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【短編小説(ヒューマンドラマ)】 至福の一人鍋 3000字

[HL:みんな腹がへってしまえ]

 ガチャリと玄関の扉を開けた時、俺の心はとても浮き立っていた。
 なにせ、今日は待ちに待った一人飯。今日は金曜日で、最早俺の邪魔をする者などいないッ。
 そう思って力を込めて玄関を開け、その先が暗くてなんだか少しシュンとした。だからあわてて入口のすぐ近くにあるライトのスイッチを押す。今のポワッと沸いた、なんだか妙に少しだけ寂しい気分を打ち消すために。その瞬間パチっといつもの明るさを取り戻した廊下はやっぱり静かで、けれど気を取り直す。
 なにせ俺は今日のためにたっぷりと時間をかけて準備をしたのだから。そうだな、確か予定が決まった1か月くらい前から。けれど少し振り返り、マンションの外廊下に設置した冷蔵機能付きの宅配ロッカーと、その隣周囲に置き配されたいくつかの段ボール箱をみて、少しやりすぎたかなと思う。

 俺がやったことといえば、サイトを巡って美味そうと思った食材を小ロットにポチッただけだ。そう、トマトなら2個とか、茸なら1パックとか。最近はサブスクしてれば送料無料だから便利になった。
 美味そう。
 ぽち。
 美味そう。
 ぽち。
 そんなことを繰り返してしていたらこんなに増えていたらしい。けれどこの増加は途中である程度想像できてきたから今日の料理の可能性は可及的速やかに収束し、現在は1つのレシピともいえないレシピしか浮かばない。

 そんなわけで、今日は鍋である。なんでも突っ込めばいいのだ。そう思いつつ軽く鼻歌を漏らしながら宅配ボックスやそれに溢れた箱を取りに往復する。都合26箱。……思ったより大分増えていたな。
 しかし俺は割に大食いだから、きっと何とかなるだろう。
 頭のなかでシミュレートもばっちりだ。練り物、肉、魚、野菜と具財は多種多様で、だからこそベースはシンプルな昆布出汁。
 朝に出しておいたガスコンロの上には既に鍋は用意してあるし、その隣には酒燗器も常備されている。ガスも満タンの新品だ。
 よし、始めよう。実は最初の箱は昨日届いて既に開けてあるんだ。温泉水。ペットボトルを豪快にぼとぼとと鍋に開ける。この超軟水は酒を割るのにもよいが出汁を取るのに最適だ。そして昨日届いた2番目の箱に入っていた利尻昆布を温泉水に1晩つけたのをそっと鍋底に沈め、恐る恐るガスコンロに火を点ける。大きな期待が膨らむにつれて昆布の表面にぷくぷくと泡がつきはじめ、水面にあがってぱちりとはじけた。
 ゆっくりだ。何事もゆっくりだ。昆布はゆっくりと煮ださないといけない。それが待ちきれず菜箸が鍋の間を何度も往復するうちに泡がパラパラと上がり始めて沸騰する前にするりと取り出す。

 これでもう準備は完璧だ。
 やっぱり最初は豆腐だろう。京都の有名店から取り寄せた絹ごし豆腐が一番最初だ。湯豆腐はシンプルでなければならない。半丁するりと鍋に落とし、その間に深谷葱を小口に切って深めの容器にいれてポン酢を回しかけ、そのまま鍋に口だけ出すように鎮める。そうするとしんしんと香りが高まり……まだ食べちゃだめかなぁ。
 そう思うとおなかがクゥと鳴った。
 我慢ができない。そうだ、酒だ。酒を開けよう。チラリと酒燗器を眺めたけれど、最初は冷酒と決めている。高知の美丈夫、極上の微発泡酒だ。口の中はすでによだれが大洪水だけれど、切子のグラスにちょろりと入れて、虚空に乾杯する。
 さぁ、これで火蓋が切って落とされたのだ。俺を止める者はないもない。豆腐すくいで豆腐をすくい、同じ温度の葱ポンと一緒に口の中に放り込めばあつあつふふふと滑らかな絹が舌の上に滑り、さわやかなポン酢とあいまった馥郁たる豆の香りが鼻孔に抜けた。
 至福!
 ああ、生きててよかった。ん-柚? ちらっとそんな単語が聞こえたけれど、そんなものは後でいい。ゆずぽんなんかもうちには常備してあるけれど、柚はしょせん味編なのだ。残りの半分を後で食べればいいし。

