見えない月
「ご遺体、こちらです」
看護師に案内されて入った部屋は、冷たく、無音だった。
ベージュのカーテンが引かれ、その向こうに、父がいた。
白い布をかぶせられて。
看護師が布をめくった。
「父の顔」がそこにあった。でも、何も感じなかった。
ああ、死んだのか。
それだけだった。
「……実感、ないな」
誰に言うでもなく呟くと、背後から黒い服の女が現れた。
その隣には、少年。小学校中学年くらいだろうか。
「あなたが……長男の方ですよね? あの人の」
頷くと、女は少年の肩に手を置いた。
「この子、あの人の息子なの。最後の子。……あなたの弟よ」
返す言葉はなかった。
息苦しさだけが、胸の奥にじわじわと広がっていった。
母も、姉も来なかった。
それが当然だと、どこかで思っている自分がいた。
母は、俺にだけ厳しかった。
弟がふざけても笑って流すのに、俺には怒鳴った。
布団叩きを手にすると、狂ったように振り下ろした。
「お前は、なんでそうなの!」
バシン。顔に一発。
「人の気持ちもわからないのか!」
バシン。尻にもう一発。
そうやって何度も、何度も。
誕生日も、俺にはなかった。
弟には新品のゲーム。姉にはバッグやアクセサリー。
でも俺の前には、何も置かれなかった。
ケーキすら、なかった。
中学に入った頃のこと。
母が急に言った。
「施設に入らないか」
何を言ってるのか、最初は理解できなかった。
けれど本気だった。生活が苦しいからだ、と。
「……なんで、俺なんだよ」
絞り出すように訊いた俺に、母はこう言った。
「弟はまだ小さいし、姉は女の子だから」
その言葉が、ずっと心にこびりついて離れない。
――じゃあ俺は、なんなんだ。
家族の中で、なぜ俺だけが削れる対象なんだ。
その問いには、誰も答えてくれなかった。
唯一、病院に来たのは弟だった。
母に可愛がられ、いつも守られていた弟。
待合室の隅で、弟がぽつりと笑った。
「俺も、やられてたよ。バイト代……親父に」
「……そうか」
驚きも、怒りもなかった。
ただ、「ああ、そうだろうな」と思っただけだった。
「でもさ、俺には優しかったんだよ。釣りとか、教えてくれてさ」
「俺にもだよ」
その言葉が、静かに胸に沈んでいった。
「けどさ、それって、なんだったんだろうな」
「……わかんないな」
弟は立ち上がった。
「葬式、出さないんだろ?」
「ああ。金もないし、気持ちもない」
「……わかった。俺も、帰る」
それだけ言って、弟は出ていった。
背中は、まっすぐだった。
釣りに行ったのは、覚えてる限り三回だ。
一度目は川。二度目は海。三度目は湖。
夏の朝、父は突然「今日は学校休め」と言ってきて、釣り竿を持って俺を連れ出した。
「魚がかかった瞬間の感覚は、人生で一度きりの初恋みたいなもんだ」
そう言って笑った父の顔は、なぜか今でも鮮明だ。
でもその日の帰り、父はパチンコ屋に寄って、俺を車の中に残した。
二時間も、三時間も。
薄暗くなった川沿いで、菓子パンを食べながら、ひとりで時間を潰した。
楽しかったのは、ほんの前半だけだった。
それが、俺の「父」という人間の、原型だった。
病院の職員に、こう訊かれた。
「遺骨は、お引き取りになられますか?」
少しだけ迷ってから、首を横に振った。
「いえ、いいです」
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。
父に似ていた。嫌になるほど。
浮きがピクッと沈んだときの父の声が、ふと耳に蘇る。
――きたぞ!
あの声に、何度でも釣られてしまったんだ。
優しい“最初の一回”に、いつも。
でも父は、リールを巻いてくれなかった。
放ったらかしのまま、どこかへ行ってしまった。
この人は、誰に何を残したんだろう。
俺には、ただ……重さだけが残っている。
月は出ていなかった。
雲が覆っているのか、それとも、そもそもどこにもなかったのか。
見えなかった。ずっと、昔から。
夜の風が吹き抜ける中を、俺はひとり、歩いていた。
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