見出し画像

“男でも女でもない”時代への違和感

“理解”の名の下に、社会の土台を揺るがしてよいのか

近年、日本社会では「多様性」という言葉が急速に広がっている。
それ自体を否定するつもりはない。人にはそれぞれ事情があり、苦しみがあり、生き方がある。弱者に寄り添おうとする姿勢は、本来、人間社会に必要な優しさでもある。

だが今、司法判断の流れを見ていると、私は強い危機感を覚える。

今回、大阪高裁は「ノンバイナリー」を自認する申立人について、戸籍制度における男女二元論の見直しを求めるような判断を示した。記載変更そのものは認めなかったが、「男女以外の表示方法を認めない現状は憲法の趣旨に抵触する」とまで踏み込んだ。

これは単なる一個人の問題ではない。
社会秩序そのものの根幹に関わる問題である。

戸籍制度とは、日本社会の基盤だ。
親子関係、相続、婚姻、家族制度――あらゆる社会制度が「男女」という生物学的区分を前提として積み重ねられてきた。

それを「個人の自己認識」によって曖昧化していけば、社会は必ず混乱する。

“感じ方”を法の基準にしてよいのか

今回の問題の本質は、「苦しんでいる人がいる」ことではない。

問題は、“主観”をどこまで法制度の基準にするのか、である。

人間の内面は複雑だ。
時代や環境によっても揺れ動く。
だが、法律や制度は、社会全体を安定させるために存在している。

もし「自分は男でも女でもない」と感じる人がいたとしても、私はそれを“人間本来の自然な姿”とは考えていない。
先祖代々から続く家庭環境や精神的影響、あるいは因縁的な流れの中で生じている場合もあると、長年人を見てきた私は感じている。

ただ、この問題は非常に深く、軽々しく断定できるものでもない。
そのため、本稿ではその背景や因縁論について深く触れることは避けたい。

重要なのは、個人の内面的葛藤と、社会制度の根幹をどう守るかは、分けて考える必要があるという点である。

そして現実には、すでに様々な問題が起き始めている。

女子トイレ、女子更衣室、スポーツ競技、学校教育――。
「自認」を優先する社会では、生物学的区分との衝突が避けられない。

一部の“例外”を守るために、多数の秩序や安心が崩れていくなら、それは本当に“進歩”なのだろうか。

LGBT理解増進法の危うさ

今回の判断で特に注目すべきなのは、大阪高裁がLGBT理解増進法の理念にまで言及した点である。

そもそも、同法成立時から多くの懸念があった。

「性自認」という概念が法制度に入り込めば、社会秩序が揺らぐ――。
その危険性を指摘する声は決して少なくなかった。

実際、法案では「ジェンダーアイデンティティ」という表現に置き換えられたが、本質的には“自己認識としての性別”を法的に扱う流れであることに変わりはない。

そして今、その懸念が現実化し始めている。

司法が次々と「同性婚違憲」「男女区分見直し」へ傾けば、社会全体の価値観は急速に変質していく。
法律とは、一度方向が決まると、教育、行政、企業、学校、メディアへと連鎖していくものだからだ。

占い師として感じる“陰陽崩壊”の危機

私は長年、四柱推命や易を通して、人の運命を見続けてきた。

東洋思想の根底には、「陰陽」がある。

男と女。
昼と夜。
動と静。
陽と陰。

世界は、異なるものが調和することで成り立っている。

もちろん、人には様々な個性がある。
生きづらさを抱える人もいる。
だが、“区別”と“差別”は違う。

自然界は、違いを持ちながら均衡を保っている。
その境界線を無理に消し去れば、やがて全体の秩序は崩れる。

易経では、極端に偏ったものは必ず揺り戻しを起こす。
陰が陰だけで進めば停滞し、陽が陽だけで進めば暴走する。

今の社会には、「多様性」という名の“極端化”が見え始めている。

本来、人を救うための思想が、逆に社会全体を不安定にしていないか。
その視点を、私たちは冷静に持たねばならない。

優しさと秩序は、別問題である

苦しむ人に寄り添うことは大切だ。
だが、それと社会制度を根本から変えることは、全く別の話である。

例外的なケースに合わせて社会全体の土台を組み替えていけば、最後に混乱するのは、普通に生きる多くの人々だ。

時代の空気に流され、感情論だけで制度を変えてはならない。

社会には、“変えてはいけない軸”がある。

そして今、日本はその軸を試されているのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!