 ええと豆腐の次は野菜だな。
 これはちょっと失敗したなぁと思った。野菜って1つでも結構デカいのだ。とりあえず目の前に仙台白菜1個、練馬大根1本、各務原にんじん1本、覆下こかぶ1房が鎮座する。葉物は香りがあるから後。聖護院とかポチるまえに巨大なものは控えたけれど、1本ずつとかでもなんていうか、結構な量だなぁ。
 よし、とりあえず大根人参は首の方を少しと蕪は1個を拝借して軽く面取りして放り込み、白菜は葉の2枚ほどを重ねてざく切りにする。
 ああ、早く肉が食べたいなぁ。そう思っても、シンプルな野菜の味を楽しめるのは今だけなんだよね。
 そこへ鳥居だしたる各地の鍋つゆのミニボトルだ。いそいそとたくさんの小鉢を用意し、美丈夫の代わりに取りい出したるは広島の名酒雨後の月。これを新しいグラスに少しいれ、酒燗器にもセットする。
 豆腐で小康を保っているとはいえ、ぐつぐつと煮えゆく野菜の隣にぷぅんと日本酒の香りが立ち上っていくのだ。ああ、なんとなく夜に花見でもしてる気分だな。ひょっとしたらすでに少し酔っぱらっているのかもしれない。
 あれ。まだそんなに飲んでないぞ。
 でも、この雰囲気に。好きなものを好きに食べる幸せに乾杯と再びグラスをかかげた。王道楽土だ。

 そんなわけで野菜をつまむ。
 お取り寄せというのはやはり何か、普段食べている野菜とは違う香りがする。それがシンプルな昆布出汁のなかでまじりあいつつそれぞれの個性を発揮している。個性、か。
 しょうしょうほてり始めたのは、熱燗をおちょこで何杯か煽ったせいだろう。酒に弱くはないが、さほど強くもないのだ。
 さて、とうとうメインディッシュ。肉でも魚でも、なんでもござれ。
 どうしようか、やっぱり味が薄くてもうまいもの、海産かなぁ。枝幸の帆立、寒真鱈の切り身とその白子。それを鍋に投下する。
 野菜をもう少し食べたい。
 そう思って振り返り、小さく積みあがった箱を眺めた。まだまだ序の口だ。肉もあるし。しかも地鶏、ブランド豚、和牛。それらが少しずつ。それらを食べることを考えれば、野菜を入れる隙間がない。
 ……困ったな。
 それから少しだけ、そう、なんだか少しだけ寂しくなった。
 でもきっと気のせいだ。俺は食べたいものを選んで、集めて、今食べたいように食べている。少し食べ方にこだわり過ぎたかもしれないな。肉をもう少し早く始めてもよかったかも。
 でもそうやって選べるのも自由でまたいい。

 そう思って食んだ肉厚の帆立はジューシーで、噛み締め歯を立てるたびに上質な昆布と帆立から染み出るうまみが口の中を満たす。噛めば噛むほど味覚を潤すそのうまみは尽きることがない。
 鱈もね、ほろほろと口の中で崩れるんですよ。まるで淡雪のようでその地味が溜まらないし、白子なんてうまみの爆弾だ。
 よし。肉を食べよう。
 今日は自由にたべるんだ。食べたいように食べ散らかす! そのための日!
 それで軍鶏の歯ごたえに舌鼓を打ち、紅鶏の手羽元の骨をすすり、三元豚の薄切りを湯にくゆらせる。世の中にはこれほど味のバリエーションがあるのかと驚きに目を細める。さすがに取り寄せたモツや牛は味が変わりすぎてしまうからまたの機会に取っておこう。第一なにより、もう腹にはなにも入らない。

 そう思ってコンロの火を消して床に転がったら、リビングの電灯が俺を見下ろしていた。 
 やってみたかったんだよ一人鍋。俺は結構味の好みが強くてさ。鍋って複数人でやると出汁とか具財を入れる順番とかぐちゃぐちゃになってしまう。食べたいものを食べたいだけ食べたかったんだ。だからまあ、これも夢がかなったといえる。
 ……けれど、今は見えなくなった机の上には中途半端に食べかけの食材がたくさん転がっている。1人分ずつと考えたけれど、やっぱり食べきれる量じゃない。それできっと、俺は合計4人分くらいの食材を買ってしまったんだよね。まあちょっとわかってたんだけど。
 鍋のクツクツという音がとぎれれば、あとはただ、部屋は静かになった。この部屋がこんなに静かなのは、初めてかもしれない。そうすると急になんだか、寂しくなった。いつもの家族のざわめきを求めて天井に手を伸ばす。いつもはここで寝ころがってれば尚志なおしがよじ登って来るんだよね。そうすると美宇みうも。
 1か月前にあんちゃんが今日、子どもたちと実家にいくことになった。明日には帰って来るから、この静けさはきっと今だけだ。
 うーん。
 よし、片付けしよ。早く証拠を隠蔽しなければ。そうしてよいしょと起き上がると、たくさんの段箱がそこかしこに転がっているのを見えた。流石にここまで好き勝手しちゃうと怒られるな。
 それで食材を綺麗に冷蔵庫に片づけて、スマホでメールする。
『鍋の用意しといたから、明日の晩にたべよ』

Fin
いつもの締切1時間前トライアル。

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