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自問 55 その土地に感じる特別な力 その2:利尻島

なぜ人は、この最果てに在り続けるのか

海に浮かぶ島に、なぜ高山植物が咲くのか

利尻島では、標高の高い山に咲くはずの高山植物が、島の斜面や平地に咲いている
それは、利尻が北の果てにあるからだ
風は冷たく、夏は短く、陽も控えめにしか射さない
この厳しい環境が、高山のような条件をこの地にもたらす

けれど、花は自ら咲こうとして咲いているわけではない
咲かせているのは、風であり、土であり、光だ
花はただ、そのすべてを受け入れて、そこに咲かされている

人もまた、そうなのではないか

利尻島に暮らす人々は、「ここに咲こう」と選んだのではない
ただ、この地に生まれ、この地の風に吹かれ、この地の海に養われ、
その関係性のなかで、自然と「咲かされて」いる

それは意思ではなく、応答
意図ではなく、いのちの流れ

栄えた記憶と、静かな今と

かつてこの島は、コンブやニシン漁で栄えた
人々は海に生き、船が行き交い、にぎわいがあった

いま、その姿は変わった
けれど、人は去らず、ここに在り続けている

なぜだろう
そこに確かな理由があるというよりも、
「生まれたから、ここにいる」
「ここで生きてきたから、ここにいる」

それだけのこと
しかし、それはとても深く、揺るぎのない在り方に思える

咲こうとするのではなく、咲かされていることに気づきながら、
人は、今日も島の風の中に立っている

境界に立つということ

対岸の稚内には、ロシア語の看板が並ぶ
風は異国の気配を含み、静かに島をなでる

東京から見れば、利尻島は「最果て」の地に見えるかもしれない
地図の端、文明の届きにくい場所、
「遠い」場所、「不便」な場所・・・
そんな言葉で語られることもあるだろう

けれど、利尻に立ってみると分かる
ここは果てではない
この先にも、海があり、風があり、人の暮らしがある
だからこそ、ここは「終わり」ではなく、「つながりの境界」なのだ

私たちが「果て」と呼ぶものの多くは、
単に自分の見ている世界の「端」にすぎないのではないか
その先に広がる他者の暮らし、文化、自然を見ようとしないことで、
私たちは自分の価値観の中に閉じ込められてはいないだろうか

境界とは、遮る線ではなく、世界が折り返す地点
利尻島は、私たちにその見方の転換を静かに促してくれる

利尻島が教えてくれること

咲くとは、何かを目指すことではない
どこかを選ぶことでもない

風が吹き、土が支え、陽が射すから、咲く
咲こうとしなくても、咲かされることがある
そしてそれは、ただ咲こうとするよりも、もっと深い力に根ざしている

利尻島は問いかけてくる

 あなたはいま、どこに咲かされているのか
その風と土と光に、ちゃんと耳を澄ませているだろうか

私は、問う
答えを得るためではなく
まだ光の届かぬ場所に、そっと光を届けるために・・・