テレワークゆり物語 (44)アグネス・チャンの追っかけ
「学年で1番になったら、アグネスに会いにカナダへ連れてったるで」
母が目の前にぶら下げた、この「ニンジン」が、私の人生を変えた。
1973年(昭和48年)12月31日。『日本レコード大賞』で新人賞を受賞し、泣きじゃくるアグネス・チャンを見て、大ファンになった。理由は今でもわからない。「かわいい」とか「歌が好き」とかではなく、ただただ、感動して好きになってしまった。
10歳前後の女の子が、年上の女性にあこがれることは珍しくない。ただ普通はすぐに冷めるが、私の場合「アグネスに会いたい」思いはどんどん強くなり、ついに「追っかけ」となったww。
アグネスには女性ファンも多かったとはいえ、小学5年の女の子は目立たったのか、本人も私を覚えてくれていたようだ。
1976年、夏。中学2年生で13歳という多感な時期の私は、アグネス・チャンの突然の引退宣言で、言葉では表せないほどのショックを受ける。歌手活動を辞め、カナダのトロント大学に留学するというのだ。
かくして、最後の「追っかけ」は、東京に一週間滞在。成田空港で、カナダに飛び立つ飛行機を見送った。
その後、放心状態になった私に、母がぶら下げてくれたニンジンが「アグネスに会いにカナダへ行く」だった。中学に入ってから、勉強そっちのけで追っかけをしていたので、親の意図は見え見えだったが、どうしても手に入れたかった。
次の学年テストで、1番になって、カナダへアグネスに会いに行こう
しかし、全校生徒約400人中、いつも50~100番あたり。一度だけ38番になって、「嘘のサンパチ」と笑ったほどだ。
そんな状況で、1番というのは、さすがに無茶である。
しかし、若いって素晴らしい。一途って素晴らしい。愛って素晴らしい。
人生で一番、勉強に集中した学年テストで、学年3番となった。
1番になれなかった…。カナダに行けない。アグネスに会えない。
落ち込む私に親がくれたご褒美は、
「カナダは遠いから、香港に行こう」
なんや、1番と3番の賞金の違いは、旅行費用かい。ww
年末年始、家族を大切にしているアグネスは、香港の実家に帰るだろう。
かくして、このトンデモ家族は、年末に香港へ旅行することとなった。
年末、香港にあるアグネスの実家を訪ねると(どうやって調べたのかは今もって謎)、アグネスのお姉さんがでてきた。
「美齡? まだ帰ってきてないよ」 ※美齡(メイリン)はアグネスの本名
という一言で、私の「ご褒美」は、一瞬にして消えた。
しかし、中学2年生という重要な時期、この成績を取れたおかげで、その後は学年30番前後の位置につくことができた。奈良の公立で一番の進学校「奈良高校」が射程距離に入ったのだ。
まんまと、親の作戦にはまった私は、奈良高校にギリ入学。
高校では卓球にはまり、「日本一卓球が強い大学」を目指すが、不合格。
「アグネス・チャンが通っていた」という理由で記念受験した、上智大学で大学生活を過ごすことになる。
ちなみに、最後の「追っかけ」先は、当時の人気ドラマ「新・二人の事件簿」のロケ。場所は、上智大学の横にある「土手」だった。
中学時代の大切な思い出の場所が、時を超えて、大学時代の大好きな場所になる。人生って、面白い。
※ドラマの該当回のオープニング映像。土手での別れのシーンは、アグネスファンはもちろん、ソフィアンも必見?!
最後に。この話で何がすごいって、小学生の一人娘に「アグネスの追っかけ」を許し、協力してくれた、私の親だと思っている。引退追っかけ時は、奈良から東京への費用も出してくれた。そして香港まで連れってくれた。
「勉強しなさい」とは一切言わず、ここぞという時に、適切なニンジンをぶら下げたのは、見事としか言いようがない。
心配はするけど、子どもが「やりたいことは、やればいい」。その子育て方針は、私の子育てにも大きく影響した。感謝。
※冒頭の写真は、2012年に友人の配慮でアグネスと会った時のもの。緊張感満点。小学5年の頃に自分に見せてあげたい。
