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鎮華春分 桜に囚われた千代の話 ~明治幻想奇譚~ 第四話 千代の記憶

 ふうふうと息を切らしながら、二東山の狐坂きつねざかと呼ばれるなだらかな坂道を登っていた。
 この二東山とすぐ北側の逆城神社のある丘陵の間の谷地が東海道が貫いている。丘陵のさらに北には古戦場のあった平地、二東山のさらに南には外洋に続く神津湾が広がっている、はず。今は緑に囲まれて全く見えないが。
 途端、ものすごく無駄なことをしている気がしてきた。いや、無駄だな。無駄に違いない。よく考えれば当然無駄だ。
 鷹一郎のリスト。
 なんでこんなものを揃えるのかを考えると嫌な予感を覚えるが、結局のところなるようにしかならない。俺が考えたって仕方ない。
 背負うは斧、スコップ、そういった代物だ。けれども切った掘ったの対象は逆上村であるはずで、二東山ではないはずなのだ。つまりこんな重いものを持って二東山に登るのはそもそもお門違いで、せいぜい俺の家に転がしておけばよかったんだよ畜生め。
 とはいえ今更引き返すのも時間を無駄にするだけだ。なにせ目的地の峠の茶屋はこの狐坂を登り切ったところにある。苦しい息を吐いて見上げると、ああ、もう目の前に茶屋の軒の端が見えた。

 何糞と最後の一息を登り切ると、唐突に世界は変化した。
 突如緑が切り開かれ、右手眼下にきらきら煌めく海が広がる。その崖をふわりと登る潮風に首筋を撫でられれば、急にぷるりと震えがくる。登り坂で散々かいた汗が急に冷たく着物の裏地を濡らし、鼻がむずむずし始める。
 なるほどここに茶屋が立っているわけだ。待ち構えたように女給に声をかけられた。
「一休みいかがですかぁ? 暖かいおうどんにおでん、お酒にお茶、なんでもございますよう」
「酒……はないな、まだ昼過ぎだ。甘酒あるか」
「もちろんでございます」
「1つくれ」
「はぁい、甘酒1つでございますう」
 奥からハイヨという声がかかる。案内された席はパチパチと爆ぜる火鉢の程近く、狐坂に面した海が一望できる。少し褪せた紅色の敷物の置かれた雅な縁台屋外席だ。素晴らしい景色だな。それに鷹一郎が登って来ればすぐにわかるだろう。
 歩き去るのは淡い朱色の生地に小さな桃色の四角で染め抜かれた江戸小紋、深緑と焦げ茶の鯨帯リバーシブル。それから朱色のかけ湯巻腰エプロン。なんだかその色合いは春めいて、襟足から見える白い頸筋がとてもそそる。別嬪さんだ。

 早くこの仕事を終わらせて、ドカっと報酬を頂きたいもんだ。軍資金さえ手に入れられればこっちのものだ。今度こそ大勝ちしてやらぁ。
 開けた海を眺めおろしているとなんだか気分も大きくなる。
「相変わらずお顔に品がありませんね、哲佐君」
「こちとらお貴族様の血なんぞ引いちゃいねぇからな。それよりお前さんは結局何やってたんだよ」
「朝に言った通りの役割分担ですよ。それよりソレ、持ってきたんですか。馬鹿じゃないの」
「うっせぇ」
 鷹一郎はふぅ、と呆れたように息を吐き、俺の前の席に着いた。全くひどい言われようだ。どうせ十中八九わざと言わなかったのだろう。言わなかっただろと聞けば聞かなかったでしょうといつも通りのやりとりが帰ってくるに決まっている。
 少しむしゃくしゃしながら見ていれば、鷹一郎は甘酒を運んできた女給を呼び止めみたらし団子と茶を頼み、『本当に哲佐君は駄目人間ですね』とのたまい俺の前の徳利を細い指で指した。

