旅のことを書く39|グラナダの石畳
グラナダに到着して、コルドバの街を思い出しました。コルドバは12日前に訪れたスペイン南部の街です。都会の雰囲気はないけれど、人も多く店や観光地が充実している、その規模感がちょうどコルドバに似ていたせいかもしれません。宿を探しながら街を歩いている時、路上の街灯が灯りました。オレンジの光が石畳の凹凸をくっきりと浮かび上がらせると、商店はシャッターを下ろし、街は静かに夜に向かって表情を変えはじめました。飲食店は客を迎える準備で忙しそうに働いていました。当時の僕は、夜の飲食店に疎くて、お酒を飲む習慣もありませんでした。そのせいか太陽が沈むと宿に戻り、静かに夜を過ごすことがほとんどでした。グラナダではドミトリーに泊まるつもりはなくて、部屋で残りの10日間の計画を立てるつもりでした。観光地を訪れる予定もありませんでした。
最初に訪れた宿は満室でした。僕は二軒目の宿に向かっている時、地図を持った女性が立っていました。彼女は、ちょうど建物の看板を見上げるように、小さなスーツケースを引いていました。見るからに観光客といった様子でした。彼女は、僕が探していた宿の目の前にいました。彼女が僕と同じ『地球の歩き方』の地図を持っていたので、すぐに日本人であることがわかりました。
僕は「こんにちは」と、声を掛けました。確信はありませんでしたが、彼女が気さくで旅慣れているような雰囲気を感じたせいか、僕は自然に挨拶をしていました。
「あ、こんにちは!」彼女が言いました。旅の最中に、たくさんの日本人に会いました。
だいたいの人は、互いに日本人であることに気づいているにも関わらず、口を揃えるように「日本人ですか?」と聞き合うことが多くありました。この挨拶でもなく、代替も効かないやりとりに対して、僕はむず痒さを感じつつも、深く考えはせずに受け入れていました。相手が何人であっても構わないし、自然な日本語を話せる時点で、通常のコミュニケーションはできます。だけど、同じ文化圏を共有しているという無意識の安心を得るためなのか、ほとんどの旅人は同じように、この奇妙な”定型分”を使っていました。
でも、彼女は少し違いました。
「まぁ、日本人やんな!」
彼女は、自分が(ほぼほぼ)関西人であることを図らずしてこの一言に込め、更に僕が流暢な日本語を話す外国人かもしれないという微量の可能性を打ち消し、僕の「こんにちは」という挨拶に自然に答えたのでした。
「ホテル探してんねん」と、彼女は続けました。
思わず「でしょうね」と言い掛けましたが、”予定調和な段取り”をすっ飛ばす彼女の話し方が僕には気持ち良くて、気づけば彼女のペースで会話をはじめていました。
「自分、どこからきたん?」
「東京です」
「ちゃうねん、どっからきたん?」
「あ、ジブラルタルです」
「そうなん」
「どこからですか?」
「マドリードやで。さっきグラナダ着いてん」
彼女も宿はまだ決めていないと言いました。僕たちは一緒にホテルに入りました。建物の中二階のドアを開けると正面にフロントがあって、カウンターの内側におじさんが座っていました。
「Ora」
「Ora」ホテルのおじさんは、ぶっきらぼうでした。
「空室ありますか?」
「あるよ」
「いくらですか?」
おじさんは、僕らを交互に見て言いました。
「ダブルルーム?」
「いや、シングルルーム2部屋です」
「シングル2つ?あるよ」
運良く空室がありました。彼女も、ここのホテルで問題なさそうだったので、おじさんに泊まる意思を伝えました。
「パスポート出して」
僕らはパスポートを渡しました。おじさんはパスポートを受け取って、壁に掛かっているルームキーを外して、僕たちに渡しました。
「ありがとう」と、言って鍵をもらいました。料金は後払いでした。僕は、パスポートを返してもらいたかったので「パスポートは?」と、おじさんに聞きました。すると、おじさんは「チェックアウトまで預かっておく」と、言いました。
大抵のホテルではパスポート番号のコピーを取ることはありましたが、無防備に預けたことがなかったので、少し困惑して言いました。
「街で使うこともあるから、パスポートを返してほしい」と食い下がると、
「いや、ダメ。預かる決まりなんだ」
彼女も「それはあかん」と言わんばかりに首を振っていました。
結局、僕たちは鍵を返して、パスポートを受け取りました。ホテルを出ると、街は暗くなっていました。暗い中を歩いて探すことは現実的ではなかったので、僕は、予め『地球の歩き方』で見つけていた、少し価格が高いホテルを彼女に提案しました。
「なんか、さっきのおっちゃん怪しかったな」と、彼女が言いました。
「ですね。パスポートを預かるパターンもあるんですね」と、僕は答えました。
「その”高級”ホテル、空いてるといいな」
「ですね」
彼女は、少しせっかちな関西弁とは裏腹に、ゆっくりとスーツケースを引いて歩きました。僕は彼女を案内するように、地図を見ながらホテルを目指しました。
「うちな、仕事で5回くらいエジプト行ってんねん」
「へー!エジプト行ってみたいです」
「でもな、一度もピラミッド見たことないんよ」
僕も、どちらかというと積極的に観光地を訪れる方ではなくて、滞在する街の雰囲気や息遣いを感じたり、その土地の匂いやリズムがゆっくりと肌に染み込んでいくような、抽象的な感覚を楽しむことが好きでした。僕はピラミッドを見たことがないと話す彼女に対して、勝手に親近感を覚えていました。
突然「明日、一緒にアルハンブラ宮殿行かへん?」と、彼女が言いました。
「思いっきり観光地やん」と、僕は心の中でツッコミたくなりましたが「いいですね、行きましょうか」と、無難に返答をしました。
僕はガタガタと響く石畳の音を聴きながら、ソワソワし出した気持ちを乾いた夜風に溶かしながら、道を間違えないように注意深く歩いていました。
