小説書きのための映画観測:お前は本当は人じゃないんだろう?『パルテノペ ナポリの宝石』
遅滞のお詫び:最後から2番目の呟き通りの予定だったんですが、なんとなく気が抜けて遅滞しています(詫び。予定通りこれを除いて3更新で常駐解除予定。
こんにちは。
いつもの140字の映画レビューとは別に、現在公開中の映画の考察をします。僕は一応小説書きなので、読書も映画もテーマはたいてい小説に使えるか、です。
そんなわけで今回は『パルテノペ ナポリの宝石』。キャラクタの世界における存在意義とロールの拡張性について。個別の具体的エピソードの内容へは踏み込まないつもりだけれど、全体的な流れについてはネタバレになるかもしれない注意。
映画情報(From公式HP)
1950年、南イタリア・ナポリで生まれた赤ん坊は、人魚の名でナポリの街を意味する“パルテノペ”と名付けられた。美しく聡明なパルテノペは、兄・ライモンドと深い絆で結ばれていた。年齢と出会いを重ねるにつれ、美しく変貌を遂げてゆくパルテノペ。だが彼女の輝きが増すほど、対照的に兄の孤独は暴かれていく。そしてあの夏、兄は自ら死を選んだ…。彼女に幸せをもたらしていた<美>が、愛する人々に悲劇を招く刃と変わる。それでも人生を歩み続けるパルテノペが果てなき愛と自由の探求の先に辿り着いたのは――。
140字な感想:ナポリよ、お前は美しい。
このコーナーは考察したいから書くわけで、映画が面白いから紹介するのではない。前2本は結論として面白かった。この映画はひたすら美しい風景と女性が描かれるけれど、ストーリーは正直パッとしない。だから万人受けする映画ではないと思う(僕の感想、異論は認める)。その一方で、それこそが監督の狙いなんじゃないかと思う節もあるので、その辺をつらつらと。
著作権が怖いので中身の指摘は最小限。
考察:その人物は何を表象しているのか。
注意:基本的にネタバレはなるべく公式HP程度に収めるつもりではある。
注意:僕の勝手な考察なので、違うかもしれない。
この記事をお読みになられるみなさんはきっと小説書きが多いのでは。
今日は小説の話から。
小説を書くときには登場人物、キャラクタを作り、役割(ロール)を割り振ります。ファンタジーだと主人公、悪役、ライバル、魔王といった属性を意識して、もっといえばチーレム系だと主人公のまわりに集まって来る女性はお姉さん系、妹系、姉御系、不思議ちゃん。このようにジャンルに応じて一定の属性が付与されるのが一般的、というか当然だと思われています。だってみんな不思議ちゃんだと話を転がすにも大変だし、みんな姉御系ならきっと殴り合いが始まって最後一人しかのこらないでしょうから。
そんな風に、ありていにいえば登場するキャラの前提として、ロールというものが多かれ少なかれ観念されます(ただし純文は除く)。
今日はその深度についてエアに考えてみよう。
うん、例えとしてどうかとも思うんだが、今日はチーレムにしよう。
チーレムをお好みでないお嬢様方にはしばしお目汚し失礼します。
チート転生した主人公がチートの力で無双して女の子にモテモテ。最初は転生直後に盗賊に襲われた商人娘を助けて世界観を知り、冒険者登録してランク決めのために入ったダンジョンでなぜか凶悪な魔獣が発生して監督の責任感強めな剣士のお姉さんを助けて惚れられ、なんだかんだスタンピートでも起きて街を守ってお嬢様感のある領主の娘と仲良くなる。
そんなわけでチーターのロールをもつ主人公を様々なロールの女性が奪い合いながらもなぜか殺し合いに発展せず、仲良くハーレムを構築していくのがテンプレ的チーレム(うわぁ。
チーレムの面白さは僕にはよくわからんのだが、おそらく様々な女子からモテモテな男の夢的な奴なんだろうとは思うの。僕ならそんな心労で心臓つぶれそうな状況からは秒で逃亡したい、がそんな苦労をにおわせずただモテモテなところがファンタジー。
ここで注意が必要なのは、主人公がチーレムできるのは、チートの力を持っていて、それで無双できることが前提になる。だから主人公の一番のロールとしては女の子をひたすら助けるチーター(仮に『価値α』とする)で、助けられたからこそ女の子にモテるわけだ。けれどチーレムの面白さを分けるのは、群がる女子の描き分けと、主人公との関係だろう。
端的に言えば、各個別の女性と押し合いへし合いのラブコメ的表現がうまくいっているか、だと思う。それには主人公と女性のエピソード的な関与と、心的な交流が必要だ。
