第3章 -4:伝統と近代のダイナミクス 武士の工業が起点となった
「日本近代技術の形成」(著:中岡哲郎、朝日新聞出版、2006年)は、中岡哲郎氏が渾身の力を込めて書かれた大著です。その骨子はトマス・スミスを始めとする技術史観は単純であり、日本ならではの技術発展のプロセスがあったということです。
この大著をひも解いていきたいと思います。
武士の製砲業 ~佐賀藩
本書の第1章では「工業化の始点」について触れられていますが、これは第2章の「武士の工業」に含まれているため、併せて解説します。
文字通り「武士の工業」とはサムライが近代工業化にチャレンジしたということに他なりません。徐々に外圧が高まっていたことが主原因です。
鎖国時代といっても特区として開港していた地域はあります。なかでも九州では長崎と近傍の佐賀藩や琉球貿易を行っていた薩摩藩は近代化を先取りしていました。
中でも佐賀藩の取り組みは素晴らしいと同時に涙ぐましいものでした。
大砲の製造は鉄製の大砲ではなく、自力で青銅砲を作ろうとしたからです。
その後、オランダ人のヒュゲェニンによる「リエージュ砲兵工廠に対する大砲の製造方法」(1826年)が日本に入り、翻訳されたため、これをバイブルとして大砲製造に取り組むようになりました。
でもね、完全な自前主義だったのです。
つまり、当初は装置(=大砲)や人材の輸入なしに開発したのです。
見様見真似で「やればできる」みたいな精神論が横行したようですが、結果は火を見るよりも明らかで失敗の連続となりました。
佐賀藩と言えばアームストロング砲です。
アームストロング砲は1855年にイギリスで開発され日本に輸入された当時の最新鋭武器です。長崎を通じて輸入品で国内利用が始まりましたが、その後、佐賀藩が自分たちで開発したとされています。反射炉をつくって鉄を鋳造したことは確かですが、アームストロング砲の製造については確たる証拠が残されていないようで、真偽については意見が分かれています。佐賀藩製アームストロング砲が幕府に収められたのは1859年のことですが、そのような短期間で開発できたのかどうか? 疑問を持たれるのは仕方がないかもしれませんね。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:24_pounds_cannon_replica_Saga_Prefectural_Museum.JPG
武士の製砲業 ~驚くべき協業
佐賀藩を始めとするサムライの自前主義による近代工業化の取り組みと平行して、起きたことは藩の垣根を超えた協力体制が築かれたことでした。
通常の感覚なら他の藩とは協業しないのが自前主義かな? と思いますが、この時は違ったのです!
佐賀藩は早くも1857年には大砲の開発を始めとする軍事的技術の専門組織を立ち上げていました。これがアームストロング砲の製造にも寄与したとされていますが、同藩の優秀な技術者が他藩に派遣され全国に大砲製造の技術が普及することにも貢献したということです。
キャッチアップに一番熱心だったのは水戸藩。
斉昭らの元、大規模に組織化されます。
残念ながら安政の大獄による斉昭の失脚がもとでこのプロジェクトは失敗してしまうのですが、水戸藩の例に限ることなく問題意識の強かった韮山や南部などの地域では、こぞって近代軍事技術を獲得しようと躍起になったのでした。
この協業はその後、思わぬ形で大きく発展していきます。
サムライの事業と民間の資本が結びついたのです。
中岡氏は、「封建」工業化の努力が周辺で「資本主義的」工業化に結びついた、と絶妙に表現していますが、象徴的な事例は南部藩です。南部藩の努力は釜石の製鉄業で発展し日の目を見ることになりました。
釜石を支えたのは橋野鉄鉱山です。
この地域で良質な鉄鉱石が採掘されたのですが、大島高任という盛岡藩士がいなければ洋式高炉の実用化はできませんでした。国内で最初に洋式高炉の建設を手掛けたのは薩摩藩ですが、遠く離れた三陸の地で洋式高炉が花開いたのはこのような理由があったからです。
大島は水戸藩に呼ばれて大砲製造に携わる際に、「製砲は材料の銑鉄と一体である」、「砂鉄由来のたたら鉄はNGである」ことを伝え、「もしもこの教えも守らなかったら自分は関わらない」と主張しました。
製砲技術に対する確固たる自信があったことを示す例です。

現存する日本最古の洋式高炉跡として知られる
武士の工学業 ~薩摩藩
次は、造艦、つまり造船技術の近代化について紹介します。
ここは薩摩藩の出番。
やはりテキストはオランダからの翻訳本です。
驚くべきことに造艦についても楽観的な見通しを立てていました。
江川太郎左衛門英龍や鍋島直正しかり、大砲製造のところでも述べたように「なせばなる」、「少なくとも自分には作れるはず」と確信していたようです。この自信は一体どこから来たのでしょう?
ともかく、自前の洋式帆船や蒸気船をこしらえました。
これらの船を勝海舟がオランダ人とともに論評したことも滑稽です。
その頃、オランダは米英などの列強諸国が日本との貿易や関係を深めようとし始めていたことに対抗して、技術サービスを強化するようになっていました。こうしてオランダから教師団が派遣されたのですが、彼らを連れて来た船も役立ったのです。皆さんご存知の咸臨丸もその一つです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanrinmaru.jpg
武士の工業 ~薩摩藩
ここまでサムライたちが製砲業と造艦業とで奮闘してきた姿を紹介してきました。現代の眼からすると滑稽に映るかもしれませんが、彼らは国の威信をかけて必死に戦ったのです。自前主義で海外から身を守りながら、同時に自藩のことだけに執着せずに日本全体を底上げしようとしました。
さて、この自前主義なるもの、その後の日本経済において現在でも問題視されているのですが、自分たちで何とかしなければならないというサムライたちや民衆たちの情熱や根性は改めて見習うべきことかもしれないと思います。自前主義があったからこそ西洋の近代文明に飲み込まれることなく、融合することができたとも言えるからです。
次回、武士の工業が明治維新でどのように変遷していったかを見ていきたいと思います。
