ミステリー小説『誤認逮捕状』第四章 二十四
二十四
面会室を出ると、外で待っていた警察官がペンを回収し、元哉をそのまま取調室へ連れて行った。
すっかり見慣れた、二人の刑事の顔があった。
「座って」
これまでとは違い、口を開いたのは佐岡だった。
「録画されてる」
天井を指さしてから、中年刑事が短く言い放った。
「逮捕状が出た」
胸にナイフが刺さったような衝撃があった。
「全部、話すんだ」
「……」
「やったな?」
「……」
「どうだ?」
「……」
「どうした。話せ」
相変わらず、聞き取りにくい。
「黙ってちゃ、進まんぞ」
佐岡が顔を寄せる。
「もう一度言う。逮捕状が出たんだ」
ぶっきらぼうで、愛嬌の欠片もない声だった。
「どうなんだ?」
「……」
沈黙だけが流れる。
「話すんだ」
執行猶予を取りにいく。
池守の言葉が反芻されていた。
「……殺すつもりはなかったんです」
ほんのわずかに、藤村が身をのけぞらしたように見えた。
「状況は?」
「……どこから話せば?」
「あの日、遠山と会った時からだ」
獣のような佐岡の目線が突き刺さる。
「あの日はいつも通り、開店と同時に遠山と居酒屋幸ちゃんに入りました。夕方の五時です」
とにかく、暑かったのを覚えている。
「お店でそこそこ飲んでから、一旦私のアパートに帰りました。いつも窒素吸引の前には、うちに寄って準備してから外へ出るのがお決まりだったので」
何の疑いもなく、遠山はついてきた。
「でも店から家まで歩いただけで、もう汗だくになるくらい暑かったから、うちで少し涼もうってなったんです。それで、家でも何杯か飲みました」
佐岡はじっと聞き入っている。
「そのうちあいつが酔って眠りかけたので、窒素はどうするって聞きました。そしたら、吸いたいと。だから、二人で出かけました。刑事さんが言ったとおり、トートバッグではなく、スーパーレイシアのビニール袋に窒素缶を入れました」
二人で、いつもの場所へ直行した。
「あのブロックに座り、二人で吸いました」
「それで?」
「最初はいつも通りでしたが、そのうちあいつが『気持ち悪い』とか『吐きそう』と言い出しました。そこで、とっさにレイシアの袋を広げて顔の前で構えました」
藤村が、目を細めてこちらを見ている。
「とにかく、あの場所に吐かせないようにと必死でした。汚してしまうと、もう使えなくなるかもしれないので」
一度目の嘔吐がはじまると、そこからは堰を切ったように何度も吐き出した。
「袋一枚じゃ、足りないかもしれない。もっと持ってくればよかった、と思いました」
だが、袋から溢れる寸前のところで止まった。
「袋の口を結んで、ブロックに立てかけるようにして、こぼれないよう地面に置きました。そのうち、あいつがぐったりして前のめりの態勢になったので、地面に仰向けになるよう、私が寝かせました」
佐岡の目は鋭いままだ。
「『大丈夫か』って声をかけても、返答がない。体をゆすったり、頬を叩いたりもしましたが無反応でした。でも、息はしていました」
「確認したのか?」
「はい。しました」
「それで?」
「奇妙な音がしました。あいつの呼吸音が、変な音を立てていたんです。これは、のどに何かに詰まっているに違いない。そう思い、気持ち悪いけど指をあいつの口に突っ込んで取り除こうとしました」
「本当にしたのか?」
「……しました」
「どっちの手で?」
「……覚えていません。たぶん、右だったと思います」
右手を佐岡に示しながら続ける。
「こんな感じで、口の中の残置物を取り除きました。でも、変な音は止まなかった」
「で?」
「あいつが、何かつぶやきました。耳をすますと『水、水』と言っていました」
「飲ませたのか?」