エピソード的な関与として、先に書いた出会いとか、チーレムのよくある流れでは、何か事件が起き、仮に女性Aと協力、助力又は反発をしてその事件を解決し、最後に大団円で終わる、というものだ。チート能力があるからと言って女性を放置して単独で山賊の巣に乗り込んで無双して悠々と帰ってきてはいけない。必ず女性との協力又は関与で、関係性を構築する必要がある。チーターだからといってチート描写(価値α)で埋め尽くしてはならない。
心的な交流としては、上記の事件をもとに主人公は各女性とイチャコラして交流を深めなければならない。山賊から助けたあとは『大丈夫か』とか心配してみたり、ツンデレに去るのをほどよく追いかけさせなければならない。恋愛がからむモチーフでは、主人公はチーターのロールを持っていても、人間関係において発揮すべきはチートさではない。チーター以外の、例えば押しの弱さ(自分の言う通りしそう)とか我が道を行く(から振り向かせたい)とか無駄に優しい(無駄にキュン)とか、そういった方の性格付け(これもまたロールとも呼ばれるけど、仮に『価値β』と呼ぶことにする)にもとづくギブ&テイクが必要だ。つまり助けた上である意味対等な人間としてモテる、時には嫉妬されたりもする。この関係を築くための価値βこそが、対人関係(恋愛・青春等)を面白さの基礎においたストーリーにとってはより必要な要素となる。つかこのコミュ力がないからリア粗だなと思いつつ、これで労せず上手くいくあたりがまさにフィクションなんだよな。
そんなわけで物語は主人公とヒロイン(ら)との人間関係の押し合いへし合いを経て継続・成立する。チーターとして圧倒的強者としての存在感を示すだけじゃだめなの。価値β>価値α。それに現代の恋愛は対等じゃないと成立しないらしいから。
さて、映画の話をしよう。
この映画で登場するのはチート的に美しいパルテノペ(『価値α』)、パルテノペと交差する何人もの登場人物(男が多いが)。人びとはそれぞれの属性として背徳や保護、権力といった属性、いわゆるロールを有している。ストーリーの中ではパルテノペは彼らと出会い、関係を作っていくけれど、その印象はどこか薄い。
理由を考えると、パルテノペの彼らに対する感情がいまいちわかりにくいんだ。けど別に彼女に個性がないわけじゃない。彼女は生まれ持った様々な価値αではなく、自らの個性という価値βによって四苦八苦しながら世界に関与しようとしている。けれど画面上で描かれているものは圧倒的にαの方だということだ。
これこそが多分監督の意図で、呪いだと思う。
彼女が価値βをいかに高めようとしても圧倒的な価値αによってすべてが塗り替えられてしまう。そもそもチーレムでヒロイン相当の人物(仮に『信奉者』と言おう)たちは価値βではなく価値αによって彼女に惹かれ、その後個性という価値βに惹かれていくものだけど、この映画ではカメラから価値βに関するエピソードは巧妙に排除され、その圧倒的な価値αしか映されない。予告編で流れる『美しさの呪い』が一番蝕んでいるのはパルテノペたる彼女自身である。
さて、この映画における価値αの根幹は何かといえば、彼女が述べる通り『私の名はパルテノペ』、つまりナポリだ。彼女は圧倒的に美しく退廃的で、そして退屈なナポリという街を体現している。だからこそこの映画に描かれるパルテノペ(人)も、海も、全てが美しい価値αを持ち、その内側の価値βは描写が極めて薄く、パルテノペが何を感じて何を考えていたのかもよくわからず、その研究内容は『人類学』という以上にちっとも明らかにされない。つまり価値βは、意図的に無視された。
だから本来ラブ的な要素があるこの映画は価値βによって共感・発展、面白さが発露するはずなのに、そこをすべてふっとばし、ある意味ストーリー的にいまい……に感じられるのは、ストーリー上の面白さをあえて排除したからだと思う。
さて、ここまで書いたことは全て僕の感想です。加えて今日の考察的なものはちょっと自信がない。僕も1回見ただけなので僕の勘違いの可能性も大いにあるし、全然普通の恋愛でパルテノペの内的な魅力はガンガンにじみ出てたよっていう見方の方が大勢かもしれん。けど別に僕の勘違いだってそれはそれでかまわない。キャラとロールの関係性を考える機会があることに意味がある。
パルテノペがナポリのロールを有していることは間違いない。そしてパルテノペの個性といえる価値βのロールは、全て価値αのナポリのロールに塗りつぶされた。最初から最後(の少し手前)まで、美しいナポリしか映していないように感じた。
