#70 春巻きの皮と、気まぐれな具材たち
春巻きは不思議な食べものだと思う。
ぱりっとした皮のむこうから、
なにがあらわれるか。
その小さなわくわくは、
食卓にのぼるたび、
いつだってちょっとした
お祭りみたいにうれしい。
もちろん、揚げたての
茶色い衣をまとった、
王道の春巻きも大好きだ。
中華料理屋さんの
ぶ厚いメニューのなかで、
その文字を見つけると、
無意識のうちに指がそこへ
引き寄せられてしまう。
とろりとした餡に、豚肉、
たけのこ、椎茸、春雨。
きつね色にきれいに揚がったそれを、
ハフハフいいながら噛みしめるとき、
私たちはどこか圧倒的な
安心感のようなものを味わっている。
あの、ちゃんとした春巻きのもつ
気高さも、たまらなく愛おしい。
けれど、うちの台所で
最近よく作っているのは、
それとは少しちがう、
もっと気まぐれで、軽やかな春巻きだ。
夕暮れどき、少しだけ疲れて
帰ってきた日や、
台所に立つのが億劫な夜。
そんなときでも、
この春巻きのことだけは
不思議と億劫にならない。
作り方はとても単純だ。
まず、四角い春巻きの皮を、
まな板の上に一枚とりだす。
それを包丁でスパッと半分に切る。
これだけで、サイズは一気にミニになる。普通の大きさのものよりも、
ひとまわり小さくて、
手の中ですっぽりとおさまるくらいの
可愛らしい三角形、
あるいは長方形ができる。
この小ささが、なんだか
今の気分にちょうどいい。
なかにいれるのは、決まってこれだ。
椎茸。ピーマン。
それから、塩昆布。
特別な調味料はいらない。
コンソメも、中華だしも、
醤油の瓶さえ棚からおろさなくていい。
椎茸は、軸を落として、薄く、
なめらかにスライスする。
あの独特の、森のなかにいるような
深い香りが、包丁を入れるたびに
ふわりと立ちのぼる。
ピーマンは、鮮やかな緑色のまま、
細切りにする。
種を取り除いたあとの断面は、
きゅっと引き締まっていて、
みずみずしい。
そして、塩昆布。
黒光りするその一本一本に、
うまみの結晶がぎゅっと詰まっている。
切り分けた小さな皮の上に、
それぞれの食材を
ただそのままのせていく。
ボウルを汚す手間もないから、
まな板の上は驚くほど静かで、
心もちも軽やかだ。
水分が多いと皮がふやけてしまうから、
とろみをつけるのが定番の春巻きだけど、この家のお手製ミニ春巻きには、
そんなルールは通用しない。
わあらかじめ餡をつくらなくていい。
だから、準備の時間はほんのわずかだ。
なかにいれるものは、
本当になんでもいい。
冷蔵庫の奥で、次の出番を
ひっそりと待っている野菜の切れ端や、
昨日の残りのような食材でも、
この組み合わせなら不思議と
すんなり受け入れてくれる。
ピーマンの代わりにパプリカを
いれてもいいし、
椎茸をしめじに変えてもいい。
なんでも入れて、おいしくなる。
その懐の深さが好きだ。
小さな皮の上に、椎茸と、
緑色のピーマンと、
黒い塩昆布をそのままのせていく。
色のコントラストが、
包む前のまな板の上ですでに愛らしい。
皮のふちに水溶き小麦粉を
塗るような手間も、今回は必要ない。
糊付けなんてしなくても大丈夫。
空気を抱きこまないように、
でも窮屈になりすぎないように、
くるくると巻き上げていく。
そして、巻き終わったそれらを、
そのままの合わせ目を
下にしてフライパンに並べていく。
不思議なことに、
糊付けをしていなくても、
巻き終わりを下にして
そっと油の中に置けば、
皮がほどけてしまうことはない。
お行儀よく並んだ小さな姿を
見つめているだけで、なんだか少し、
優しい気持ちになれる。
ポイントは、火の通し方にある。
生の状態の具材を
そのまま包んでいるから、
中身にもちゃんと熱を、
それもじっくりと
通してあげなくてはいけない。
強火で一気に揚げてしまうと、
外側の皮だけが焦げて、
なかのピーマンがまだ
青臭いままになってしまう。
それではもったいない。
だから、フライパンには
ほんの少しの油を注ぐ。
たっぷりの油で揚げるというよりは、
浅い油で「揚げ焼き」にする、
という表現が近いかもしれない。
火加減は、ずっと弱火。
ジュー、と、フライパンの底から、
小さな気泡のあがる音が聞こえてくる。
その音は、静かな部屋のなかで
聴いていると、まるで小さな雨粒が
窓をたたく音のようにも思えてくる。
油のなかで、白い春巻きの皮が、
少しずつ、ゆっくりと、
美味しそうな色に染まっていく。
最初は白かった表面が、
淡いクリーム色になり、
それから、うすいきつね色へ。
香ばしい匂いが、
台所の空気をふんわりと満たしていく。
椎茸の香りと、油で少しだけ
火が通ったピーマンの青い香りが
混ざり合って、おなかの底を
心地よく刺激する。
箸を使って、そっと裏返す。
ひっくり返した面の皮は、
きつね色のレースをまとったみたいに、
パリパリとした
美しい質感をたたえている。
じっくりと、時間をかけて、
中の具材の水分と香りを引き出すように。
あわてず、騒がず、
ただ油の音に耳を澄ませながら、
その変化を眺めている時間が好きだ。
料理というよりは、
ひとつの静かな儀式のような、
そんな気持になる。
きつね色のグラデーションが
全体に行き渡ったら、
そっと油から引き上げる。
網の上で、余分な油が
スーッと落ちていく。
その瞬間、パリッ、という乾いた音が、
静かに響く。
お気に入りの白いお皿に、
そのミニ春巻きをいくつか盛る。
特別なソースも、レモンも、
からしも、いらない。
そのままで、じゅうぶん味がある。
塩昆布の塩気が、
椎茸のうまみをこれでもかと引き出し、
ピーマンのほろ苦さを
優しく包み込んでいるからだ。
テーブルにつき、箸でひとつまみ、
持ち上げる。
まだ湯気のあがるそれを、
そっとかじってみる。
サクッ。
耳に心地いい音がして、
香ばしい皮が軽やかにほどける。
その瞬間、熱を帯びた
椎茸の深い香りと、
ピーマンのシャキッとした食感が、
口いっぱいに広がる。
塩昆布のうまみがじんわりと
染み出してきて、
すべてが絶妙なバランスで
ひとつに溶け合う。
そして、この小ささだからこそ、
ひとくちでぱくりと食べられる
気楽さがある。
ただそれだけのことが、
どうしようもなく愛おしい。
手の込んだ料理よりも、
誰かと囲む賑やかな食卓よりも、
夜の静けさのなかで一人、
この小さな春巻きを頬張る時間が、
今の私にはとてもよく似合う気がする。
これからも、色々な具材で挑戦したい。
冷蔵庫のなかに眠る思いがけない
食材たちを、この小さな皮で
包み込んで、また新しい味に
出会いたい。
春巻きの皮さえあれば、
夜の台所はいつだって、
小さな冒険の舞台になる。
明日は、なにを包んでみようか。
そんなことを考えながら、
最後の一本を口に運び、
お皿に残ったパリパリの小さな破片を、
名残惜しそうに指先でつまんだ。
今日も最後まで読んでくださって
本当にありがとうございます。
ぜひ食べてみてくださいね。
また、お会いしましょう。
