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オレの沖縄を供養する。

Twitterが日本でサービス開始されて以来、ぼそっとつぶやき続けているインターネット老人会の会員です。Twitter当初から男女間、おっさんと若者の間の軋轢は普通の社会と同じようにあって、「通りすがりの爺です」などと弁解して知識を与える親切おじさん居ましたよね。爺だけど老婆心で「若者よ、それは○○だよ」と知見を与えて華麗に去って行く、そんな紳士が大勢いたのだ。FacebookもTwitterのように自然に呟いて軽く声を掛け合うなんて使い方されてたのにね。311が破壊しちゃった。ここでは触れないけどさ。

フォーマルな文書でも「僭越ながら」などと自分下げする慣例はある。けれど、何を申すにも「私ごときが差し出がましいですが」とデフォルトで劣等感を発揮しないと社会が回らないのってやだなあってずっと思ってる。お願いベースってやつですか。

芸大から首里城

大学生の時、とっぱつで沖縄旅行した。旅行雑誌を頼らず、何とかなるっしょ精神で。写真は県立芸大から首里城を眺めたもの。めちゃくちゃいい立地だよね。焼失してから再建されてないけど、人によっては精神的な象徴だろうから、早く計画が進めばいいと思う。首都圏の美芸大の人気は相変わらずだけど、他の地域の大学にも魅力や強みは当然あるので、美芸大を選択するようなすでに人生を棒に振りかけている人はぜひ検討してほしい。

それにしても写真、当時のサイバーショットのものだから画素が粗い。時代感ある。

沖縄移住

居候した部屋

00年代後半の4年間、那覇に住んだ。当時は貧乏旅行が賑やかだった。現在の「裏社会/バックパッカー/B級スポット/貧乏旅行/限界○○」などの記事で飯が食えている重鎮は、90年代~この時代に活躍してたんじゃないかな。アフターバブルの不況だけど航空券が破壊的に安くなったから。欧米以外の物価も相対的に断然低かったからね。(沖縄後に滞在したベルリンは首都なのに激安物価だった)

旅行者数などの数量的には現在も変わらないと思うんだけど、テーマパークとかインスタスポットのようなブーム以前だから、どれくらい非日常へ離脱できるかを競うような若者が多かった印象。それなりにええ大学や実家が太いやつらの卒業旅行は欧米、というのは今もその当時も変わらないね。

一般の旅行でも日本人はじっくり休むとかじゃなくて、移動距離や越境数、どれだけハプニングに見舞われたかを評価されて満足できるかに焦っている雰囲気がある。90年代後半から「癒しブーム」が始まったのに、現実はぜんぜんそうならなかった。だからこそ癒しか…(アホくさ)

筆者ベル民は、その流れに乗りたくないなーって気分だったから、国内を転々として地域色があるような仕事をやってみたいなー、となった。大竹伸朗に感化されたのだと思う。

内間おばあの飯

東京で貯めた資金で那覇に部屋を借りた。6畳2間と4畳半の台所の2K。天久の新都心あたりや58号線沿いにはワンルームマンションぽいのもあったけど、セメントブロック積みやコンクリートで雨風に強く「湿気をたっぷり蓄える」無骨で、内地の都市よりはやや空間にゆとりがあるアパートが多かった。家賃は3.5万くらいだったかな。大家さんに直談判して2000円くらい安くしてもらった記憶。価格交渉できたんだよね、沖縄は。あの頃。(いま東京で住んでる部屋も大家さんにお願いして割り引いて貰ってる。交渉は大事!けど、お願いの仕方や態度はもっと大事!そこはやはりお願いベースで、当然だけど理由が必要)

いまじゃあさ、値引き交渉するやつは非常識のキチガイ扱いだけど、文化によるんだよ。地元のアーケード街のゲームショップでメガドライブを買う時にも交渉しようとして同級生にドン引かれたことがあった。ものの値段なんて流動的なもんなんだからさ。建築の施工価格なんかも最低価格はあるけど、どれだけふかして受注するかはオヤジの力量じゃんね。入札制も同じことじゃない?小売りだけ通用しませんって、それこそ通用しねえよ。

