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【自分史】カオスと挫折を越えて見つけた「人のポテンシャル」への情熱

カオスと挫折を越えて見つけた「人のポテンシャル」への情熱

こんにちは!現在、外資の人事組織コンサルとして働きながら、Mindset Coaching Academyでコーチングをゼロから学び直しをしている活動しているテオです。私がなぜコーチングという道に行き着いたのか。自己紹介も兼ねて、少し長くなりますが、これまでの私の人生の歩みをお話しさせてください。

オールマイティな姉と、マイペースで好奇心が強かった幼少期

私は埼玉県草加市で、島根県出身の両親のもとに生まれました。地方公務員の父と、パートで働く母。そして、7歳離れた姉の4人家族です。

私は長男でありながら、7歳離れていたので末っ子のように育ちました。しかし、1周先を行く姉は、美術も運動も勉強もそれなりにできるオールマイティタイプ。一方の私は小児喘息持ちで、美術も運動も苦手。習っていたピアノも練習嫌いで、じっとしているのが苦手だったんだと思います。

(数十年経った今ようやく、自分なりのアートやスポーツの向き合い方があることに気づけたので、もしタイムスリップできるなら、「自分なりの表現や得意なことってあるんだよ」、って声を掛けてあげたいです)

ただ、マイペースさと好奇心だけは人一倍でした。 3歳の時にはベランダのサボテン入り水槽の上に乗ってガラスで足を切り、足の裏にサボテンが刺さる大怪我をしたり。小学生の時には、学習机の電球を外してソケットに鉛筆を突っ込み感電したり、「身体を張って実験」をすることが好きだったのかもしれません(笑)

当時の先生からの評価は「いじめられそうで、いじめられない人」。どこか飄々とした、独自のペースを持った子供だったのだと思います。

小4から学習塾に通い、Nのマークのバッグを背負い、休みの日は1日10時間勉強もした後、中高一貫の進学校へと進みます。当時を振り返り、母親からは「小4で近くに塾ができてテストを受けた後、あなたが塾に通いたいと言ったから、そのまま通わせたのよ。あんた、どんくさいから心配したわよ。」と言われましたが、真相はいかに…

 

高校2年の「暗黒の1年」が私をカオスにいざなった

中学に入ってからは、そこまで勉強せず、中くらいの成績で3年間過ごしました。友達と遊んだり、ゲームをしたり、普通の学生生活を送ってました。ゲームだとドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどのRPGが好きで、あとはパワプロ(実況パワフルプロ野球)とかが好きでした。 特に印象に残っているのが『ファイナルファンタジータクティクス』で、ジョブや地形、敵味方の動きなど複雑な設定要素を何度もシミュレーションしてやり込むのが面白かったです。

しかし、高校2年の時に「暗黒の1年」が訪れます。 所属していた軟式野球同好会で次の代の幹部決めがあったのですが、誰も部長をやりたがらない沈黙に耐えきれず、マネージャー気質の私が思わず手を挙げてしまったのです。結果は散々でした。チームはまとまらず、怪我をし、多少のいじめにも遭いました。

そんな暗黒時代を耐え抜けたのは、理解ある友人の存在と、ガンダムなどのアニメから知った歌手(米倉千尋や坂本真綾など)の推し活という「第三の居場所」があったからです。インターネットを通じたファン同士の交流やライブでのオフ会が、自分の心を許せる場所でした。

高3の夏、ようやく部活から解放された私は「自分を馬鹿にした奴らとは違う世界へ行く」という反骨心に火がつきます。模試はE判定で厳しい状態だったものの、そこからは怒涛の追い込みを図り、国立大学に後期試験で滑り込み合格。普通クラスから唯一の現役合格を果たした私に、当時の担任には「執念だな」と言葉をかけられました。

 

世界の混沌に飛び込み、「人のポテンシャル」に魅せられた大学時代

大学に入学し、国際学生団体「AIESEC(アイセック)」に入会したことで、私の世界は一気に広がりました。

大学1年の終わりにトルコでの学生会議に参加して初めての海外を経験し、3年次には休学してマレーシアでボランティア、インドでインターンシップを経験。BRICsが急速に発展し始める熱気とカオスの中で、もまれながら生活を送りました。

このAIESECが掲げていたミッション、「Peace and Fulfillment of Humankind's Potential」。この言葉は、ヒトの可能性への興味もつ原点だったのかなと思っています。

復学後は、社会学部でありながら商学部の人材マネジメントゼミの門を叩きました。他学部のゼミに潜り込む(通称:トンネル)私を、先生は「変人枠」として採用してくれました。私にとっては褒め言葉ですね(笑)。