「昼だから甘酒だよ。もらった金をどう使おうが、かまやしねえだろ」
「まぁ、そうですね。湯呑みじゃないからてっきり酒かと。でも徳利で飲むのも乙ですね。私にも猪口を一つ」
「飲んだ分は払えよ」
「ここのお代ぐらい持って差し上げますよ。それにお酒は無病息災の厄除けなんですから」
 鷹一郎がちょうど届いた猪口をにやにやと差し出すので、仕方がなくトプリと注いでやる。それをこいつは実に美味そうに飲むのだ。
「ところで哲佐君は千代嬢がによって誰が得をすると思います?」
「存在しないことによって?」
 今朝方の調査の件か。妙な問いかけだ。
 存在しなければ探すも何もないだろう?
 うん?
 『いなくなった』ではなく存在しない。それはもとよりいないということだ。もともといないことにして、得をすること?
 例えば誰かから存在を隠している。それにしたってなんだか妙だ。そんなら出ていったとか、そう、死んだとかにすりゃあいい。
 『存在すること』を知っている者、つまり赤矢に『存在しない』といっても仕方がない。だっていたことを知っているんだから。

「わけがわからねぇが、結局のところ千代嬢は存在したってことか」
「まぁ、そうですね」
 鷹一郎はつまらないとでも言わんばかりに肩を上げる。
 ここからが本題だ。わずかに居住まいを正し、鷹一郎の仕事に耳を傾ける。
 鷹一郎は役場で逆上村の千代という娘の戸籍を調べ、名士の家に顔を出し、逆上村自体についても聞いて回っていたらしい。
 鷹一郎のもともとの実家は京都らしいのだが、帝都から来た元お貴族様の御子息ってことでこのあたりには多少顔が効くのだ。そしてその良く整った顔をニコニコさせながら話しかける。そのお上品な優男ヅラの裏を知らなければ、確かに鷹一郎は穏やかで人当たりがよい好人物には違いない。
「そんで何がわかったんだよ」
「そうですねぇ。まず行政区分上、正しく逆上村が実在すること、そこに正しく折戸家が存在し、正しく折戸千代という娘がいたこと」
「娘が?」
 先程からの小さな語尾の違いが妙に気にかかる。
「そうです。確かにその娘は存在し、そして昨年末に死亡届が出ています」
「昨年末ぅ?」
「死亡届を提出したのは折戸源三郎。千代さんのお父さんですね」

 明治の初めに整えられた戸籍制度によって、家長は戸長への死亡届出の提出が義務付けられた。それには医制に基づき開業した医師による死亡届出が必要である。
 死亡届が出てるんじゃ、探すも何もねぇ。それを赤矢という男に知らせれば全て仕舞だ。今回の仕事は楽だったな。そう思っているとまた溜息をつかれた。
「哲佐君、君は本当に単純ですね。死んだのなら『知らない』と言う必要はないでしょう。ただ、死んだ、と伝えれば良いことなのですから」
「それじゃあ赤矢が納得しないと思ったんじゃないかね」
 両親の看護のために出戻った娘だけが死に、両親は生きている。それは言いづらかろう。
「それでも親に死んだと言われたなら、納得せざるを得ないでしょうよ。折りしもこの寒波。逆上村で流行病が蔓延していたのは確かです。前後して8人の死亡届が受理されていました。虎狼狸コレラではないそうですが、実際死人は多く出ている」
 さきほどまでの涼やかな風が急に冷たく感じる。
 虎狼狸はこの崖の下、神津湾を訪れる異人の船が持ち込むのだ。
「ふむ」
「それにこの赤矢さんは千代さんが病気の家族の看病に実家に帰ったと思っているわけですから、病で死んだといえば諦めるでしょう。流行り病であれば看病する者にも伝染りうる。死んだものはどうしようもないんだから」

 死んだものはどうしようもない。
 どうしようもないとはちっとも思ってなさそうな目で鷹一郎は俺をみる。だがしかし、確かに『死んだ』と言われればそれ以上はどうしようもない。諦めもつく。墓でも拝ませてもらって……。
「墓?」
「おや、哲佐君にしては珍しく鋭いですね」
「うるせぇ。墓がねぇのか? 千代の死因は?」
「全身打撲ですねぇ。転落したそうです。あのあたりも崖はありますからそれでしょうか?」
 勢い込んで聞いた答えは妙に生々しかった。
「病じゃ、ねえのか?」
 妙にあげつらうような鷹一郎の口調。死んだってのに不謹慎なやつだな。いや、真実に死んだかどうかはまだわからないのか?
 この辺りの風習は土葬だ。
 お上は火葬を命じたり禁じたりとふらついてるが、今は伝染病なら火葬は絶対。だがそれ以外は自由のはずだ。事故死なら必ず墓が立つだろう。墓がないということは死んでいない?
「なら何故隠すんだ」
「さてどうでしょう。他にも『存在しない』ことにしたい理由はいくつか思い浮かびはしますが、あとは現地を確認してからですね。それでそもそも私たちはどこを探せばよいのでしょう」
「逆上村の桜林だろ?」

