【ラムネの音】#シロクマ文芸部
「ラムネの音?」と言われても、ちっともピンとくることはなかった。
僕はただ「うん」と頷いた。
ソノコは「ふうん」と言った。
小学2年の夏休みだった。
朝早く、ラジオ体操の帰り道。
各町内毎で朝のラジオ体操をする。
僕の町内はそれがたまたま学校の校庭だった。
ラジオ体操を終えて歩いていると後ろから来たソノコが言った。
「ラムネの音?」
「うん」
「ふうん」
何が「ラムネの音」なのだろう?
ソノコは同じクラスの女の子だが、あまり話したことはなかった。
ソノコはクラスの中でも少し目立っていた。
噂だけど、ソノコのお父さんは会社の社長で、お母さんはデザイナーだという。
他の女の子より少し大人びた感じだった。
そのまま別れ道まで無言で歩いた。
僕は左に折れ、ソノコはまっすぐ行く。
別れ際「また明日」とソノコが言ったのに対し、僕は「うん」と頷いた。
ソノコが手を振ったように見えた。
僕はソノコの方を見ずに後ろ手に手を振った。
道を曲がるとすぐ上り坂で、僕はゆっくりとその坂を登った。
そしてふと「ラムネの音」という言葉を思い出した。
「ラムネってどっちのラムネだ?」
僕はひとり声に出して言った。
明日会ったらソノコに聞こうと思った。
でも、それっきりソノコと会うことはなかった。
翌日のラジオ体操にソノコは来なかった。
風邪でも引いたのだろうと思った。
ソノコがラジオ体操に来なくなって3日ほど経った。
大人たちがざわつき始めた。
「西薗さんのお嬢さんが誘拐されたらしい」
「報道規制がしかれているようだ」
何のことだかわからなかった。
だけどソノコのことを言っているのだということだけはわかった。
家でも両親が「警察の覆面車輌が停まっていた」とか、「西薗さんの家に通ると職務質問を受けるらしい」とか話していた。
出校日にもソノコの姿はなかった。
「トモル。おまえソノコと家近いよな?」
彼らより近い。
「まぁ。町内は一緒」
坂を降りて左に曲がって、その先にある一番大きな家。だけど一度もソノコの家の方には行ったことがない。
「ソノコって本当に誘拐されてるの?」
「知らない。だって、ホードーキセーされて話が漏れないようにしているんだろう?」
大人たちの言葉を真似てみた。
「ふうん」
納得していない「ふうん」だと思った。
「あ」
「何?」
「ラムネの音ってどんな音?」
「何だそれ?」
なぜか「ソノコが言った」と言えなかった。
「ラムネってどっち?飲む方?お菓子?」
「飲む方だったらシュワシュワだな」
「カラカラかもよ?」
「カラカラ?」
「ビー玉のなる音。オレ、あのビー玉取ったことある」
「お、すげぇ」
みんなの興味がソノコからそれた。
そのまま夏休みが終わった。
結局、それからもソノコがラジオ体操に来ることはなかった。
始業式。
「西園華乃子さんは転校しました」
担任が言った。
クラスのみんなは驚いた。
急な転校よりも「誘拐事件はどうなったんだ?」という言葉が数人から聞こえた。
僕はそれよりもソノコの名前が「ニシゾノカノコ」という名前だったことを知って驚いた。
そのくらい、僕とソノコには距離があったのだと思った。
それがあのラジオ体操の朝だけグッと近づいたのだ。
帰り道、別れ道を曲がらず、まっすぐ歩いた。
少し歩くと大きな家が見える。
初めて間近で見るソノコの家だった。
とは言っても塀で囲われていてあまりよく見えない。
ソノコはもうここにはいないのだろうか?
僕は家の前で立ち止まった。
でもどうすることもできなかった。
「ラムネの音ってなんだよ」
塀に囲われ門を閉ざした家に向かってそう言うと、僕は家に帰るべく来た道を戻った。
転校していったソノコの話はそれっきりだった。
女子たちもあんなに仲良くしていたのに、誰もソノコの話をしていなかった。
あれから40年以上経った。
その間、ソノコの話を聞くことはなかった。
思い出話の中にも登場しない。
まるでソノコがいなかったかのようだ。
僕が中学生になる頃、その家には「菅原」という老夫婦が住んでいた。
そのふたりがソノコとどういう関係なのかわからなかった。
インターネットで「西薗華乃子」と名前を検索したら、ひょっとしたら何かしら見つかるかもしれない。そんなことを思っても実行に移すことはない。
僕が知りたいのはソノコの今でも、誘拐事件の顛末でもない。
あの時、ソノコの言った「ラムネの音」が何かというのを知りたいだけだ。
夏が来た。
ラジオ体操の音が遠くから聞こえる。
そんな気がした。
