼らは自分の前に置いたお皿や缶にお金を入れてもらうのを待っているだけなので。)
その人たちの缶に少しずつお金を入れて歩くのです。
「こんなにたくさん物乞いの人がいて、毎回お金を渡していたら、だいぶな散財にならないの?」
と、間抜け顔で尋ねる私に彼女は、「これは仏陀へのお布施なんだよ。あげたら私にも良いことが返ってくるかもしれないしね!」と言いました。
それから私も彼女に倣い、小銭を入れて歩くようになったのです。
発展著しいインドでは、小銭を出すと不満げな顔に「けち!」という二文字が浮かんで来るのがみて取れます。
先日は帰国直前で現金を使い果たして空っぽのお財布のまま道を歩いていると、小学1年生ぐらいの男の子が施しを求めて付き纏って来るのには本当に参りました。
「ごめん、私現金を持っていないんだよ」何度言っても通じている気配はありません。なんだか周りの屋台の人の視線も私に「けち!」と言っているように感じたものです。
俯瞰して見れば、その人にとってもっとも必要なことはなんだろうか?と考えると、お金を恵むことだけが決して良いわけではありません。
それを知った上でも、目の前の人に対して、今の自分にできることは何か?ということを考えさせられます。
牛と荷車、自転車とリキシャ、車とバイクが渾然一体となって道を占拠する国と、整然と交通規則が適用される国では、常識もまた違うのが当たり前なのです。
もちろん、物乞いの後ろには必ずマフィアの影あり、結構残酷な現実があるような話も聞くことがあるし、実際そうなのかもしれません。
善意を搾取されるのは気持ちがいいものではないけれど、目の前で困っていたり、お腹を空かせている人がいるというのは紛れもない事実です。
背後にありそうなことは、噂、ただの情報で、真実かどうかもわからないのです。
私たち日本人は、身近で困っている人を見ても、どう向き合って良いのかわからないってことがほとんどじゃないかと思います。
社会システムが悪いのだと言ったところで、私たち日本人は社会運動に参加することすら躊躇うような人は多いだろうし、目の前のお腹を空かせた人のお腹が膨らむわけでもありません。
それなら、と、どこかの団体に寄付をしたところで、本当に困っている人たちのところに届くのかどうか、疑っている人も多いでしょう。
インドでは昔の王様が建てた壮麗な寺院や建造物が世界遺産となっていて、それはもう見事なものです。
でもその隣の城下に広がる街では、商人たちの活気に満ちたやり取りの隣で、寝るところすらない病気や障害を持った子供や大人が、虚な目をして路上で横たわっています。
ああ、これが仏陀が見た光景で、仏陀生誕後2500年も変わることなく繰り広げられている人間の心の有りようを表している光景なのだと得心が生きます。仏陀は自分の豪勢な生活の隣で繰り広げられる生老病死の物語から自分を遠ざけるのではなく、仏陀は苦しんでいる人に対して、王族として施しを与えるよりも、世界はどうなっているのか?私たちの魂は何処から来て何処へ行くのか、宇宙の構図はどうなっているのか?を考える方を選んだのかもしれません。
慈善事業をしている人たちや、ヒーラーなど、時に一般人よりもさらに深い業を持っているのだと言った人がいました。
そうかもしれません。世界をより良いものにしようと努力する影に隠れた傲慢な自分自身を見ずして、本当のChalityはできないのかもしれません。
キリスト教など、特定の宗教を持つ国では、Charityに関する考え方は、人格形成される幼児期から慣れ親しんだものがありそうですが、
宗教を持たない多くの私たち日本人にとって、慈善活動は他の誰かがやることで、自分ごとではありません。私個人は、日本には宗教がないということも、今の日本の、信仰の基盤としてのスピリチュアルを作っているし、科学的であることもまた、同じく一つの宗教じゃないかと思っています。
ほとんどの人たちは、「誰かの役に立ちたい」という利他の思いから行動を起こしていることの方が多いと思います。特に主婦という職業は、家族のために人生の全てを捧げているんじゃないかと思うほどに、尊い職業だと思います。だけど、誰かのために生きるその前に、自分自身の幸せのために生きなければ、誰かの役に立つことはできません。
自利的であることが究極の形を作った時に、利他が現れるんじゃないのかと思うんです。オーラソーマの36番は、そんなことを表してるいると個人的には思うのです
なんと言ってもオーラソーマも仏教も、自分なりに取り組んだとはいえ、ちゃんと勉強したことはないので、自分の勝手な解釈なんですけどね。
まあ、なんであれ私たちのように対人援助職の片隅にいるものにとって、慈善や慈悲について、いつだってちゃんと向き合っていかなきゃならないことなんだと思うのでした。
Love♡
Tarika
この記事はギネスリレーのバトンをいただいて、書いてみました。
企画をご紹介いただいたのはこちらの方です。参加させていただけたことに感謝♡
月盛さんからバトンをいただきました。ありがとうございます!

ChatGPTのエッセイに対する見解
Q
「エッセイにフィクションの小説や反転音楽まで入れ込むことは包括することは可能ですか?」
A
『エッセイの本質:自由な表現』
エッセイは本来、筆者の思索や感情、経験を自由に表現する場 です。そのため、他のジャンル(小説や音楽など)の要素を取り入れることに何ら制限はありません。小説的要素(フィクション)
物語風のエピソードや架空の登場人物を使って、自分の思想やメッセージを伝えることは可能。
例:「こんな未来が訪れたら」という仮想シナリオを通して現実社会を批評する。
村上春樹のエッセイには、物語風の展開が時折見られる。
音楽的要素(反転音楽など)
エッセイの中に音楽に関する深い考察や自作の歌詞を挿入することもできる。
反転音楽の哲学やその美学を文章で表現し、読者に新しい視点を提供することも可能。
音楽を言葉に翻訳し、言葉を音楽のようにリズミカルに配置する文体も試みることができる
