映画「死刑にいたる病」
映画「死刑にいたる病」
というタイトルだけを聴くと様々な憶測が湧いてくる。
この世の中には様々な精神疾患もあるし
商売をしている人々がいて
お金が欲しい人たちは法律とグレーな仕事で
金儲けをしている人たちも少なくない。
「死刑」とは法律で裁かれた人間の末路であり
「病」とは病的な個人の性質だと思った。
商売ではなくても、性癖などの犯罪で
何かを収集するような犯罪がある。
少年少女の運動靴や上履きを収集する人や
下着泥棒など
痴漢や暴力など様々な癖(へき)があり
それが法に触れる限度を超えてもなお
止めることができない癖(へき)もありえる。
しかし、映画の内容はタイトルの示す
「死刑にいたる病」という内容ではなかった。
今回の作品もまたもやテーマが黒いベールに包まれた
はっきりとテーマを言わないわかりにくい内容になっていました。
わかる人だけ感じてねという表現になっていたように思います。
とはいえ、この日本全体にはびこるこの闇は
おそらくかなり多くの人々が共感できる闇なので
この犯罪を通して、社会が抱えている闇の深さを
感じられる作品のような気がします。
この作品のベースにある犯罪者の病的な
他人を精神的に支配してコントロールする犯罪の手口に
2011年の兵庫県尼崎市の保険金目的で連続殺人があった
「尼崎連続変死事件」というのがあった。
それと2002年福岡県北九州市で
「北九州監禁殺人事件」があった。
日本的な普通の家族を破壊する
家族という内向的な共同体を個人が独裁的に支配して
個人の正義や損得、ヒステリーによって家族という共同体を
マインドコントロールに利用して最終的に殺害にいたる事件である。
これは、たまたま親族を殺すまでにいたったために事件として
社会問題になっているが
おそらく日本全体のそこら中にある一般的な家族に
潜んでいる問題なのではないかと思われます。
人口が少ない田舎の集落では、表面的な世間体を偽装して
家庭内でどのような暴力性猟奇性が隠されているかわかりにくい。
人口が比較的多い都市部の家族は、そもそもマンションの
隣や上下に住んでいる近隣の住民の顔や名前もわからない社会で
そんな中に、高齢者や女性、子供など権力もない弱い立場の人々が
家族という閉鎖的な小さな狭い世界で人権をどのように扱われているか
まったく見えない世界です。
他人の芝は青く見えるが如く、一見するとイオンを歩いている家族は
平和で仲良くて裕福で幸せそうに見える家族に映っていたとしても
玄関の扉を閉めるとその中のことは外部からはまったくわからない。
経済的な状況も親族との関係もまったく見えない世界で
その家族の支配者は世間体を欺くために見栄を張って
ブランドや髪や身なり、SNS上などの表面的な上っ面を偽装して
問題がない家族を演出しなけれあばいけない。
演出で済んでいればいいが、嘘や偽装のための見栄に溺れて
精神が蝕まれて朽ちていく人も少なくないと思われる。
特に、30代〜40代は友達関係の上で自分の身の上を偽装するために
友達の間ではこのようなキャラクターということを演じなければいけない。
そのような病理が現代人を深く蝕んでいるという社会背景があります。
今回の映画は、社会的な表面上は善良なパン屋さんを演じることによって
快楽殺人であることを完全に隠すことに成功した泰村大和(阿部サダヲ)と
突然その死刑囚から手紙が送られてきた筧井雅也(岡田健史)のふたりを主軸に描かれている。
この映画の怖さは、世間で猟奇とかサイコパスと表現されているような
殺人鬼が持っている個性を深掘りして、幼年期に湧き起こるリビドーの発動によって人間が動物的な本能によって現れる猟奇性を描写しようとした
ところにある。
一般的な社会人がいう「常識」とか「当たり前」などという共同幻想は
人間の脳の前頭葉の部分によって社会通念を理解し、法律や宗教のような
道徳観の概念が育つことで養われていくものである。
ところがこの脳の前頭葉の社会性が未熟な子供は、まだ何がよくて