 鷹一郎は細長い指で丁寧に団子の皿を脇に寄せ、机の上にガサガサと地図を広げる。この辺でよく売られている観光案内図というよりは、より正確な行政の作った地図だ。中心には逆城神社があり、その北西部に逆上村という表記があった。東海道を起点に逆城神社の方角ににすすすと鷹一郎の指が動く。
「ここの参道の途中に梅林に向かう道があります」
「そうだな」
「そして梅林の少し先、北東に逆上村がありますね。さて桜林はどこでしょう」
「桜林だと?」
 地図には確かに『逆城梅園』という表記はあるが、桜林という表示はない。その周辺に目を動かしてみても、杉林や桃園という記載はあるが、確かに『桜』という記載はないようだ。だが俺にはそれが取り立てておかしいとも思えない。
「書いてないことだってあるだろ?」
「ではどこを探しましょうか」
「どこって……その赤矢とやらに聞くしかねえんじゃねえか」
「そうですね。丁度いらっしゃいました」

 茶屋の前の狐坂に目を移すと、ゆらりと影が蠢いた。既に日は落ちかけ、狐坂は両側を囲む木々の深い影が坂道の中心に向かって伸びている。その影の隙間からにじみ出るように、黒っぽい羽織姿にこれまた黒の角袖外套、それから駱駝の中折れ帽子が現れた。それがこちらに気づいてペコリと頭を下げた。
 ああ、こいつがあの手紙の主か……。
 みているだけでひどく悲しさを溢れさせるその気配に、なんだか酷く嫌な気分になる。
「お初にお目にかかります。赤矢誠一郎と申します。東京の鍵屋殿にご紹介賜りまして……」
「まあまあ堅苦しい挨拶はやめにしましょう。私は土御門鷹一郎と申します。こちらは助手の山菱やまびし哲佐君」
 あかるい高一郎の声に軽く交わした会釈は、狐坂に長い影を落とす。
 鍵屋というのは帝都で知り合ったおかしな何でも屋だ。ひたすらに人脈が広いものだから、時折こんな話が引っかかる。ひとおりの挨拶を済ませて赤矢は静かに席についた。

「赤矢さんはここに通われて長いんですか?」
「ええそうですね。一年ほどになります。ちょうどこの二東山のふもとの逆城南で建築の仕事をしておりますので」
 逆城南は今開発が進んでいて、次々と新しい建物が建築されている。赤矢はそのうちの一つを手掛けているのだそうだ。
「なるほど。今、逆上村のあたりの地図を見ていたのですが、あなたが手紙で書かれた桜林というものが見当たりません」
「桜林、ですか?」
 赤矢は顔を地図に近づけて村の周囲を見渡し、改めて鞄から眼鏡を取り出して再度あたりを見回した。
「確かに書いてはありませんね、桜林とは。……私もこの辺りの人に聞いたのですが桜林などないというのです。けれども、私は確かに見たのです」
 わずかに強まった赤矢の語気を、鷹一郎はさらりと流す。
「あなたがご覧になったことを疑っているわけではありません。ただ場所がわからねば行きようがないと思いましたので」
「なるほど。そうですね……この辺りです」
 気を取り直した赤矢が指さしたのは梅林のさらに奥、且つ、逆上村の奥。地図上には何かはわからぬが木の印がぽつりぽつりと記載されている地点。
 ふうん。
 なんとはなしに、辻切の高台から見た景色が思い浮かぶ。あれは確かに、このあたりだったかもしれない。
「桜林の広さはどのくらいなのですか?」
「広さ? そうですね、それほどの広さでは……手紙にも記載致しましたが、地面に雪があるところとないところがございました。雪がない範囲はせいぜい二十メートル四方でしょうか」
 さほど広くはないな。頭の中に広がる景色に丸をつける。
「桜は咲いていましたか?」
「いえ……桜はまだ咲いておりませんでした。ですからひょっとしたら、林の範囲はもっと広いかもしれませんし、狭いのかもしれません」
 頭の中の丸が伸び縮みする。
「あなたは桜の有無でその範囲を判断したのですね。けれどもどうやって桜と認識されたのです? 咲いてはいなかったのでしょう?」
 赤矢はわずかに首を傾げる。桜の木と他の木は、見慣れれば見分けはつくものではある。けれども吹雪の中、か。俺には絶対と言いきれる自信はない。
「……そう仰られますと、些か不安になってしまいます。けれども私はそこは確かに桜林だ、そのような確信があったのです。千代も桜林と言っておりましたし、確かに桜の香りがしたような……」
 赤矢と名乗る男は顎を擦りながら、何だか自信がなくなってきました、と寂しそうに独りごちた。その全身にはやはり、悲しみがにじみ出てみた。
 なんだか独り身の風来坊な我が身が身につまされる。博打を打って飲んだくれる毎日の暮らしと引き換えれば、この赤矢の真っ当に生きてきたのであろう人生は俺のようなやさぐれと違ってやけに人間味が溢れているように感じられた。思わず声をかけようとしたところを鷹一郎に遮られる。
 まぁ、俺なんぞが口を出してもこじれるだけか。

