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ミステリー小説『誤認逮捕状』第二章 十一

十一
 駐輪場に自転車を止めて部屋へ向かうと、今回は階段の陰ではなく、真下に刑事二人が陣取っていた。
 真っ向勝負、という言葉が浮かんだ。
「お待たせしました。どうぞ」
 元哉が先導して二階へ上がり、家へと招き入れる。
 すぐに、冷房のスイッチを入れた。
「お茶も、何もないですけど」
「お構いなく」
 藤村の表情は硬い。
「どうぞ、座ってください。座布団もなく、すいません。なにせ、こんな中年男の一人暮らしなので。普段、来客もありませんし」
 無愛想な佐岡の態度は、これまでと寸分も変わらない。
 二人の刑事が床に直接、腰を下ろした。フローリング素材に絨毯が敷かれてはいるものの、薄いため気休め程度でしかない。
「で、お話ってなんですか?」
 元哉自身は、椅子に腰を掛ける。
 自然と刑事二人を見下ろす形になった。
「先ほどの電話でも話しましたが、昨日、我々は御社で窒素の窃盗について調べました」
「大騒ぎでしたよ。警察が会社に、しかも製造現場にまで来たんですから」
「現場で社員さんに話を聞いただけでなく、窒素の貯蔵や使用に関するデータも受領して調べました」
「それも今朝、社長から聞きました」
「その結果、少なくともここ半年ほど、窒素の貯蔵量が不自然に減少している日が何度かあることが判明しました」
「……そうですか」
「本件はまだ、朝比奈社長には伝えていません。窃盗以外の理由もあり得るため、慎重に捜査を進めています」
 徐々に、クーラーが効き出す。
「ただ、私はまず窃盗で間違いないと考えています」
「なぜですか?」
「貯蔵した窒素が使用量以上に減る原因は、漏洩か窃盗です。しかし、ガス漏れだとすれば、ある程度の規則性があるはずなんですよ」
「規則性?」
「はい。たとえば毎日少しずつ減るとか、たくさん使用した日に減少しやすくなるなどです」
「……確かに」
「しかしながら、そういったものは見られませんでした。使用量と減少量が一致している日が続いているかと思うと、突然、ある日は一致せず、減少量が多くなったりします」
「……変ですね」
「ただ、不規則ではあるものの、ある一定の間隔で断続的に発生していました。つまり、とても人為的に見えるんですね。寄居さんは、どう思いますか?」
「さあ。私に聞かれても、よくわかりません。製造の人間ではないので」
「客観的に見て、人為的かどうかについては、どう思われます?」
「ですから、製造の人間に聞いてください」
「もう聞きました」
 間髪入れずに、藤村が答える。
「製造課長の方は、不自然で人為的に見えると言っています」
「……」
「ですので、ガス漏れではなく窃盗だと考えています」
「……証拠はあるんですか?」
「それは捜査機密なので、ここでは申し上げられません」
「そうですか」
「寄居さん」
「……はい?」
「単刀直入に聞きます。窒素の減少に、あなたは関わっているのではないですか?」
「私が?」
 眉間にしわを寄せて、若い刑事を睨みつける。
「いかがですか?」
「いかがって、そうおっしゃる理由は何なんですか? 私の関連を疑うからには、理由があって然るべきでしょう」
「何も知らないと?」
「理由を聞いてからでないと、答えようがありませんね」
 藤村が無言で佐岡を見つめたが、中年刑事は元哉から視線を逸らさない。
「わかりました」
 姿勢を正した藤村が続ける。
「遠山さんの解剖結果については、先週お伝えしました」
「はい」
「その中で、ご遺体の肺に膨張が見られて、低酸素状態にあったと話しました」
「覚えています」
「解剖医いわく、窒素なら説明がつくというんです。登山したわけでもない遠山さんの肺が、低酸素になる原因です」
「……どう説明がつくんですか?」
 背中に冷汗が流れる。
「マティーニ症候群という言葉を、聞いたことはありますか?」
 初めて聞く言葉だった。
「ありません」
「スキューバダイビングで使われる言葉で、正式な医学用語ではありません。シンプルに言うと、窒素中毒です」
