ワインから評価軸を考えると①——評価は、差をつくらない。差を可視化する。
最近、評価というものについてよく考える。
以前のわたしは、評価にあまり意味を感じていなかった。それぞれが自分の持ち場で、自分の頭で考えて、ベストだと思うことをやる。そうやって独立して動いていれば、結果的に全体は良い方向に向かっていく。そう信じていた部分が強い。スタンドアローンでいい、と思っていた。
ところがこの業界に入ってから、その前提が通用しない場面に何度もぶつかった。箸の上げ下ろしまで説明しなければならない。何をどう判断したのか、なぜそうしたのか、どういう手順で行ったのか。すべてを言語化して、記録して、提出する。そこに強い違和感がある。
違和感の正体を、最初は「窮屈さ」だと思っていた。でも、たぶん違う。窮屈だから嫌なのではない。評価という行為が、何のために存在しているのかが見えないまま、形式だけが先に来ていることに引っかかっているのだと思う。
評価とは何なのか。誰のためにあるのか。評価すると、何が起きるのか。
これを考えるとき、わたしはワインのことを思い出す。
わたしはワインが好きだ。趣味として好きなだけで、専門家でも何でもない。ただ、ワインという飲み物の歴史を追いかけていくと、そこには「評価」というテーマが延々と横たわっている。ワインの世界は、評価によって形をつくられ、評価によって壊され、評価によって広がってきた。これほど「評価とは何か」を考えるのに適した題材も、そうないと思う。
だから何回かに分けて、ワインの歴史を通して評価について考えてみたい。今回はその一回目。
評価は、差をつくらない。差を可視化するだけだ——という話をする。
ワインは、そもそもほとんど何もしなくてもできる
まず前提として、ワインという飲み物の構造を確認しておきたい。ここが後の話につながる。
ワインは、極端に言えばブドウを潰して置いておくだけでできる。ブドウの果皮には天然の酵母が付着していて、果汁の糖分を分解してアルコールに変えてくれる。人間が何かを足す必要は、原理的にはない。米から日本酒をつくるには麹によって糖化させる工程が要るし、ビールには麦芽と煮沸が要る。ワインにはそれがない。潰す、待つ。それだけだ。
工程を並べても、驚くほどシンプルだ。収穫し、茎を取り除いて実を潰し、発酵させ、搾り、寝かせ、濁りを取り、混ぜ、瓶に詰める。おおむね8つ。それだけ。
赤と白の違いも、実は工程の順番がひとつ入れ替わるだけだ。赤は、果皮と種ごとタンクに入れて発酵させ、そのあとで搾る。だから果皮の色素とタンニンが液体に移り、色が濃く、渋みと骨格が出る。白は逆で、先に搾って果皮と種を取り除いてから、果汁だけで発酵させる。だから色は淡く、渋みがほとんどない。ロゼはその中間で、果皮に短時間だけ触れさせてから搾る。
搾るのが発酵の前か、後か。たったそれだけで、まったく別の酒になる。
つまりワインは、仕組みとしては極めて単純なのに、結果として生まれるものの幅が異常に広い。土地が違えば違うものになる。年が違えば違うものになる。造り手が違えば違うものになる。同じ畑の、隣り合った区画でも違う。同じボトルでも、開けてから何十分経ったかで表情が変わる。
単一な製法が、無限の複雑性を生んでいる。これがワインという飲み物の本質だと、わたしは思っている。
そして、ここが重要なのだけれど——その複雑性は、誰かが「見つけて、名前をつけた」から存在するようになった。
樽に詰められ、混ぜられていた時代
いまでこそ、ワインは造り手の名前で語られる。あのシャトーの、あの年の、あの畑の。当たり前のように思えるが、これは歴史的にはかなり新しい状態だ。
かつてボルドーのワインは、瓶詰めされて出荷されるものではなかった。樽に詰められ、船に積まれて輸出されていた。そして同じ地域のワイン、同じスタイルのワインは、すべて混ぜられて業者に引き取られていった(出典:ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(後編)」note)。
つまり、誰が造ったかという情報は、そもそも存在していなかった。
このとき、造り手ごとの品質差は存在しなかったのだろうか。そんなことはない。当然あったはずだ。土地の水はけが良い畑と悪い畑があり、丁寧に仕事をする造り手とそうでない造り手がいた。差は現実に存在していた。