 千代さんの容姿やら好み、どんなものが好きかといった仔細に話は移る。今風のすらりとした美人だったらしい。
「ありがとうございます。ところでこの茶屋が千代さんが働かれていた茶屋でよろしいのですよね」
「ええ、そうです。時間がある時は丁度この席で千代の仕事の終わりを待って、山の麓の下宿まで送って行きました」
 赤矢の視線につられて南側の海を眺める。
 丁度時刻は黄昏。西にある山々に落ちかけた夕日が水面をオレンジと黒に染めあげる。二東山の南の神津湾の内側はすっかり茜色に染まり、その表面を笹の葉のような小舟が何艘か黒く漂っていた。そのさらに奥、開港場と外国人居留区のあるあたりには大きな黒船が一艘係留されている。それらの合間にチロチロとした銀色の波間と黒いカモメの影が浮く。
 この光景を夕毎に眺めていたのだろう。赤矢の半分赤く照った顔は懐かしそうに眉をゆがめ、そして悲しさを耐えるように口を引き結んでいた。その様子はやはり、やけに人間じみて見えたのだ。

 鷹一郎は丁度外に出てきた女給に声をかける。とたんに女給は頬を染めた。さっき鷹一郎が店に入った時もそうだが、俺の風貌を見たときとの反応とずいぶん違ってなんだかむしゃくしゃするぜ。
「前にこちらで働かれていた千代さんをご存知ですか」
「ええと、はい。けれどもその頃の私は千代さんがお休みの時に働いておりましたから良くは存じません。店主を呼んで参りましょうか」
 しばらくして出てきた五十絡みの店主に尋ねると、千代の人となりは先程赤矢から聞いたものとほとんど同じだった。
 千代が去年の秋に実家に戻って以降、この茶屋にもうんともすんとも連絡がないそうだ。とはいえ店主も忙しい。女給というのはちょくちょく変わる。だから気にはなってはいたものの、わざわざ千代の実家を尋ねに伺ったりはしていない。
「ところで赤矢さんはよく見えられていたんですか」
「ああ、赤矢さんなぁ。千代とねんごろのようだったなぁ。3日に1度はわざわざここまで登ってきてな、そうだな今頃の時分だよ。この茶屋は暮れまでだから、ようこの席で千夜の仕事終わりを待っとりましたなぁ」
 店主の顔も赤矢の顔と同じように紅に染まる。
 店主はふう、となんとも言えない息をつく。
「それじゃあ店じまいがあるんで」
 一つ頭を下げて店内に戻る背中も夕陽を浴びて赤く、何やら思い出を滲ませていた。振り返ると赤矢は未だに見るともなく海の方を眺めている。
「赤矢さん、それではまた改めて。日時につきましてはお知らせ致しますが、今と同じ時刻にお会いしましょう。次は逆上村の入り口で」
「わかりました。何卒、何卒千代をお願いいたします」
 鷹一郎は深く頭を下げる赤矢をじっと見つめて口を開く。
「念のため申し上げますが、全てがあなたの思うようになるとは限りません。あなたの一番の願いは千代さんの居所の確認、二番目は千代さんの無事ということでよろしゅうございますね? そのほかのことはそれより優先順位が低いということで」
「もちろんです。何卒お頼み申し上げます」
 鷹一郎の問いに赤矢は一瞬狼狽えたようだった。いったい他に何があるのだ、赤矢の目はそう物語っている。
 そうして赤矢の背中が闇に溶け切る頃にはすっかり幽けき日は落ちて、あたりは夕闇に浸されていた。

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