 藤村の説明によると、特に深海に潜るダイバーの間で発生しやすい現象だという。その名の通り、強いカクテルを大量に飲み干した後に出るような症状だ。
「高い水圧がかかる環境下で吸い込むことで、窒素が神経系に作用して発症します」
「でも、スキューバダイビングで使われるのは、酸素ボンベですよね?」
「あれは名前だけで、通常はボンベ内には空気と同じ成分が入っています。窒素は七十八パーセントです」
「初めて知りました」
「具体的な症状としては、頭がぼんやりし、判断力が鈍り、現実感が薄れ、多幸感に包まれるそうです。深海でそんな状態になってしまうと命にかかわるため、ダイバー達の間では、危険な症状としてよく知られているそうです」
「……そうなんですね」
「解剖医によると、遠山さんが純度の高い窒素を口や鼻から直接吸い込んだ結果、窒素中毒を引き起こしていたとすれば、ご遺体の低酸素症の説明がつくとのことです」
 佐岡は、目をつぶっている。
「この見解を前提として、我々は再考してみました。なぜ遠山さんは、純度の高い窒素を吸引するようなことをしたのか。そして、どうやって窒素を入手したのか」
「なるほど」
 大袈裟に息を吐き、元哉は答える。
「確かに私は遠山の友人であり、うちの会社には窒素があります」
「はい。それも外注ではなく、自社生成だそうですね。窒素を持ち出すには便利な環境です」
 室温が、やっと涼しくなった。
「いかがですか。窒素の減少に、あなたは関わっているのではないですか?」
「昨日は、製造現場の社員に聞き込みもしたんですよね。うちの会社ということで言うなら、私なんかより、現場のメンバーのほうがよっぽど窒素を盗むのに適していますよ」
「ええ、もちろんです。ただ、彼らと遠山さんをつなぐ情報は得られませんでした。それに、彼らには窒素を盗む動機がありません」
 淡々と、藤村が続ける。
「窒素についてだけでなく、勤務実態や生活環境まで、幅広く話を聞きました。皆さん、できるだけ残業して稼ぎを増やしたいようですね」
 藤村のいう通りだった。
 オワダをはじめ、朝比奈工業では南米からの移民が多い。
 多くは製造現場での業務に従事しており、彼らは少しでも多く稼いで、祖国の親族に送金することが、働くモチベーションとなっている。
「ですので窒素の窃盗には適していても、理由がないんですよ。盗んだところで、お金にならないですからね。そんな馬鹿なことをして職を失うことのほうが、彼らにとっては大問題です」
 食堂での、オワダとの会話がよみがえる。
「私は……無関係です」
 部屋の空気が大きくうねったような感覚を、元哉は覚えた。
「本当ですか?」
「……はい」
「では窃盗に無関係だとして、遠山さんに窒素を吸引させませんでしたか?」
「いいえ。というか、そんなことどうやってできるんですか」
 強い口調で返すと、若い刑事は探るようにしばらく眺めた後、口を開く。
「わかりました」
 藤村は佐岡に視線を向けたが、中年刑事が動かないのを見て、話題を変えた。
「ところで、遠山さんのご遺体ですが、ご遺族に返されました」
 そう言うと、藤村は遠山の現状について説明した。
 先週の土曜日には、美崎家に返されたという。
 そして月曜日、つまり昨日に、親族だけで簡易的な葬儀が行われたようだ。身寄りのない遠山のことだ、遠山家からの参列者はいなかったことだろう。
 さらに藤村は、あくまで一般論だと前置きしてから、結婚時に夫の姓を名乗った妻は、死別後に複氏届(ふくしとどけ)を出して旧姓に戻す手続きを行うという。
 旧姓に戻すため、戸籍だけでなくマイナンバーカード、年金手帳、保険証、運転免許証、パスポートなど、多くの行政手続きに時間を要するとのことだ。
「なぜ、そんな情報を私に?」
「特別な理由はありません。今日は、以上です」
 二人の刑事が去っていった。
 会社に戻る気になれず、元哉は栗田にメールを打った。
〈急用ができたので、今日は社に戻りません。何かあれば、携帯まで連絡ください〉
 
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