何が悪いことなのかわからない時期というのがあって
前頭葉が未成熟な時代は、他人を平気で傷つけたり、小さな虫を殺したり
小動物を殺したりなど、一般的な感覚では残忍で非人道的な行いを
やってしまうことがある。
高齢化してきた脳の前頭葉もだんだんとこの社会性が失われることによって
万引きや横領、窃盗、痴漢など、社会的なルールによる縛りが弱まり
平気で他人を傷つけたり、物を盗んだり、お金を取る、他人を騙すなどが
できるようになってしまうことがある。
人間が持っている他人を傷つけることに痛みがない人の
猟奇的な怖さはそこにある。
もうひとつは、普通は他人の行動をコントロールすることは不可能だが
それぞれの独特のキャラクター性を利用することで
他人を意のままに操って利益や快楽を得る人たちがいる。
これが1995年に有名になったオウム真理教事件で有名になった
「マインドコントロール」という状態だと思われる。
これは、宗教や会社や家族などの小さなコミュニティの中で
小さな世界で囲い込むことによって価値観を歪めて
絶対そうに違いないという歪んだ絶対的な善悪を埋め込むことによって
その人の価値観をコントロールして行動を支配してしまう現象がある。
今回の映画で描かれた殺人鬼はまさにそれで
人の心の闇が手に取るように見えている。
そこにゆっくりと時間をかけて隙間に入り込む。
真面目で真っ直ぐで他人を信じる子供たちの心を掴むことに快楽があり
その信頼を破壊してぶち壊し打ちのめすことに執着があり
それだけ深い嫉妬の向こう側のような破壊への執着があった。
にわかには信じ難いことだが
世の中には一定数子どもをおもちゃのように扱う大人がいる。
彼ら彼女らにとっては子どもは支配できるおもちゃであり
所有物であり、自分のコピーであり、異性のコピーである。
社会で受けている鬱屈とした陰鬱な仕打ちを子どもにぶつけることで
快楽を感じている大人がけっこうたくさんいる。
我が子をネグレクトしたり、傷つけた後に別の人格が出てきて
「ごめんねごめんねごめんね痛かったね」などと言って保護し
子どもの精神を支配していく。
ヤンキーになっていくような人たちや
内向的で社会性を失ってしまった閉鎖的な人たちは
このようなオトナによって精神を破壊されて
そのままの状態でオトナになって
アダルトチルドレンになってしまう。
自尊心が欠落した自立できない未熟なオトナになってしまう。
そしてそのようなオトナが子どもを作り負の連鎖が続けられてしまう。
今まさに社会が抱えている問題の本質がそこに描かれている。
この負の連鎖から脱するためにはその闇からできるだけ遠く距離を置き
逃げて、自尊心を大切にして大人として自立した生活ができるように
ならなければ厳しい。
しかし、現実の世界では日本の家族という制度は完全に崩壊していて
世間体と家庭の温度差は限界を超えている。
生きにくい世の中になっている。
幸せな結婚式をして子どもを2〜3人産み育てることのハードルが高すぎる。
そんな社会問題はまるで存在していないかのように
幼稚園や保育園の騒音問題にクレームを入れたり
電車やバスなどでは子どもの鳴き声を聴かせてはくれない。
60歳前後(1960年代生)の世代が日本社会のイニシアチブを掌握していて
人口のボリュームが大きく、多数派を支配している。
子育ては圧倒的少数派で、出生は年間60万人しか生まれない。
それが日本社会の現実である。
病なのは子どもや子を産んだ親の個人ではなく
社会全体の高齢化による新陳代謝の無さこそが社会の病であるのだが
日本社会はそこに分厚く漆黒のベールを被せて見せないようにしている。
警察や消防は幼児虐待やネグレクトを把握できたとしても
今の家族制度ではそれを助けることはできない。
それこそがゾクッとするほどの現代社会の恐怖であり
病なのではないだろうか。
(リンク)
神戸連続児童殺傷事件(1997年)
尼崎連続変死事件(2012年)
北九州監禁殺人事件(2002年)
