『遺書の筆跡』 第一章 父の死
あらすじ
父・康介が自宅で死亡した。
警察は自殺と判断した。
机の上には遺書も残されている。
しかし葬儀後、息子の拓海は父の書斎から奇妙な手紙を発見する。
そこにはこう書かれていた。
「もし私が自殺したことになっていたら、その遺書は本物だ」
意味不明な文章。
だがその下には続きがあった。
「ただし、お前は必ず誰かを疑う」
父はなぜそんなことを書いたのか。
拓海は調べ始める。
すると家族全員に隠し事があった。
母には秘密の口座。
兄には多額の借金。
叔父には父との金銭トラブル。
誰もが犯人に見える。
しかし真実に近づくほど、拓海は違和感を覚える。
父は本当に死んだのか。
そして最後に明かされる真相は――
この物語に登場する「父の死」そのものが、
読者と主人公に仕掛けられた最大のミスリードだった。
第一章 父の死
父が死んだのは、雨の日だった。
六月の終わり。
朝から降り続く雨が窓を叩いていた。
携帯電話が鳴ったのは午前七時十二分。
知らない番号だった。
寝ぼけたまま電話に出た僕は、数秒後、自分が何を聞いたのか理解できなかった。
「神崎拓海さんでしょうか」
女性の声。
事務的な口調だった。
「はい」
「宮崎中央警察署です」
嫌な予感がした。
心臓が一度だけ強く脈打つ。
「お父様についてお話があります」
その瞬間、眠気が消えた。
警察。
父。
その二つの単語が結び付かない。
「何かあったんですか」
数秒の沈黙。
そして女性は静かに言った。
「お父様がお亡くなりになりました」
頭の中が真っ白になった。
意味が分からない。
亡くなった?
誰が?
父が?
昨日の夜も電話したばかりだ。
いつも通りだった。
テレビを見ながら野球の話をしていた。
声も元気だった。
それなのに。
「自宅で倒れているところを発見されました」
女性の説明は続いていたが、ほとんど耳に入らなかった。
気づけば僕はタクシーに乗っていた。
窓の外を流れる雨を眺めながら、何度も父の名前を思い浮かべる。
神崎康介。
六十七歳。
退職後も畑仕事をしながら一人で暮らしていた。
頑固だが優しい人だった。
母は五年前に病気で亡くなっている。
だから父はずっと一人だった。
自宅へ着くと、黄色い規制線が張られていた。
胸が締め付けられる。
現実感がない。
警察官に案内され、家の中へ入る。
居間には数人の捜査員がいた。
そして。
見慣れた座卓の上に、一枚の紙が置かれていた。
「遺書です」
刑事が言った。
僕は紙を見た。
父の字だった。
見間違えるはずがない。
子供の頃から何度も見てきた字。
少し右上がりの癖。
独特の払い方。
間違いなく父の筆跡。
そこには短くこう書かれていた。
『拓海へ
迷惑をかけてすまない。
私は疲れた。
母さんのところへ行く。
康介』
たったそれだけだった。
短すぎる。
父らしくない。
そう思った。
だが刑事は淡々と説明する。
「現場状況から見て自殺と判断しています」
僕は何も言えなかった。
自殺。
その言葉だけが頭の中で反響していた。
父が自殺?
なぜ?
借金はない。
病気も聞いていない。
畑だって楽しそうにやっていた。
近所付き合いもあった。
自殺する理由が見つからない。
その時だった。
刑事がふと思い出したように言った。
「お父様の書斎は確認されましたか」
「書斎?」
「いえ、特に意味はありません。ただ机の引き出しが一つだけ開いていたので」
引き出し。
僕はなぜか気になった。
父は几帳面な人だった。
開けっぱなしにするような性格ではない。
案内されて書斎へ向かう。
古い木製の机。
本棚。
家計簿。
新聞の切り抜き。
いつもと変わらない景色。
だが。
机の一番下の引き出しだけが半開きになっていた。
僕はゆっくり近づく。
中を覗く。
そこには古びた茶封筒が一つだけ入っていた。
表には僕の名前。
『拓海へ』
遺書とは違う。
父の字だ。
だが。
妙な違和感があった。
封筒は開封済みだった。
まるで誰かが一度読んだあとに戻したように。
僕は震える指で中身を取り出した。
便箋は一枚。
そこに書かれていた文章を見て、僕は思わず息を止めた。
『もし私が自殺したことになっていたら、
その遺書は本物だ。』
意味が分からない。
だが文章は続いていた。
『そして、お前は必ず誰かを疑う。』
窓の外で雷が鳴った。
僕は便箋を握り締めたまま動けなかった。
その時はまだ知らなかった。
この手紙が。
家族全員を疑う始まりになることを。
