動じない人は、なぜ構えて見えないのか / #001
ある撮影の現場で、照明チーフの男性に、いきなり膝カックンをされた。
その日はあるタレントさんと一緒の現場だった。以来、テレビやネットでその人を見かけるたび、私の膝は条件反射で一瞬のびる。
身体のほうが覚えてしまっている。
膝カックンなんて、小学生ぶりだったと思う。しかもほぼ初対面の人からの、最初の接触が膝。
時間が経つほどに、その人は「膝カックンおじさん」として固定されていく。
そのときの私は、セットチェンジの合間に、ただ立っていた。気を抜いていたはずなのに、後ろから膝を抜かれても、身体はほぼ崩れなかった。
驚きはしたが、反応は小さかった。
ここ数年、武道の稽古をしている。体幹が整ってきた、という実感はある。だから一瞬、「あ、効いているのかもしれない」と思った。
でも、本当にそれだけだろうか、とも思った。
構えている人は、もっとわかりやすいものだと思っていたから。緊張しているとか、隙がないとか、そういう “見えるサイン” があるものだと。
でも実際には、何もしていないように見えるときのほうが、身体は静かに整っていることがある。
背後から膝を抜かれても崩れない身体と、そのときに過剰に反応しない身体は、同じものなのだろうか。
構えは、見えるものではなくて、起きたときの反応に現れる ——そう考えることもできる。
ただ、その反応の小ささが、強さゆえなのか、ただ鈍いだけだったのかは、よくわからない。けれど、少なくとも身体は何かに抗うのではなく、流していたようにも思える。
そもそも私は、あのとき「耐えた」のか、「受け流した」のか、それともただ「何もできなかった」のか。我ながら区別がつかない。
構えのある人は、外からはあまり構えているようには見えない。
そういうことは、あるかもしれない。