つまり彼女は人である以前に街である。
ロメロのゾンビは消費者を現し、ジョーカーは狂気を代替し、ゴジラは核兵器の恐怖を体現する。必ずしも直接的な言及はなくても、これらは意図的にその役割として設定されている。そしてこれらの憑依は、おそらく構成の当初段階から設定しないと、この役割は適切に効果を発生しない。
そうしてこれらは、そのロールに基づいてきちんと相対する者を設定する必要がある。ゾンビが現れて何故だか消費に狂っていない人を襲わなければならないし、ジョーカーはその狂気を否定するバットマンと戦わなければならない。ゴジラはその脅威によって人々を恐怖させそして克服できないという事実のため消滅せずに海に戻っていく。
つまりこれらの働きはある意味ロールだが、世界観の根幹にかかわるロールといえる。その根幹的ロールを基礎として、話が作られる。つまり普通と逆なんだ。普通はおおよそのストーリーラインの上にロールを配置するけれど、これらの映画は世界の根幹のロールを基礎として、ストーリーや世界観を配置していく。
ロールとは一般的には担当や役割を示す。
最近のモノノホンではキャラクタの役割として、ヒーロー、ガーディアン、トリックスターなんかの類型を作れという。パッと思い直しても戦隊もので色によってキャラクタ性が違ったり、七つの大罪とかは概念をイメージしやすい。けれど、役割というものはそれにとどまらないはずだ。そういうテンプレ的なものを離れて、登場人物が何を体現するのかというのを改めて考えて設定に組み込めば、オリジナルのキャラ特性も発生し、世界観も深まると思われる。
えーと、もうちょっと色々書こうと思ったんだけど、書きすぎると色々ネタ的に支障があるのでこのあたりで。
といっても具体性がないとピンとこなかろうなので一つ。
小説で比較的最近読んだ死都ブリュージュでは、単独の人間が街自体を現したりはしないが、複数の人間が一定の役割を持つことで、街が人格を持って存在するかのように存在する。ブリュージュはパルテノペよりさらに憂鬱で倦怠感に満ちているが、著者は登場人物の集合を通して街という本来存在しないキャラクターを浮かび上がらせることに成功している。
こういう構成をするためには、ブリュージュという憂鬱な街を最初に立て(実在してるから立てるもなにもないんだが)、それを現すために登場人物を配置する。こういう話は、ラストを上手く書けば圧倒的に面白い。
えーと……この本の面白さがいまいちピンとこないのは、時代が少し隔たってるのと西洋の通常が解らないからに違いない。
ロールの話って一方向でもないんだよね。結構自由で、ロールというよりは存在の意味付けといったほうが正しいかもしれないな。
Quid es? お前は何者か。主要人物についてはそれを問いたい。
小説書きのための~のコーナーはまだ新しくて3回目ですが、Noteのつぶやき廃止にともない(略)、映画のエッセイは今回で最終回です。ご愛顧ありがとうございました!
このコーナーは反映していないんだけど、今後続けるとすればこちらに移ります。
あとがき
ラノベ書くときはヒーローとかロールを考えることもなくはないんだけど、僕は基本的にあんまりキャラ役割って立ててないんだよな。どうもヒーローだからどうする、というのがあまり好きではないのかもしれない。かわりに長編は設定は結構細かく作ってる。けど忘れて書くからあんまり整合はしない。
最近ちょくちょく思うのが、ロールがテンプレ(型枠)として形骸化しすぎて、本来入っているはずの中身がないなって思うことがちょくちょくあって。例えば転生していろんな神様が加護を与えるようなハイファって割とあるんだけど、それぞれの神の役割に名前以上のものがないのが多い。例えば武器とか鍛冶の神だから武器を与えるとかさ、それ以上に意味付けがないのが多いなぁという気がしていて。つまり神という魂もないし、鍛冶や剣という魂もなく、なんとなく剣から生まれる人のイメージが雑にくっついてるだけっていうか。テンプレ使うのは別にいいんだけれど、テンプレの中身が形骸化しすぎていてその設定いる? ってのが多い気がしてる。
ただこれは話の作り方の問題で、僕の話はもう少しロール的にやったほうがわかりやすさ的に公募に通りやすそうな気はしていて、色々悩ましい。
なんか最後愚痴みたいになったけれど、みなさまごきげんよう。やめると思ったらなんか雑な感じになって、予定の日付渡過しちゃった。
◆このエッセイが含まれる映画考察
◆140字の映画レビュー

