親と子は「他人」
親と子は「他人」だ。私はずっとそう思ってきた。「他人」というと冷たい響きがあるかもしれない。でも「他の人」と言い換えてみれば、少しは伝わるだろうか。たとえ血が繋がっていても、親と子は決して「同じ人」ではない。別々の人間なのだ。それは当たり前のことだと思う。だから「子どもの考えていることが判らない」とか「親の言っていることが子どもに伝わらない」と嘆く親を見かけるたび、私は不思議な気持ちになる。他人の考えが判らないのは当然だし、なぜ伝わらないのか、とそもそも問うこと自体が傲慢で、ただのエゴなのではないか。私は自分の親に対してそう思っていた。だから、子どもに対してもそう思って接してきた。
もちろん世話はしなければならないし、仲良くはしたかった。だから私は生まれたときから、子どもを「親友」として接することにした。この選択は、私自身にとって正解だったと思っている。子どもを親友として接する一番のメリットは、子どもを客観視できることだ。子どもも色々なことを学んで大きくなり、小学校高学年くらいになると、その発言や行動に「そういう考え方があるんだ。面白いな」と素直に思えることが増えてきた。倫理的にも社会的にも道徳的にも問題なければ、私の考えとは違っていても、面白ければそれでいい。何より本人の意志を尊重しようと思っていた。親としての立場や義務感からすると、心配が先に立って、つい先回りして否定的なことを言いたくなる。でも、もしこれが親友の挑戦なら、迷わず応援するだろう。そう思うようにした。
その最たるものが、我が家の場合、中学受験と医学部受験、そして大学での一人暮らしだった。どれも私には未経験のことだった。未経験ということは、つまり未知だということだ。調べれば情報は出てくるが、それは経験ではない。未知のものに立ち向かう不安は子どもだけではなく、種類は違えど、親も同じなのだ。そのときに親は楽観視してはいけないが、それ以上に不安を感じてしまっては絶対にいけない。
親の不安や過度の期待は、子どもに伝わり、ただのプレッシャーにしかならないからだ。
ここでも「親友」としての目線が役に立った。親友であれば心配や過度の期待ではなく「頑張る親友を応援しよう。できることは親友としてサポートしよう。話を聞いてあげよう」の距離感で自然に思える。もちろん子ども本人の性格や、やる気、メンタルによって違うのかもしれない。でも我が子にとっては、このくらいの距離感が良かったのだと思う。そして進んでいく過程も、結果が出たときも、一緒になって感情を出す。私にとっても未知が少しずつ既知になっていく感覚は、人生の楽しみの一つだった。それは幸せなことだと、今更ながらに思う。
もし親子の関係性や距離感で悩んでいる人がいるなら、一度、自分の一番の親友だと思って子どもと接してみてほしい。気負いや力が抜けて、いい関係が築けるかもしれない。少なくとも私には、そうだった。
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