引越して間もなく、お隣の屋敷(沖縄ではお家のことを屋敷と呼ぶと呼ぶ年寄りが多かった)で解体作業が始まった。息子が建てた家に同居するとかで、借地だから上物を撤去するとのことだった。移住したばかりで無職の筆者は喜んで仕事を引き受けた。事前の交渉をしなかったのも悪かったけど、1週間くらい与儀さんがいない間もせっせと手作業でバールとハンマーだけで屋根を落としてかなり進めたのに4千円しか貰えなかった。そんなオヤジの息子だから家が建ったんだろうな(笑)。隣にいた夫人が「もっとあげなさいよ!」って言ってくれたけど現実は変わらなかった。沖縄はオバアが強いイメージの人いるかもだけど、父系社会だよね。グータラな旦那を女が支える、一言で言えばそんな感じ。

与儀さんち

遠景の屋根瓦と植栽のオオタニワタリで沖縄だと分かるね。クルド人の解体業者を悪だと決めつけて誹謗中傷して差別する人がいるけど、んなもんゴリ押しでできる所もあるんだよ、いちいちうるせえなって思う。杜撰なのはもちろんダメだけど。オレに比べたらクルド人は日本橋三越くらい丁寧だわ。

前の写真のメシは、裏の屋敷に住んでいたオバアからの差し入れ。ほろほろジューシーとなんか肉。沖縄の家庭料理だと、なんか分からん肉が時々出てくる。チキンなんだろうけど、チキンの味がしなくて謎。しょっちゅう飯を作ってくれた。頼んでもないのに。内地でも、年寄りが食え食えってあるじゃん。内地の「食え」は暗にこちらからの提供も期待してる感じがあるけど、沖縄の「カメーカメー攻撃」(食え食え)は割とすっきり。同じ釜の飯を食って仲良くやろうぜって気概を感じた。

内間オバアは浦添あたり、沖縄本島の中南部の出身で、スナックを経営していた。息子夫婦がいるが、本人は生活保護を受けて「ハナ」と名付けた小型犬を買って生活していた。そんなところにナイチャーの青年(沖縄では働ける年代の若者~中年あたりを青年と呼ぶ)がやってきたもんだから、嬉しかったんじゃないかな。近くの食堂で奢ってもらうこともあった。最初の住宅には2年住んで、向かいの書道教室の家族にもよくしてもらった。

FTR225

かなり良いエアコンを取り付けた。湿気をバリバリ吸ってくれるやつ。汗かいたシャツを放置しておくとすぐにカビるし食品にたちまちコバエが発生する。乗り回していたバイクが懐かしい。やんばるまで出かけて、夜331号線を南下していると、暴走族の集団走行にすっぽりはまったことがある。数百台の規模で、最初やべ~と思ったけど、ぜんぜん暴力的な感じじゃなかった。他にやることないし、つるめて楽しいから、そんな雰囲気だった。中には反社会的な組織に入る前の子もいたんだろうけど。全部が悪ってことはない。

廃屋満タン

3年目から繁華街に近いエリアに引越した。正確には、一度内地に戻ってから那覇に帰ってきた。場所が変わると生活文化も変わる。

若狭の公設市場があったマンション

Googleマップで確認すると、なじんだ建物の多くがなくなっている。残念な気持ちだけど、そういうものだよね。

沖縄そばの手打ち

近所の職人さんが若者を集めて沖縄そばを一緒に作った。頼んでもないのにこういう付き合いが始まるってのもいいもので。たまにこのオヤジに呼び出されて居酒屋に行ったら「お前は暗い、どうしようもない」ってなじられる係にされた。数か月後に脳卒中で倒れ、そのまま他界された。船にも乗せてもらった。那覇空港の裏手の根にボートを係留して遊ばせてくれた。