また、4年目からはジャズ研究会にも飛び込みました。練習には打ち込めず数ヶ月で挫折しましたが、沢山のジャズを聴き込んだ経験が、今の自分の音楽性を形作る大切な財産になっています。

 

グローバルへの憧れ、デスマーチ、そして借金150万円の挫折

社会人になり、「学生時代に感じてた様なグローバルな仕事がしたい!」と意気込んでITコンサルティング会社に入社。しかし、配属されたのは超ドメスティックなシステム開発案件。大炎上プロジェクトで3年間、なんとか生き延びる日々でした。

その後、HR系SaaSベンチャーへ転職するも、ここでもプロジェクトは炎上し、製品の差別化に苦しむ泥臭いセールスが続きました。「グローバルな仕事ができていない」「学生時代の自分を越えられていない」という強いモヤモヤを抱えていました。

そんな中、自分自身がコーチングを受けたことで人生が大きく動き出します。 「これは面白い!」と直感し、CTIというスクールでCo-Active Coachingを学び始めました。日本だけでなく、一部はドイツでワークショップに参加し、資格コースはアメリカのプログラムをオンラインで受講、グローバルへの興味から独自のアプローチで学びを深めました。

ドイツにワークショップに参加しに行った時の駅のプラットフォーム

しかし、勢い余ってビジネスの土台がないままフリーランスとして独立し、見事に玉砕。あっという間に貯金が底をつき、1年経たずにサラ金で150万円の借金を背負うことになりました(最終的に親に肩代わりしてもらい、少しずつ返済しました)。当時のコーチングの師匠からの勧めもあり、私は一度コーチを辞め、再び組織で働くことを決意します。

中国での挫折と国際結婚。カオスの中で見つけた自分の強み

再就職先は総合系のコンサルファーム、そこから人事組織コンサルの道を歩み始めました。様々なテーマに取り組みましたが、一番多かったのが組織再編系のプロジェクトです。様々な課題に対して総合格闘技的な知見が求められる環境でしたが、私は「カオスな状況に向き合い、組織を再構築していくプロセス」に強いやりがいを感じていました。

そして、諦めきれなかった「海外で働く」という夢。 当時中国に駐在していたパートナー(役員)のもとへ、自費で北京と上海へ2度も直談判に行き、ついに中国駐在の切符をもぎ取りました。

しかし、現実は甘くありませんでした。北京に駐在して半年でコロナ禍に見舞われ、途中1年間、日本に戻らざるを得ず、その後なんとか再赴任。現地のプロジェクトが十分になく、日本のプロジェクトをリモートでやったり中途半端な状況が続き、仕事がうまくいかなかったことも相まってメンタル崩壊の一歩手前まで追い込まれ、志半ばで帰任を決意することになります。

こんなに人のいない北京の故宮なんて、二度とみられないかも

ただ、日本に戻っている最中に出会った彼女とコロナ禍の大変な遠距離恋愛を乗り越え(日本人の私が北京、中国人の彼女が東京という逆転現象が起きてましたが(笑))、帰任後に国際結婚を果たしたのです。吉林省という地方都市出身で20人以上の親戚がおり、年に1回帰るときはご馳走を沢山用意して歓迎してくれるのですが、古き良き中国の温かく濃密な人間関係に揉まれながら生きています。

その後、マネージャー経験を積むため外資系コンサルに転職し、現在に至ります。

そして今、私がコーチングを通じて実現したいこと

振り返れば私の人生は、軟式野球同好会の部長時代の挫折から始まり、インドやマレーシアでの休学生活、フリーランスでの失敗、コロナ禍での中国駐在と、常に「カオスの中でのもがき」の連続でした。

でも、ベンチャーやコンサル時代に3つの国際交流シェアハウスに住み、面倒見の良さから「シェアハウスのママ」と呼ばれ、また、人事組織コンサルでの組織再編プロジェクトでの経験から、「カオスの中から創り直していく」ことに特別なモチベーションがあるのではないかと思っています。

テクノロジーが進化し、ビジネスの現場がどれほど効率化されても、最終的に事業を動かし、パラダイムシフトを起こすのは「人の意識の変容」です。

グローバルな舞台で戦うことの難しさ、組織の論理と個人の感情の摩擦、そして自分自身の可能性を信じきれない葛藤。私自身が泥だらけになって経験してきたからこそ、寄り添えるものがあると信じています。

コーチングを通じて「封印されたヒトのポテンシャルを覚醒させ、熱狂の渦に放り込むこと」 それが、私のミッションです。かつての私のように、キャリアの方向性や自分の本当のやりたいことに悩み、もがいている方々に対して、全力で向き合うコーチでありたいと思っています。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。 もし私のストーリーに何か共鳴するものを感じていただけたなら、ぜひ一度、お話ししましょう。

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