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「伸ばされた手」に隠された22/7の哲学とは何か?

22/7の振付にしばしば登場する「手を前に伸ばす」ポーズ。これは単なる動作以上に、サルトルやメルロ=ポンティ、西田幾多郎ら哲学者の視点から「欲望・身体と世界の共鳴・行為的直観」といった多層的な意味を読み解くことができる。


ナナニジのダンスに潜む哲学

22/7(ナナニジ)の楽曲には一定の方向性が見える。いくつかの楽曲に伸ばされた手をとりいれたダンスが数多くあるところに面白みがある。そのポーズは、哲学的にどのような意味が含まれているか探ってみたい。

ダンスにおける呼び方

片手を前に伸ばす動作は、ジャンルごとに呼び名が異なってくる。

コンテンポラリー / モダンダンス
「リーチ(reach)」の一部で、特に片腕で行う場合は「シングルリーチ」と呼ぶこともある。感情表現の強調によく使われる。

ジャズ・ストリート系
片腕をまっすぐ前に出す動作は「ポイント(point)」「リーチアウト(reach out)」などと呼ばれることが多いという。

つまり、片手であっても一般的には 「リーチ(片手のリーチ)」 が近い表現となる。


身体表現としての哲学的意味

22/7の振付、とりわけ 「手を前に伸ばす」「掌を広げる」 というポーズを哲学的に読み解くと、いくつかの層で意味が見えてくる。

サルトル的解釈
前へ伸ばす手は「届かないものを求める存在の投企」を表している。握りしめずに開いた掌は、「まだ所有できていない=欠如を抱えた存在」の象徴となる。したがって、 「自分には届かない未来」や「他者との距離」を描き出す動きと解釈できるわけである。

メルロ=ポンティ的解釈
身体を通して世界に触れようとする「生きられた身体の意図」を表したものとなる。ダンサーが一斉に同じ方向に手を伸ばすのは、単なる模倣ではなく「身体を通じた世界との共鳴」を可視化していえる。

西田幾多郎的解釈
「手を伸ばす」こと自体が「行為的直観」であり、思考以前に身体が世界と一体化する動作となる。特に群舞で一斉に行われると、個の動きが「絶対無」の場における一つの相として重なり合い、自己と世界の境界が溶けていく表現にも見える。

集団性と哲学

個々のメンバーが同じ動きをすることは「主体の消去」でもある。しかし同時に、全員が同じ方向へ掌を差し出すことで「多様な自己が一つの場で共振している」ことを示している。

これは西田的に言えば「場所的論理(自己が自己を超えて存在する場)」を身体的に可視化している振付ていえるかもしれない。

22/7のダンスパフォーマンス

ナナニジのダンスの中には、右手を大きく開き、片手を前に伸ばすポーズ取り組むパフォーマンスが数多い。そのポーズを行うときには、西條和をセンターにし、他のメンバーが右左へとフォーメーションが組まれている。

西條和が片手を前に伸ばすときには、他のメンバーも同じように前に伸ばすパターン(例「理解者」など)と、西條和を中心に放射状にとナナニジメンバーが手伸ばすパターンがある(例「あなたでなくちゃ」など)。

放射状に手を伸ばす22/7

ナナニジメンバーが円形あるいは三角形のフォーメーションを描き、手を放射状に広げていくパフォーマンスは少なくない。主なる楽曲をあげれば、「地下鉄抵抗主義」、「何もしてあげられない」、「最後のピアノ」、「あなたでなくちゃ」などがある。

「最後のピアノ」は月城咲舞がセンターとなっているが、その他の楽曲では全て西條和となっている。このことから楽曲の真意を語る上で重要なメンバーが西條和であることを、暗に語るものとなっている。

22/7「地下鉄抵抗主義」
22/7「最後のピアノ」
22/7「あなたでなくちゃ」

22/7の歌詞との関係

ナナニジ「何もしてあげられない」の「僕が生きてるその意味を ずっと考えてみたけど」という歌詞と 前に伸ばされた手 が重なるときそのダンスパフォーマンスに次のような解釈をすることが可能である。

22/7「何もしてあげられない」

サルトル的には「意味を掴もうとしても、常に届かない」存在の投企が行われるものとなる。
メルロ=ポンティ的には「考える前に身体が世界に向かって差し出される」姿を表現したものとなる。
西田幾多郎的には「考えと行為が一致する場で、存在が自己を超えて開かれる」姿、を象徴していると解釈できる。

前方に右手を伸ばす22/7

ナナニジメンバー全員が、手のひらを大きく開いて、前方へ向けて腕を伸ばすポーズをしているものもある。それには、西條和がセンターとなっているものに「理解者」、「覚醒」があり、天城サリーがセンターとなっているものに「ロックは死なない」がある。

22/7「理解者」
22/7「覚醒」
22/7「ロックは死なない」


哲学的に見る意味

両手ではなく「片手」だけ前に伸ばす点が重要になる。

不完全性と欠如
両手で差し伸べると「抱擁・包摂」であるが、片手は「届かない」「足りない」という不完全性を帯びる。哲学的には「人間の有限性」や「完全に他者に届かない欲望」を象徴している。

他者への指向(レヴィナス的解釈)
片手は「他者との間に橋を架ける最小の身振り」。握手や接触の前段階のように、「まだ触れていない関係性」を示す。

未来への探求(ハイデガー的解釈)
片手の伸びは「世界=投企への身振り」。ただし両手ではなく片手なので、そこには「孤独な投企」「ひとりで世界に差し出される存在(ダズァイン)」の象徴がある。