漫湖のマングローブ
カミソリ鉄条網
平和学習

断りを入れるなら、筆者は左派でもないしリベラルでも、ましてや保守でもない。どっちつかずのええ加減さで生きている。沖縄に滞在中、なぜか台湾や内地の大学の学生と関わる機会があって、なんかそういう場面に立ち会うことがあった。継続して何もやってないけど、現実にこういう活動に尽力している人がいる事実を目視できた。(多くの記事で同性との性行為を扱っているけれど、ゲイでもないしLGBT当事者という意識も低い、なんにもなりたくない中年男性です)

那覇空港
臺灣
臺灣
ムーチー食う

台湾近いから、向こうからやってくるし、こっちからも行く。東京からの発着が安いのに憤慨した。ね、値段って流動的なの。お笑い好きのやつと那覇空港で写真撮ったけど、アホだよなあ。おバカな若者はとりあえず脱ぐ。

ムーチーは沖縄の甘いものの中で、ぜんざい(かき氷に豆が入ってる)と同じくらい好き。当時は第一次タピオカブームだったらしい。というか、台湾にはタピ屋がめっちゃあって、沖縄にも進出していてスタンプカード貯めていた。クィクリーのロイヤルパールミルクティーを何杯飲んだことか。

コザの商店街
美術館から

沖縄本島は、外周を車でまわると1日かけてやっとこさの広さだけど、地続きのお隣には行けないので、やっぱ狭い。20年も経っているからかなり変わっているんだろうけど、基地はそのまま残ってるし、それに反対する人、軍関係の仕事で飯を食っている人、みんなで生きているのも変わってないのは分かる。沖縄に住んだ人や、足しげく通っている人は知っている事実で、琉球新報と沖縄タイムスには頻繁に米兵の犯罪が掲載されている。内地にいた時にはまるで知らなかった。「現実を知る」ってこういうことから始まる。

トレル
事故

2週間くらいスペインに行っていた。ホームステイ。知り合った留学生がホストになって、バレンシアに行った。ヒースロー、バルセロナを経由した。バルセロナのファストフード店で、ツレが貴重品入りのバッグを置き引きされた。目の前で。地元の料理に舌鼓を打ってうかれている一瞬をやられた。近くにいたおじさんが「モロー!モロー!」と叫んでいた。ツレはオレを置き去りに勢いよく飛び出して追いかけた。もう犯人の姿は無く、すごすごと帰ってきた。荷物を盗まれたツレの心配などせず、置き去りに出て行ったことが腹立たしいし危険だと叱った。ベルトに隠していた紙幣で特急券を買ってバレンシアに行くのは出来た。宿泊初日の晩に、寝ている筆者の頭部に額が落ちてきてガラスが飛散した。ホストの家族が驚いて集まってきた。ツレは沖縄のアパートの鍵や身分証などすべて失っていたので、警察に届け出して証書類の再発行のため役所を回るのに付き合った。役所でも空港でも、受付の人がタバコを吸っていたのが印象的だった。ホームレスは活動的で、勝手に駐車スペースを案内してチップを請求されたりもした。ナイトクラブに行きたいと言ったら怒って止められた。暴力とドラッグが危険らしく。数日を失って闘牛や3大祭りのファジャスを楽しんで、帰国の飛行機に向かう列車が故障して立ち往生した。代替のバスが来るまでに2時間かかった。それは海外にしては早い措置だったんだろうな。

なんかよく分からんけど、巻き込まれがちな4年間だった。
また住みたいかというと、自転車やバイクにまたがってパッと遠くに行けないから、それはない。けれど、日本のほかの地域に比べたら魅力は強烈。住みたい。でも住めない。よほど愛してくれる人がいたら考える。難儀。筆者は別の離島の居住経験もあるが、やっぱ沖縄が良い。仕方なく東京に住んでいる。

那覇の海岸、夜

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