「いえ。水を持ってきてなかったので」
「じゃ、どうした?」
「えっと……」
「なんだ?」
「袋の中身を、あいつの口の中に戻しました」
藤村が顔をしかめた。
「吐瀉物を遠山の口に戻したのか?」
若い刑事の表情を代弁するかのように、佐岡が確認する。
「はい。だって、家に水を取りに行ってる間に死んじゃうかもしれないし。でも、手元に水はない。だから、せめてもの水分補給になればと思って」
しばらく元哉を見つめてから、佐岡が口を開く。
「どうなった?」
「最初はうまくいかず、こぼれました。無我夢中でした。何度か試すと、うまく口に入っていったんです。どばどばって」
「それで?」
「そしたらあの野郎、いきなりむせたんですよ。咳で吐瀉物が飛び散って、気持ち悪かった」
眉間にしわを寄せながら、元哉は続ける。
「そのうち奇妙な音は、明らかに苦しげな呼吸音に変わりました。僕には、馴染みがありました。それで、やばいと思いました」
小学校高学年になるまで、元哉の喘息は続いた。
特に夜中、急に気管が収縮し、呼吸困難の症状が出るのが怖かった。
そんな幼少期の病歴を持ち出しつつ、元哉は説明した。
「なんというか、極細のストローから、必死に空気を吸い込もうとしているような感覚です。そうしているうちに、だんだん意識が遠のいていくんです」
母親が深夜に自分の背中をさすりながら、何度も「大丈夫だよ」と声をかけてくれていたのを思い出す。
遠のく意識の中で、その声から離れてはいけないと、必死で食らいついていた。
「あの時の遠山も、同じ呼吸音を出していました。案の定、しばらくするとあいつは身体を大きく痙攣させて動かなくなりました」
「それで、一一九番通報したのか?」
「そうです」
「袋の中の吐瀉物は、全て遠山の口の中に戻したのか?」
「覚えていませんが、全部ではないと思います」
「本当に遠山は、水を欲しがったのか?」
「本当です。嘘じゃありません。あくまで水分補給のつもりでやったんです」
「わら……」
「殺そうなんて、思いませんでした」
「……せんな」
「水がなかったから、仕方なく戻したんです」
「笑わせんな」
中年刑事の大きな声が部屋中に響いた。
「水分補給だと?」
「は、はい」
「お前は子供の頃、喘息だったと言ったな?」
「……はい」
であれば、気管に異物が入る恐怖やそのメカニズムを、人一倍知っているはずだろうと佐岡がまくし立てた。
「意識朦朧で、仰向けになっている人間の口に、ゲロを流し込むのが水分補給だ?」
言葉使いが荒くなり、迫力が増す。
「ふざけるな。それはな、明らかに窒息の誘発だ」
「ち、違います。僕は本当に……」
元哉の言葉を遮るように、佐岡が机を手のひらで強く叩いた。
乾いた音が取調室の壁に跳ね返る。
「それにな」
遠山が水を求めた時点で、すぐに救急車を呼び、そのうえで水分を探すのが普通だと佐岡が続けた。
「だが、お前はそうしなかった。理由はひとつしかない」
「……なんですか?」
「事故に見せかけて殺すためだ」
「だから、そんなこと……」
「だったら、なぜこれだけ嘘を重ねた?」
佐岡の質問が突き刺さる。
「なぜ最初から水分補給のためだったと言わなかった?」
「それは……」
「窒素の窃盗、トートバッグ、吐瀉物。全部後出しなのは、なぜなんだ? あ?」
広がる静寂の中、エアコンの微かな駆動音だけが部屋に響いていた。
「殺(や)ったんだろ?」
「……」
「言い逃れはできんぞ」
「……」
「観念しろ、寄居」
「……」
「意図的に遠山を窒息させた。そうだな?」
両手に拳を握りしめて、元哉は声を絞りだした。
「……はい」
若い刑事が、大きく息を吐いた。
第四章の二十三へ戻る
第四章の二十五へ進む
