(掌編)誰も呼ばなかった名前【第27回】
その「存在」には、名前がありませんでした。
街の片隅、忘れ去られた空き地にベンチがありました。
彼はそこに、陽だまりのように佇んでいるだけでした。
ある日、少女が、誰もいないはずのベンチに向かって言いました。
「ねえ、あなた。名前は何ていうの?」
彼は驚き、透き通った声で返しました。
「僕には、誰からも呼ばれたことのない名前ならあるよ」
「なにそれ?教えて」
少女が隣に座ります。
「それは、言葉じゃないんだ。冬の日に水たまりが凍って靴で踏む音、あるいは、一番星が点灯する瞬間の瞬き。そんな、誰も名付けようとしなかったものたちが、僕の名前なんだよ」
少女は目を丸くして、それから楽しそうに笑いました。
「素敵。じゃあ、私はあなたのことを『ヒカリ』って呼ぶね」
「いいよ。でも、その名前は君だけのものだ」
月日が流れ、少女は大人になり、街を去りました。
空き地は駐車場になり、ベンチもなくなりましたが、彼はまだそこにいました。
彼は今も、誰からも呼ばれない「本当の名前」を胸に持っています。
けれど、時折吹き抜ける風が、かつて一度だけ呼ばれた「ヒカリ」という音を運んでくるのを、彼は静かに待っていました。
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