でも、それは価格に現れなかった。区別されないものは、存在しないのと同じだった。
ここに、評価の第一の機能がある。評価は差をつくるのではない。すでにある差を、見えるようにする。
イギリス人という、外部の目
では、誰がその差を見えるようにしたのか。
面白いことに、ボルドーワインの序列をつくったのはフランス人ではない。イギリス人だ。
ボルドーワインの最大の愛好者はイギリス人だった。彼らの品質へのこだわりが、産地や生産者ごとの「上位」のワインを選び分ける動きにつながっていった。ちなみにオー・ブリオンの所有者が世界で初めてワインバーを開いた場所も、ロンドンである(出典:Bordeaux.com「1855年格付け」)。
わたしはこの事実がずっと引っかかっている。
なぜ、つくっている当人たちではなく、買う側が、しかも外国人が序列をつくったのか。
たぶん、中にいる人間には差が見えないからだ。
毎年同じ畑で、同じようにブドウを育て、同じように仕込んでいる人にとって、自分のワインは「いつものワイン」でしかない。隣の畑との違いは、あまりに日常的すぎて認識の外に出る。ところが海を渡って、何十種類も並べて飲む人間には、違いがはっきり見える。しかも彼らは金を払う側だから、違いに値段をつける動機がある。
評価は、外部の視点と、対価という動機がそろったときに生まれる。中にいる人間が自分で自分を評価するのは、構造的にかなり難しい。
そしてもうひとり、意外な人物がボルドーの格付けをつくっている。のちにアメリカ第3代大統領になるトーマス・ジェファーソンだ。彼は1785年から89年まで駐フランス公使を務め、1787年の春にボルドーを訪れ、気に入ったブドウ園を1級から3級までのランキングとともに記録している。合計16のブドウ園。そしてこのランキングが、後の1855年の公式格付けにかなり近い精度だった(出典:ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(後編)」note)。
ビジネスとして関わっていない、ただの愛好家が、200年後まで残る公式格付けとほぼ同じ結論に辿り着いていた。
これは何を意味するか。差は、本当に実在していたということだ。誰が見ても同じように見えるくらい、はっきりと。評価が恣意的に序列をでっち上げたのではなく、そこにあったものを、誰かが記述しただけだった。
1855年、仲買人がふたりの週末で決めた格付け
そして1855年が来る。
ワインを少しでもかじった人なら誰でも知っている「ボルドー・メドックの格付け」。1級から5級まで。シャトー・ラフィット、ラトゥール、マルゴー、オー・ブリオン。170年経ったいまも、この格付けはワインの価格と権威を規定し続けている。
これがどうやって決まったのか、その実態を知ったとき、わたしは正直かなり驚いた。
きっかけは、ナポレオン3世だ。1855年のパリ万国博覧会にあたって、世界中から集まる訪問客に向けてフランスワインを広くアピールすると決め、ボルドーの仲買人(クルティエ)に対して主要なワインを分かりやすく格付けするよう命じた(出典:Bordeaux.com「1855年格付け」)。
依頼を受けたボルドー商工会議所は、当初はきちんとやろうとした。どうすれば公平で適正な格付けをつくれるか、あらゆる方法を模索した。ボルドー中のワイナリーからサンプルを送ってもらい、テイスティングで評価するという案も出た。
しかし、膨大な数のサンプルを公正に評価するには、時間も人手もまったく足りなかった。そして商工会議所という立場上、ワイナリーに優劣をつけること自体が、後々の批判の的になる恐れもあった。どうすればいいか思案しているうちに、3か月が過ぎた(出典:ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(前編)」note)。
商工会議所は各シャトーにサンプルとしてボトルを6本送るよう通達したが、大人数で試飲するには6本では足りず、そもそもサンプルを出さないシャトーもあった。面倒になった商工会議所は、1855年4月5日、ボルドーワインを熟知している仲買人組合に「五つの級に格付けせよ」と丸投げする(出典:エノテカ「日本で一番詳しい『1855年メドック格付け』の裏側」)。