意思表示・指差しの原型
人間の片手の前伸ばしは「指差し」の前段階にも似ており、世界を区切り、意味づける原始的な行為。これは「言語の前にある記号行為」として哲学的に捉えられる。

前方を「指差し」するメンバー

強くメッセージを伝える楽曲では、前方を指さしながら踊るパフォーマンスも少なくない。例えば自分達の生き方、進み方を観客に示したような楽曲となる「覚醒」、「ロックは死なない」などがある。

22/7「覚醒」
22/7「ロックは死なない」
椎名桜月
22/7「ロックは死なない」

西條和と望月りのによる「覚醒」

「覚醒」については、当初西條和がセンターとなっていた。しかし、新メンバー加入後、西條和・望月りのによるWセンターによるパフォーマンスを行っている。
22/7は2021年まで中心的存在となっている西條和に、2022年以降、望月りのをはじめとする新メンバーもナナニジの楽曲で重要な役割を果たすメンバーが加わったことを象徴したかのようなパフォーマンスと言えるものだった。

センターは望月りの
22/7「覚醒」
望月りのと西條和
22/7「覚醒」
望月りのと西條和でWセンター
22/7「覚醒」

「片手を前に伸ばす」という動作

「片手を前に伸ばす」という動作で、身体をどう捉えるかの違いがはっきりと出る。

メルロ=ポンティ的解釈(身体=世界への開かれ)

メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で、身体を「世界へ向かう主体そのもの」と捉えている。片手を前に伸ばす行為は「視覚や思考より前にある、身体的意志の表現」となる。

両手ではなく片手だけ、という不均衡さは「身体が世界に対して全体的ではなく、部分的に、断片的に関わる」ことを示している。

つまりこれは「人間の身体は世界に触れようとするが、常に偏りや片寄りを持ちながら関わる」という現象学的な身振りとなる。

つまり、「片手を前に差し出す仕草は、身体が世界と関わりを結ぼうとする“生きられた意図”の表現」と解釈される。

サルトル的解釈(欠如と投企)

サルトルは『存在と無』で、人間を「自己の欠如を未来に投げかける存在=投企」と捉えた。

片手を前に伸ばす行為は「まだそこにないものを掴もうとする欲望の身振り」という。両手ではなく片手、という限定性は「完全には満たされない希求」を象徴している。

サルトル的には、この仕草は「人間は常に“不在のもの”を求めて、届かない未来へ手を伸ばす存在である」ことを体現したものと言える。


22/7「後でわかること」
相川奈央・月城咲舞に手を伸ばす22/7メンバー


西田幾多郎の視点からみた「片手を伸ばす」

純粋経験:西田にとって「純粋経験」とは、主観と客観が分かれる前の、生きられた経験そのものとなる。

手を前に伸ばす瞬間は、「自分が伸ばしている」「世界に触れようとしている」と分ける前の、身体と世界が直に交わる純粋経験としてとらえられる。

行為的直観:西田は「行為を通して世界を知る」と考えた。伸ばした手は、思考の後に出るのではなく、「行為そのものがすでに世界を開いている」直観的な身振りとなる。

このポーズは「思考ではなく、身体の行為が世界を成立させる」ことの象徴となる。

絶対無(自己否定と世界との一体化):片手を前に差し出すことは、自我が「私が握ろう」とする意図を超えて、より大きな「無の場」へと差し出されている身振りと読める。

差し出した手は、自我の所有欲の現れでありながらも、同時に「自分を無化して世界にゆだねる動き」ともいえる。

22/7 西條和 「One of them」

片手を伸ばす、その哲学的意味とは

ナナニジの振付における「手を前に伸ばす」動作は、単なるダンスの一瞬にとどまらず、哲学的に多義的な意味を帯びている。

サルトルにおいてそれは「欠如」と「未来への投企」を象徴する。人はまだ手にしていないものを求め、そこに向けて自己を投げ出す存在であるため、この身振りは未来志向的な欲望と不安の表現となる。

望月りの、22/7「空のエメラルド」

一方、メルロ=ポンティの身体論から見れば、この動作は「世界との触れ合い」として理解される。

手を前に伸ばすことは、身体を通して環境と交わり、新たな関係性を開く意図的行為であり、身体が世界に根差した存在であることを示す。

望月りの、22/7「風は吹いるか?」

さらに、西田幾多郎の「行為的直観」の立場では、この身振りは自己と世界が断絶するのではなく、一致しながら生成する場を象徴する。

伸ばされた手は、主体が対象に働きかけることで同時に自己を形成する運動そのものであり、世界と自己が即時に結びつく現場を示している。

雨夜音、22/7「神様だって決められない」

したがって、「手を前に伸ばす」という単純な振付は、未来への希求、身体を通じた世界との関わり、そして自己と世界の合一という三重の哲学的意味を同時に体現する、きわめて多層的な表現行為であるといえる。

追記


西條和卒業コンサートを見た時に、手を伸ばすそのパフォーマンスが見えてきた。そのポーズはこれまで見逃していた楽曲にも見ることができた。それは、「風は吹いてるか?」そして、ラストソングとなった「未来があるから」にそのポーズが示されていた。
22/7の中で、この手を伸ばす行為そこに語られる哲学は、奥深いものがあると改めて感じたコンサートであった。

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Ringo / 越川欣和|22/7の音楽哲学と世界観の言語化 記事をお読み下り有り難うございました。いただいたサポートは、クリエイターとしての活動費や勉学費用に使わせていただきます。(書籍、文具代など)どうぞ応援のほど、何卒よろしくお願いいたします。