旅のことを書く38|グラナダへ流れるタバコの煙
ピカソの生家を訪れました。ここで偉大な芸術家が生まれ育ったことを考えると感じるものはありましたが、ピカソ一家の生活を想像するまでには至らず、ミュージアムに改装された観光地という印象でした。僕はマラガには泊まらずグラナダに行くことにしました。昼の12時を回っていました。
これまでは、思いつきで決めた行き先のチケットも、街のバスターミナルに行けば直ぐに購入することができましたが、5月も下旬に差し掛かると、徐々に観光客が増え始めていてバスチケット売り場にも列ができていました。僕は14時過ぎのグラナダ行きのチケットを購入しました。バスの時間までマラガの街をフラつくことはしませんでした。バスのターミナルのベンチで『ノルウェーの森』の下巻の続きを読みました。ページは、もう半分程度しか残っていませんでした。スペインの滞在は、あと10日。ページを一枚一枚読み進めるように、僕の旅も時を経て物語が蓄積されてきたように感じました。過ぎていく日々や旅の出会いと別れを憂うのでもなく、感傷に浸るわけでもなく、ただ経験だけが増えていきました。僕は、大学に在籍していましたが、特別優秀な生徒でもなければ、劣等生でもありませんでした。どうせなら手のつけられないほどの非凡な変わり者でありたいと思ったこともありましたが、それは先天的な性質のようなもので、努力で成れるものでもありませんでした。ごく普通の美大生であり、ただの学生でした。この旅の経験がどんな意味を持つのか?この時の自分には見当もつきませんでした。
バスが来ました。アイドリングするバスから放出されるガスの匂いが、また次の出発の時を知らせているように感じました。僕は、あと何回この匂いを嗅ぐのだろうか、そんなことを考えていました。運転手に行き先を確認してバスに乗り込みました。バスが走り出して進行方向にハンドルを切ると、窓から強烈な西陽が差し込んできました。紙面が眩しくて僕は本を読むのをやめました。隣の男性は、まだ雑誌を読んでいました。読んでいると言うよりは、時折独り言を漏らしながら、怒っているようにも見えました。記事が気に入らない様子で、手に持った雑誌を突き刺すように中指を立てて、首を大きく横に振っていました。前の席にはスペイン人の夫婦らしい男女が座っていました。男性は何処となくヒッピーを想起させるような空気感を纏っていました。皺々のストライプのシャツを着ていました。女性はピンクのノースリーブを着ていて、大きなレイバンのサングラスを掛けていました。
僕は、目を閉じました。
バスに揺られながら、残りの日数で行ける街の数を考えていました。グラナダ、ムルシア、アリカンテ、バレンシア・・・
時間は有限でしたが、それでも自由はありました。どこにでも行けたし、どこにも行かない選択肢もありました。不意に学校のことが気にもなりましたが、日本に帰れなくたっていい。この時点で、「自分自身が自由を感じることができない旅には一つも意味はない」そう思っていました。反対に、制約がない旅に面白さも刺激もないとも考えていました。相反する矛盾の中、僕はこの旅に何かしらの意味を持たせようとしていました。
タバコの匂いで目を覚ますと、前の男性が煙を燻らせていました。バスのルールを放棄した男性に、一時の嫌悪感を覚えながらも、その自由意志を尊重して、僕は自分の自由について考え続けていました。タバコの煙は、眩い西陽の中を優雅に流れていました。