そして実際に格付けを決めたのは、仲買人のうちのひとりだったと言われている。大手仲買人ロートン家の3代目当主、エドワード・ロートン。彼は自分の試飲経験と、ワイン1樽あたりの取引価格だけを考慮して、2週間足らずで結論を出した。4月5日に商工会議所から依頼の手紙を受け取り、4月18日に回答している(出典:同上)。
170年間ワインの世界を支配し続けている格付けが、ひとりの商人によって、2週間で決められた。
「格付けが価格を決めた」のではなく「価格が格付けになった」
ただ、これを「いい加減だ」と切り捨てるのは、たぶん間違っている。
わたしたちはこの格付けを、なんとなくこう理解している。
格付けされた → だから高い
ところが実際の因果は逆だ。正確にはこうなる。
すでに序列があった → だから高く取引されていた → その価格をもとに1855年の格付けが書かれた
(出典:ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(前編)」note)
そしてこの「すでにあった序列」は、1855年よりさらに200年以上前、1647年まで遡る。ボルドーには既に価格による格付けが存在していた(出典:同上)。
つまり1855年の格付けは、無から序列を生み出したのではない。200年かけて市場が形成してきた評価を、文書として固定しただけだった。
だからこそ、たった2週間で書けた。ロートンはゼロから判断を下したのではなく、業界の誰もが知っていることを書き写しただけだからだ。
そして、だからこそ精度が高かった。ジェファーソンの個人的なランキングとも近かった。全部、同じ現実を別の角度から記述していたにすぎない。
それでも、記述されることで何かが決定的に変わる
ここでひとつ、大事な逆説がある。
1855年の格付けが単なる追認だったのなら、それは何も変えなかったのだろうか。
そんなことはない。むしろ、この文書化こそがすべてを変えた。
樽で混ぜられていた時代、差は現実に存在していたが、価格には現れなかった。市場が徐々に造り手を区別しはじめ、価格に差がつき、そして1855年にそれが公式文書になった瞬間、差は「動かせない事実」になった。
評価とは、流動的な現実に、輪郭を与える行為だ。
輪郭が与えられると、人はそれを基準に動きはじめる。1級に上がるために投資する。5級のシャトーが買収される。格付けを持たない地域が、自分たちの正当性を主張しはじめる。評価は、それ自体が新しい現実を生む力を持ってしまう。
そして、ここから先が本当に面白いところだ。
輪郭が与えられたことで、ワインの世界は固定化に向かったのか。それとも、多様化に向かったのか。
答えは——多様化した。それも、爆発的に。
格付けが生まれたあと、ワインの世界は畑の区画、ブドウの品種、土壌の構成、そして発酵に関わる微生物の働きにまで分解して語られるようになっていく。「良さ」を定義しようとした結果、「良さ」の変数が無限に発見されていった。
さらに、格付けの枠の外側から、格付けを揺るがすものが次々に現れる。カリフォルニアが、イタリアが、ニュージーランドが。彼らは既存の評価軸で下位に置かれていたのではなく、評価軸の外にいた。にもかかわらず、いや、だからこそ、彼らは世界を変えた。
次回はその話を書きたい。
1976年、パリのホテルの一室で行われた、たったひとつのブラインドテイスティングが、ワインの世界地図を書き換えてしまった話から始める。
出典
ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(前編)」note
ワイン商えいじ「ボルドー・メドック格付の真実(後編)」note
エノテカ「日本で一番詳しい『1855年メドック格付け』の裏側」
Bordeaux.com「1855年格付け」
モトックス「ボルドー メドック格付け一覧」
Wikipedia「ボルドーワインの格付け」
※ワインの製法・歴史に関する記述は上記および一般的なワイン教本の内容に基づいています。専門家ではないため、解釈の誤りがあればご指摘いただけると幸いです。
